#2
買ったばかりの剣を早速腰に吊るしたアレスは、レイチェルを連れて近くの酒場へと入り込む。
普通ならばまだ成人を迎えていない――ソルディランド王国では十五歳で成人とみなされる――レイチェルを連れて酒場に入るなどという行為は非常識である上に、そもそも入れてもらえない場合も多い。一見すると十三歳という実年齢の割には大人びた雰囲気を漂わせる彼女ではあるが、小柄で細身で平坦な体型のせいもあって、最終的に実年齢以上に見られることはほとんど無い。
しかしながら、最近では酒を含まないランチメニューに力を入れている店も多く、そういう所であれば昼間に限り、子供だろうが赤ちゃんだろうが見咎められずに連れて入れるのが通例となっている。
いずれにせよこんな片田舎の街では、放浪者が気軽に食事ができる店など他にそうそう存在しない。まともなレストランで食事をしようと思えば、正装とまでは行かなくともそれなりにちゃんとした服に着替える必要があるし、予算も数倍に膨れ上がる。
アレスが扉を開けて中に入ると、そこには油とアルコールとわずかに黴がかった古い木の匂いが立ち込めていた。数人の酔っ払いのものと思しき大きな笑い声が響き渡る中、これは外れか、と顔をしかめる。しかし今更引き返すわけにも行かず、みしみしと音を立てる床を踏みしめながら奥へと進んでいく。
奥のテーブル席では酒飲み客たちが騒いでいるため、手前のカウンター席にまずレイチェルを座らせ、それから背負っていた荷物を下に置いた後、自らもレイチェルの隣に腰掛ける。
「いらっしゃい、旅の人とは珍しいね。ああごめんよ、うちはあんまり食事メニューは充実してないんだ。無いわけじゃないけどね」
奥からやって来た店員のそんな声に、アレスはぎくりと背中をこわばらせる。
恐る恐る店員の姿を見ると、それは二十代後半くらいに見える女性だった。エプロン姿で、どちらかというとふっくらとした体格のせいか、それとも生活への疲れが出ているせいか、微妙におばちゃんめいた雰囲気を漂わせている。
思わず反射的に立ち上がろうとして、しかし膝をカウンターの下面にぶつけて痛みに悶える。そんなアレスを尻目に、レイチェルが深くため息をつきながら店員の女に向かって告げる。
「それでは、その無いわけではない食事メニューからおすすめのものを二人前頂けますかしら。飲み物はお茶かお水で結構ですわ」
「はいよー」
そう返事をしながら店員が奥の厨房へと入って行くのを見て、アレスは大きく息をついた。
「……あんな色気も何もないような方でも駄目ですの?」
呆れたように訊ねてくるレイチェルに向かって、アレスは真面目な顔で答える。
「椅子からひっくり返るほどではなかったので大丈夫だ」
「わかってはいたけれど重症ですわね……」
レイチェルは頭を抱えて再びため息をつく。
それというのもこれというのも、全てはアレスの深刻な女性恐怖症が元凶である。
アレスの育った環境、そして生業にしてきた職のせいで、彼はほんの一年前まで、レイチェル以外の女性とまともに接することがほとんど無い生活を送ってきた。ところが一年前にそれが一変し、多くの女性があらゆる手を尽くして言い寄ってくる境遇に置かれることになり――その時の経験が原因で、アレスは一部の例外を除き、女性とまともに会話をすることはおろか、近づくことすら意志の力をフル動員させないと難しくなってしまったのだ。
その一部の例外というのは、かつて孤児院で自分たちを育ててくれた先生たちに近い年代の老婆や、男女の区別もはっきりしない程度の年齢の幼児、そして今こうして隣に座っている妹のレイチェルくらいのものである。
「お待たせー。ごゆっくりどうぞー」
店員の声に再び背筋を震わせながら、アレスはカウンターに置かれた食事に目を向ける。何の肉だかよくわからない肉の入ったスープに、小麦に良く似た何かから作られたと思われるパン。
スプーンですくって口に運んでみると、少なくともちゃんとした食べ物の味がした。次いでパンをかじってみると、よく噛めば普通に飲み込むことができそうである。この手の店にしては及第点と言えるだろう。
隣に視線を向けると、レイチェルは何やら器が内側まで薄汚れていることや、先程から蠅が何度もパンに着地してはすぐ飛び立つのを繰り返していることが気になっているらしく、今にも泣きそうな表情になっている。それでも何とか頑張ってスープを口に運び、目をつぶってそれを飲み込み、一瞬大きく背中を震わせてからため息をつく、という行動を繰り返している。
「あー……その、なんだ、今夜はちゃんとした店に行くか?」
「べ、別にこのくらい大丈夫ですわ」
そう気丈に答えはするものの、明らかにこのスープを最後まで飲み切るのは無理そうだった。
とはいえ、アレスの言うところの「ちゃんとした店」に行けばしっかり食べられるかというとそうとも限らない。信用できない人間が作った食べ物、あるいは誰が作ったかわからない食べ物などは、それだけでまともに喉を通らなくなるという、レイチェルの食に対する徹底的な神経質ぶりは、この逃避行が始まってからアレスを散々に悩ませてきたのだ。
更には味に対する感覚も繊細で、少しでも味付けのバランスが崩れていたり、食材が傷みかけていたりすると、途端に食欲が失せるのだという。それでもアレスが自ら作った下手くそ料理はそれなりに我慢して食べてくれることもあるので、何とかここまで飢え死にせずに来られたのだろう。
と、アレスがそんなことを考えていると、いつの間にか周囲を四人ほどの男たちに囲まれていることに気付いた。
正確には、男たちが囲んでいるのはレイチェル一人で、アレスは単にその隣に座っているのでついでに囲まれた、というだけの様相である。そもそも男たちの視界にアレスが入っているのかどうかすら怪しい。
「おう、近くで見るとびっくりするくらいの美人だなあこりゃ」
「お嬢さん、見ない顔だがどこから来たんだい? 良かったらあっちのテーブルで一緒に呑もうぜぃ」
「呑めねぇってなら酌だけでもいいからよ、野郎ばっかりで寂しかったんだ」
まずい、とアレスは顔をしかめる。よく見ると男たちは皆が襟元に見覚えのあるエンブレムを着けている。用心棒ギルドの発行する二つ星のギルド員証で、これは彼らが「とりあえず一人前と認められた」ギルド公認の用心棒であることを示している。おそらくこの街を拠点とする地元組だろう。
であれば、うまくあしらえばそれほど危険なことは無い――本来ならばそのはずなのだが、よりによってレイチェルに「うまくあしらう」などという真似ができるとは思えない。どのような返答になるかは彼女の気分次第なのだが――
「うわ……昼間からずいぶんと飲んでいらっしゃるのね。あなたたち、はっきり言ってかなり臭いですわ。わたくしと会話をしたいのであれば、あと十歩ほど離れていただけませんこと?」
どうやら、食事がまともに喉を通らなかった割には、彼女の気分はそこまで悪くはなかったようだ。これまでこのような手合いには何度も絡まれたが、とりあえず人間扱いしているというだけでも、この対応はかなり穏当な部類に含まれるだろう。
が、これを笑って受け流せるほどの度量は男たちには無かったらしい。
「おう嬢ちゃんよ、もう少し口の利き方ってもんを気を付けた方がいいぜ」
「いいからこっち来て座んな、これから俺たちがしっかり教育してやるからよ」
そんな男たちの言葉に対し、レイチェルが視線を鋭くして口を開きかけた――そこにアレスはすかさず手元にあったパンをねじ込み、そこから出ようとしていた言葉を物理的に押し止める。
「俺の連れが失礼なことを言ったみたいだな。代わりに俺が教育しておくから、この場は見逃してくれないか?」
アレスがそう告げると、男たちは一瞬顔を見合わせた後、にやりと笑って見せる。
「そうは行かねぇな。俺たちゃこう見えてもこのシマのコレもんなんでな」
そう言いながら、男の一人が襟元のエンブレムを見せてくる。先程もアレスが遠目に確認した通り、それは用心棒ギルドの二つ星エンブレムに間違いなかった。
「さすがにこのままにして帰すと沽券に関わって商売あがったりなんでな。悪いが、ちぃとばかしその娘を貸してもらうぜ。なぁに、そいつが素直に言うこと聞きゃ痛い目に遭わせたりなんぞしねぇよ」
もちろん、こんなことで沽券がどうの商売がどうのというのは完全に言いがかりである。アレスは重々承知していたが、しかし相手がその論法で来るのであればむしろアレスとしては非常にやり易い。
「なんだ、お仲間じゃないか。なら尚更俺の顔に免じて、この場は俺に任せてくれないか」
そう言いながら、アレスは右の襟をめくって見せる。
そこに留められているエンブレムは、地区を表す記号が異なることと、そして星が二つではなく三つ入っていることを除けば、男たちの身に着けているそれと極めて似通った代物だった。
途端に男たちの顔色が変わる。
「あ、ああ。そうだな」
「邪魔して悪かったよ。あとはあんたに任せるぜ」
「ねーちゃん、今日の代金ツケで頼むわ!」
口々にそんなことを告げながら、男たちは飲み残したエールすらもテーブルに置き去りにしたまま、そそくさと早足で店を出て行った。