第三幕 御白石持行事(二)
八月の繁華街は人混みに溢れていた。
神宮都市には毎年何百万人という観光客がやってくる。そのなかでも夏休みは年末年始と並んで最も活気のある時期のひとつだった。大半が神の恩恵を期待してやってくる参拝客だが、その年齢層はバラエティに富んでいる。
隕石落下を契機とした世界的伝染病の流行、恐慌、国際紛争、いわゆる大衝突を経て、人々は神をより身近に感じだしていた。救いを求めて神社を参拝し、パワースポット信仰も活況を深めるばかりだ。そんな街の様子を、威彦は喫茶店の涼しい店内から眺めていた。
今年は二十年に一度の遷宮があった。神の引っ越しを前に、あやかしたちが騒ぎ出すのは威彦たち瑞垣にとっては想像に難くなかった。神が宿る御神体が移動する際に正殿の厳重な結界が外れ、神の力が一時的に弱まるからだ。いつ起こるともしれないあやかしの脅威を前に、手元の神子を増やす必要があると威彦は感じていた。
「そろそろ溜めておかないとな……」
神子はあまり長く持ちすぎるとロクなことがなかった。情が移るとも限らないし、二人との関係が周囲に露見するリスクが高まる。政府に黙認され警察の介入を受けないとは言え、神子の家族や知り合いなど、注意すべき事柄は枚挙にいとまがなかった。だから学校など、普段利用する場所で威彦は絶対に神子を作らない。
神子は自分に関係のない人間に限る。
それが威彦の持論だった。晴人のように幼なじみを神子にしていつまでも使役するなど、愚の骨頂にか思えなかった。威彦は帽子を目深にかぶり、窓の外に目を凝らす。街を歩く女性で、二十歳未満、ひとりでいるのが望ましい。
威彦はすぐに地図を片手にきょろきょろしている女の子を見つけた。手早く会計を済ませて喫茶店を出ると、帽子を取ってから少女に声をかける。
「どこを探してるの?」
なるべく爽やかに、親しげに話しかける。威彦はもともと顔立ちは整っているほうだが、不寺の神法を使って人に与える印象をさらに見た目以上に高めてあった。つまり大抵の女性からは魅力的に映る。素顔を晒して道を歩けば、いつでも女性からの熱い眼差しを感じるくらいだ。ここ最近妙につよい視線を感じるときがあるが、それもよくあることで慣れっこだった。
威彦は内心であざ笑う。女なんてものは、外見と神法の魅力でころっと騙されてしまう程度の生き物なのだ。
「あの、濃乃野神社を……」
恐らく歩きまわるのに備えたのだろう。底の低いぺたんこ靴におしゃれなアウトドアファッションに身を固めた少女は緊張で声を震わせた。
「樹齢千年のクスの木だね。パワースポット巡り?」
「は、はい」
「僕は普段ボランティアで神宮都市の案内をしてまわっているんだ。今日は休みだったんだけど、なんだか迷っているみたいだったからつい……声をかけて迷惑だった?」
威彦はにっこりと笑顔を向ける。花が咲いたかのように少女の顔に紅がかかり、威彦は嫌悪感で吐きそうになった。女の顔というやつが、威彦は大嫌いだった。
少女は顔をぶんぶんと振って迷惑じゃないと強調する。
「い、いえっ。全然っ」
「良かった」
威彦は心底安心したように柔らかい表情を浮かべる。
「ひとりで来たの?」
「はい。友だちが急に来られなくなっちゃって。汽車のチケットも取っちゃったし……」
「そうかぁ、それは残念だったね。でもツイてる。そのおかげで詳しいガイドと知り合えたのだから。せっかくだから僕が神社まで案内するよ」
「そんな、悪いですよっ」
「気にしなくていいんだよ。ひとりじゃ不安でしょう? ほら、ついておいで」
威彦が先を歩くと、少女は戸惑いながらもついてきた。
「僕は不寺威彦って言うんだ。きみは?」
歩きながら問いかけると少女はもじもじと答えた。
「ゆ、由美です。桂木由美です」
「良い名前だね。由美ちゃんはもうお昼食べた?」
「いえ、まだ……」
「ここからだと神社まで結構歩くんだけど、途中に神宮うどんの名店があるんだ。神宮うどんは食べたことある? そこのお店は地元民が推薦するんだから味は折り紙付きだよ。神宮都市に来たのなら食べておかないと。ね?」
これで彼女の望みどおり濃乃野神社に案内して、樹齢千年のクスの木の前で少し運命を感じさせるような言葉でも囁けば完璧だろう。ただでさえ光を浴びて優雅に輝くクスの緑葉は人の心を動かすには十分な荘厳さがあるのだから。
もう神子を手に入れたも同然だ。威彦は心の中でほくそ笑んだ。
***
口づけを交わす。情熱を示すそぶり。冷え切った心の底までは決して悟らせない。
「俺のこと好きか?」
威彦は訊いた。契約するには乙女の無償の好意が必要だ。
「ええ。……好きです。あなたが大好き」
「じゃあ約束だ。俺のことは誰にも言ってはいけない。良いね?」
威彦は念を押した。今日は一旦帰って、来られなかった友だちには一人で行ってきたと伝えること。三日後に誰にも何も伝えずにやってくること。威彦の忠告に、少女は戸惑いながらも幸せを逃したくない一心で頷いた。威彦は彼女の耳元で囁く。
「とも に めし もうす」
少女が雷に打たれたように激しく震えた。神子の契約は成立した。二人は主従の鎖で繋がれる。どちらかが死ぬまで、もはや離れることはできない。
***
それから威彦が屋敷に帰り着くと時刻はすでに夕方だった。
「ただいま戻りました」
玄関に入ると普段は真っ先に出迎えてくれるはずの母が出てこない。威彦は不審に思って奥にある母の居室を訪ねた。
「母上?」
艶姫は威彦に背を向けて座っていた。障子越しから黄昏の光を浴びて、まっすぐな黒髪が輝いている。威彦はそれを心底美しいと思った。よく見るとかすかに体が揺れている。どうやら眠っているらしかった。威彦は安堵の息を吐いて艶姫のそばに寄り添う。窓側を通ったために威彦の体が影を作り、艶姫にかかる夕暮れの日差しを遮った。艶姫はふわりと目を覚ます。
「あら、威彦……いたのね」
艶姫は慌てて濡れた目元をぬぐった。威彦はその仕草を見逃さなかったが、あえて見ない振りをした。
「母上、冷えると具合を悪くしますよ」
置いてあった上掛けをそっと艶姫の肩にかける。
「嫌だわ。ついうとうとと」
艶姫は威彦の手をとって自らの頬に押し当てた。
「最近なんだか式神が騒がしいのよ。今日も薄汚い鼠が一匹紛れ込んできて、……神宮学園の制服を着ていたから威彦のファンかしらね」
「それは申し訳ありません。あとは私が見回りますので、ゆっくりお休みください」
「大丈夫よ、と言いたいところだけどお願いしようかしら。本当に駄目ね。うたた寝しいるようじゃ……不寺の家を守れないわ」
「……母上、どこかお体でも?」
艶姫の珍しく自信のない言葉に、威彦は座り込んでその顔を覗き込んだ。恥ずかしいのか艶姫はそんな威彦の頭を胸元に抱え込んでしまう。脳幹を刺激するような母の芳醇な香りに威彦は思わず体をぎゅっと抱きしめた。
「……まあ、甘えん坊だこと……」
艶姫は優しく威彦の頭を撫でる。威彦はわかっていた。先程の母の涙が父を想っていたことを。
怨霊が、父を殺した。
自分がいれば、そうはさせなかった。
晴人がふがいないから父が死んだ。
つまりは晴人が、父を殺したのだ。
「威彦、立派に不寺を継ぎなさい。それがわたくしの切なる願いよ」
子守歌のように母の声が響く。威彦は大きく息を吸い込む。母の暖かさが心地よかった。
母を苦しめる者は許さない。
威彦は現世にはびこるすべてのあやかしを葬り去る心づもりでいた。そして晴人もそのなかに入れるべきかを考えている。母が嫌い憂うものは、すべて取り除かねばならないからだ。