拾う神
改稿しました
「どういうことよ!」
私は彼女に吠えた。ドーヌ川のほとり、橋の下で。
「あら、見ての通りよ。この小便臭い橋の下に、ゴミを捨てに着たの」
そう言い捨てたのは、私の家の馬車に乗り、私の家の御者を使って私をここに連れてきた、忌まわしき女。毒々しい赤と紫のドレスに身を包み、黒いレースの手袋とヴェール付きの帽子がうるさくて、悪魔のようだった。
「こんなことして、許されると思ってるの!?」
「あら嫌だわ、お嬢さん。ただでさえ伯爵に嫌われてるあなただもの。あなたが死んだって聞いても、悲しんだりしないでしょう」
楽しげに笑う彼女の口元は赤く弓なりの曲線を描いていた。目は黒く墨で囲まれて、白目も見えない。
「私が死んでも? それどういう意味よ!」
彼女が目で合図すると、御者がナイフを取り出した。
「さ、扉を閉めて。これ以上汚物を見るのは耐えられないわ」
御者返事もせずに表情もなく扉を閉めた。そして彼は一歩ずつ私の方へと近づいてくる。
「ベニー」
彼は私が生まれる前から家に仕えていた一人だ。名前を呼ぶと彼の顔が苦しげに歪んだ。
「お嬢様。申し訳ございません。わたくしめは、ただの召使い。奥様に刃向かうことなど……」
そんな! だからって私を殺せるって言うの? 一緒に暮らしてきたじゃない! こんな女よりも、ずっとずっと長く一緒にいたじゃない!
「お嬢様、私はあなたを敬愛しております。あなた様を傷つけることを、どうかお許しください。しかし、せめて、せめて最後に……」
そう言うと、彼は私の耳元で囁いた。
「お嬢様、叫んでください。断末魔のように。」
ワケも分からずに、戸惑っていると、彼は私の髪を一束掴んだ。そしてナイフをあてがうと、私に目で合図した。
「ぎ、ぎゃあーあ、きゃー!」
彼は私の髪を切り落とし、再び私に合図すると、自らの足をスッと切った。私は驚きのあまり叫ぼうとしたが、ベニーがそれを許さなかった。
「奥様、事は済みました」
私は地面にはいつくばった。ベニーのねらいは分かった。彼は私を守ってくれた。裏切られたと思った。だけど、助けてくれた。
冷たい土の上に、私の涙が熱く滴り落ちる。
「まぁ、死にざまも汚らしいこと。さっさと行くわよ。あんたもその服どうにかしなさいよね」
きっとベニーの白いシャツは、彼自身の血で汚れているはずだ。
「失礼しました奥様。では、参りましょう」
馬の足音が早い。遠ざかっていくのが分かる。
私はゆっくりと身を起こした。
「ベニー」
胸から、何かがせり上がってくるのを感じた。まもなく嗚咽が漏れ、涙が止まらなくなる。私にはもう、何もない。シルクのドレスも、毛皮のコートも、広い庭の屋敷も、たくさんの召使いも、もてはやされた金の髪の一房もない。だけど、彼は私を生かしてくれた。
「うう、っく」
みっともないまでに泣き叫ぶことしかできない。ちっぽけで、無力だ。あの女が憎いのに、何もできない。花だろうと、蝶だろうと、夜の川辺の橋の下じゃ咲きもしないし、飛び回ることだって出来ない。
クソくらえ。こんな世界。私が見たかったのはこんな世界じゃない。折檻されるのを覚悟で、屋敷の塀を登ってまで見たかった景色はこんなのじゃない。やっと、やっと外に出られたのに、こんな望まない結果だなんて。
「お嬢さん、何があったの?」
足音もしない。気配もない。なのに人の声がした。見上げると、夜だというのに日傘をさした女性がいた。そのせいで、顔も体つきも見えなかった。
「捨てられたのよ。犬みたいに」
笑い声は涙と混ざって、闇に消えた。
「……でもね、絶対に見返してやるわ。私を生かしてくれた人がいるから」
何を言っているんだ。見ず知らずのおばさんに。
でも、私の口は止まらなかった。
「お嬢さん。付いてらっしゃい」
彼女は、夜の闇をも切り裂くような良く通る声で、私の目を上げさせた。
「は?」
気づいた時には彼女に手を取られ、立ち上がっていた。見えなかった声の主の顔が目の前にあった。茶色のヴェッルベットの帽子の下の顔は、四十代と思われる美しい女性のものだ。耳までの長さに切りそろえられた黒い髪。女性らしさはあるのに、その髪型は常識破りな短さだった。
「いらっしゃいな。私のところへ」
路頭に迷う運命だ。投げやりな気持ちにもなっていた。でも、彼女の後ろに広がる夜の景色が、さっきよりマシに見えたから、ついて行ってしまったんだと思う。