鐘の音の前に
気がつくと私は、サフランの胸を押し退けて、走り出していた。彼の肩ごしに、会場を去ろうとする子爵の姿が見えたから。それとも、彼の目から逃れたかったから?
<ベル! 急いで子爵を止めて!>
「分かってる!」
子爵の背中が屋敷の奥へと消えていく。いくつもの部屋の前を通りながら、懐かしいような男女の喘ぎ声を聞きながら、私は子爵の背中を追った。
サフラン・ピエ・ボヌール。彼は私の名前を知っていた。屋敷から一歩も外に出たことのない私の名前を。ティータイムのみんなも知らない本名を。どうして。
子爵の背中が近くなる。
「子爵様! お待ちください!」
それでも彼は足を止めない。だめ、私のせいで、みんなの計画が。
私はその中年の背中に抱きついた。
「子爵様、意地悪しないで。あなたのために来たのに」
ようやく子爵は止まった。
「私は、人の手垢の付いたものなどいらん」
「そんな連れないこと言わないでよ。あなたが全部洗い流してくれれば良い話じゃない?」
自分の口はいったい何を言っているのか。思ってもいないことがつらつらと言葉になる。
「お前、十六そこらのガキかと思ったが、それは見た目だけか」
そう言うと子爵は下卑た笑いを漏らした。
彼の言葉の意味が分からない。しかし、私は多くの女性が父にしていたように、その肩にしなだれかかった。
「ねぇ、パーティーに戻りましょうよ」
「ならん。お前と一緒にいるところを見られるわけにはいかない」
そりゃそうか。でも、父の影響か、公の場で毎回異なる女性を伴うことに抵抗がない私は、普通の世間体というものが分からなくなっていた。
なんだ今夜は。父のことばかり思い出す。あのサフランって奴が私の名前を呼んだから?
「えー、残念。じゃ、何して遊ぶ?」
最上級の甘い声。もてはやされたこの美少女フェイスをフル活用する。子爵がうろたえるのが分かる。
「ふん。じらされるのは嫌いだ」
子爵は、私がついてくることが分かっているから、振り返ることなく早足で進んだ。でも、この先には、子爵の自室がある。
<ベルガモット! あと三分、いえ、一分持ちこたえて!>
「了解!」
でも、どうやって。手に汗がにじむ。その時だった。
「ここにいたのか、ベルガモット嬢!」
突然の背後からの声に、子爵が振り返る。その顔はただの不機嫌というだけじゃ済まないくらいで、怪訝そうに歪んでいた。
「探したよ。突然いなくなってしまうんだから」
無理矢理肩を引かれ、振り返るとそこには彼がいた。サフラン・ピエ・ボヌール。涼しげな顔して、なんてタイミングなの!
「これはこれは、初めまして、かな? このような場所まで、どんなご用件で」
慇懃な態度だが、どこまでも不機嫌。脂ぎった顔が歪み、子爵を更に醜くしていた。こんな男に抱きついたのか、私は。なんであんなことができたのか、私は自分が信じられなかった。
「失礼、ブッフ子爵。しかし、私とベルガモット嬢は約束がありまして」
「約束? ほう?」
子爵が私に視線を向ける。
「ええ。ファースト・ダンスをご一緒に、というね」
サフランは私の顔を除きこみ、王子様のような笑顔で話しかけた。
「君、ひどいじゃないか。まだ一曲踊りきらないうちに。すぐ戻るって言っていたろ?」
「そ、それは、その、」
子爵がぐっと声を殺すのが分かる。子爵は私をじっと睨んで、私を指さして言った。
「黙って聞いていれば! この私を誰だと思っている! ばかにするのもいい加減にしろ!」
サフランは、私と子爵の間に立った。
「子爵、それくらいにしておいた方が良いのでは?」
彼はそう言って、後ろを指さす。すると、そこには扉から顔を出した何組もの男女の姿があった。子爵の怒鳴り声に、何事か、とお楽しみの最中に顔を出してきたのだろう。
「お前、どうなるか分かっているんだろうな。アンドール館にこのこと一つも漏らさず伝えるからな!」
アンドール館。それは私が所属しているとされた高級娼館の名だ。ある程度の年齢の貴族ならば、一度は耳にしたことがあるはずの。
「何とでも言え。代わりに私が彼女と楽しむさ」
子爵の顔は汗にまみれ、最後にはうなりながら屋敷の奥へと下がってしまった。まだ舞踏会のゲスト達に挨拶しきれていないだろうに。しかし、それよりも、
「あんた、何てことしてくれたのよ!」
私は彼に食ってかかった。しかし、目の前の男は、何か哀れなものを見るようにしている。
<ベル! 作戦成功よ! 速やかに撤退!>
「え?」
そうか、子爵と公爵が言い合っていた時に時間が稼げていたのか。ん? 時間稼ぎ? もしかして、結果的にサフランに助けられたってこと?
私が彼について考えを巡らせていると、そのサフランの顔が間近にあった。
「了解」
耳元で、いや正確にはコール・ビーンズのそばで彼が囁いた。ポンムの反応はない。完全にばれてる!
何故気づかれた?
「つーか、あんた、そんなにあの男とベッドインしたかったわけ?」
「は?」
サフランは、子爵が消えた方を顎で示しながら言った。
「だってあんなに誘っちゃってさ。『イジワルしないでぇ! 何してア・ソ・ブ?』だったっけ?」
「やめて! そんな言い方してない!」
彼はその涼しげな容姿に反して、私の台詞を余計な調子をつけて言った。
「いーや、俺はそっくりそのまま言ったけど。子爵を誘惑して、何が起きるか分かってないとか言わないよね?」
分かるさ。そんなの。男と女の欲望なんて、実家では飽きるほどに……。ま、まぁ我が身のこととは思っていなかったけど……。
すっ、とサフランの手が私の顎に触れる。顔の輪郭を辿るように、そして彼の親指が私の唇にかする。私の奥の奥まで見透かすように見つめられ、私もその宝石のようなブルーグリーンの瞳を見つめてしまう。そこに彼自身は見えない。映っているのは私だけ。これじゃ、サフランの言うとおりじゃないか。何も知らない、ただの女の子。
「ふん。処女か」
なんだそれ! 今の、一瞬のドキドキは何だったんだ!
「しょ、! あったまきた! 何様のつもりよ! その股にぶら下げてるもん、二度と使えなくしてやろか!」
私がシナモン仕込みの決め台詞を言うと、相手は腹を抱えて笑い出した。
「あんた、相当ばかなんだな! ぶ、ぶははは」
「あんた呼ばわりはやめて!」
彼はおもしろくて仕方ないというように笑い続ける。
「だいたいね、私は自分の生きる道を模索中なの! 忙しいの! 全く、もう!」
「それで、娼婦ってわけ?」
彼は笑いが収まったのか、でも顔は笑いながら言った。
「……私、もう行かなきゃ」
全くおもしろくない。屋敷を後にし、早足で馬車に乗り込む。ドレスは乱れているし、なんだかムシャクシャして、きれいにセットした髪を手でかきむしった。
「出して」
「はい」
ああ、腹が立つ! 何者なの。私のことを知っているようだった。だけど、彼のことは分からずじまい。もう二度と会いたくない男だ。
それなのに。それなのに、王都のはずれのウヴァの店までの道中、彼のことが頭から離れてくれなかった。
改稿しました