サフラン・ピエ・ボヌール
改稿しました。かなり変わっています。
「ベルガモット・アールグレイ嬢?」
聞き覚えのない名前だった。いつもの女はどうしたんだ。
「え、ええ。なんでも彼女が一身上の都合で退職したとかで」
娼婦の都合? 妊娠か。全く、こんな日に限って。
今夜は我が子爵家が主催する定期舞踏会。社交のシーズンは、どっかしらの屋敷で毎晩のように宴が行われる。今夜は我々の番だった。順番だからといって、手を抜くことは許されない。評価を下げるわけにはいかない。
しかし、精神的なストレスは計り知れない。あいさつだの何だので、下げたくもない頭を下げて、言いたくもないお世辞を言って。パーティーのホストなんて、良いことなんて何もない。
おまけに今週は妻も屋敷のメイドたちも体調不良ときたもんだ。溢れんばかりのストレスをどこに吐き出せばいいのか。だから娼婦を呼んだというのに! いつもの女が来ないだと!
「しかし、ミスター・ブッフ、アールグレイ嬢はなかなかの器量良しでございます。お見受けした限りでは、まだ十六、十七の少女です」
ふん。若ければ良いというものでもない。純粋だけが取り柄の女を好む男もいるようだが、私にそんな趣味はない。
「どこだ」
「はい、あの黄色いドレスの」
執事が指さす先には、なるほど、初々しい少女がいた。肌を露出し、厚化粧をしても、その誰も触れたことのないような瑞々しさというものは隠せていない。そのアーモンド型の瞳、桜桃のような唇。内側から色づいたような薔薇色の頬は、将来を期待させる美人だった。確かに造りは悪くないじゃないか。
「悪くない。頃合いを見計らって部屋に呼べ」
「かしこまりました」
<ベル、聞こえる?>
耳からポンムの声がする。周りに悟られないように、私は答えた。
「ええ。ミルクとシナモンは」
<君のおかげで無事に潜入したよ>
私のおかげというのは、数分前に起こした転倒騒ぎのことだろう。ドレスの端を踏んで倒れるという大失態を演じてみせたのだ。私を娼婦だと思った執事が、助けに来たが、しばらく私は注目の的だった。
「次は?」
<子爵の気を引いて。その間に二人が任務を遂行する>
「了解」
会話が済むと、私は子爵の姿を探した。確かたぬきみたいな男だと聞いた。
「お嬢様」
私がキョロキョロしていると、目の前に先ほどの執事が立っていた。
「我が主人があなたとお話がしたいと。二人きりで」
彼の背中の先に、目当ての男がいるのを見つけた。会場の隅で、グラスを傾けながらこちらをじっと見ている。はっきり言って、脂汗をかかずにはいられないような、気持ち悪い中年の男だった。
「君、ちょっと下がりたまえ」
視線を戻すと、執事の肩を一人の青年が掴んでいた。かなり横柄な態度だ。青年は私より二十センチほど背が高いだろうか。髪は金髪ストレートで、前髪をななめに分けており、瞳は明るいブルーグリーンだ。つり目なのが、きつい印象を与え、薄い唇が冷たい人間に見せていた。
「私は彼女と踊りたい。どけ」
かなり強硬な態度だ。しかし、ここに来ているのはほとんど貴族か大富豪。執事にすぎない壮年の男は、一歩下がった。
それと同時に青年は、私の目の前に立ち、軽く礼をとる。
「私はサフラン・ピエ・ボヌール。あなたの名をお聞かせ頂けませんか?」
ああ、これが初めての社交界式挨拶ね。でも普通は爵位とか肩書きも合わせて言うものじゃない? いかにも娼婦の私には必要ないってことかしら。
「私はベルガモット・アールグレイと申します」
「先ほどはレディに見苦しいところをお見せしました。どうか私に最初の一曲をあなたと踊る栄誉を」
歯の浮くような台詞。甘い言葉。いかにも貴族的。つい一週間まえまで、この世界にいたというのに、もう川の向こうの世界になってしまった。ミルクが言ってた「こっち」にはそんなまどろっこしいことなんてないから。
「ええ、よろこんで」
彼の手をとり、子爵の方を見る。プライドを傷つけられたような表情を見せたが、一瞬にしてそれは楽しむような目に変わった。
この予想外の展開にも、臨機応変に対応しなくては。子爵の機嫌を損ねれば、ミルクもシナモンもおしまいだ。ここは、なんとしてでも子爵とその従者たちの注目を私に向けたままにしなくては。
「アールグレイ家とは聞いたことがありませんが、新興貴族かな?」
目の前の男は、私の腰に手を回しながら耳元で囁いた。そこにはコール・ビーンズが入っている。気づかれただろうか。ポンムにも彼の声が聞こえたはず。きっと下手に話しかけてくることはないだろう。
「いいえ、ただの商人の娘ですわ。そんな私と踊るなんて」
「商人の娘、ねぇ。俺は娼婦か何かかと思ったよ。またはそれを装っている何者か」
絶対ばれてる! いや、平常心。平常心。ターンするごとにこちらを見つめる子爵に流し目を送る。グイ、と男の胸に引き寄せられても、その肩口から子爵に視線を送り続ける。
「ねぇ、あんな中年おやじより、俺と楽しめば良いじゃん、ベルガモット」
チラ、と彼の方を見ると、そのブルーグリーンの瞳の中に、私が映っていた。思わず顔に熱が溜まる。まずい。子爵を見ると、その表情にはまるで余裕がなくなっている。
「ベルガモット、いや、シャルロッテ・セイレン・ラメール伯爵令嬢」
サフランの言葉に、弾かれたように顔をあげる。だってそれは、それは誰も知るはずのない私の本名だったから。
「どうして君がここにいるのかな?」
彼の目は細められ、でもその顔は全く笑っていなかった。