第三幕 御白石持行事(一)
大暑を迎える頃、大飛鳥神宮ではいよいよ御白石持行事が始まった。御白石持行事では、完成したばかりの正殿が建つ御敷地に、御白石と呼ばれる河原の敷石を奉献する。一般人でも参加できる数少ない遷宮行事だ。一般募集された参加者から、古くから神宮と付き合いがある領民まで、延べ二十万人以上が約三週間をかけて奉献する遷宮で最も規模の大きい祭事だった。
これから十月の遷御に向けて幾つもの行事が立て続けに行われ、遷宮は大詰めを迎える。
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八月猛暑のある日、美野川から拾い集めた御白石を積んだ木ぞりを曳いて、晴人と葉月は御正殿へと向かっていた。外宮に御白石を運ぶ陸曳きには学校行事として神道系の学生全員の参加が義務づけられており、晴人は同級生三十人ほどと一斉に重い木ぞりを引っ張っていた。まわりには同じように御白石を運ぶ法被姿の各町、各団体の奉献団が御正殿までの道のりに華やかな列を作っている。肩に担いだ桶から、山車のように派手な奉曳車まで、人数も数名から数百人とその集団は実に様々だった。威勢の良いかけ声があちこちで掛かり、さながら祭りのような賑やかさである。
「あちー」
そのような荘厳な行事でありがら、晴人たちの木ぞりはあきらかにテンションが低い。あちこちで怨嗟にも似たうめき声が上がる。行程にして五キロほど、重い木ぞりを曳いて延々と炎天下のなかを歩くのである。運動に慣れない者や、授業の一環としか考えていない不信心な者からは不満の声があがった。晴人も円騨の修行で夜に慣れきった体に、直射日光は思いのほか堪えた。顔中に溢れる汗を腕でぬぐう。
沿道には見物客がたくさん集まっていた。笑顔で陸曳きの行列を見送っている。晴人はあたりを見回してその様子を感慨深く見つめた。どの顔もきらきらと輝いて見える。晴人たちの前を行くひときわ立派な奉曳車に大きな歓声が上がった。小さい子供が母親に連れられてその様子を見ている。母親と繋いだその小さな手を見て晴人は目を細めた。
(俺もあんな風に手を引かれて歩いたときがあったっけ)
父は優しかった母を道具として扱った。愛していれば、そんなことはできなかったはずだ。父に対する恨みがふつふつと沸き上がる。そしてそんな父と一緒になってしまった母を、晴人は悲しいと思った。不寺の悪しき伝統が、母を不幸にした。
今回の遷宮が終われば、晴人は街を出る心積もりでいる。
(そもそも葉月を神子にしてしまったのも、この遷宮のせいなんだ)
晴人は気合いを入れ直すと、歯を食いしばって木ぞりを曳いた。暑さも、重さも気にしていられない。なんともしても遷宮を無事に終わらせる。そして自由を手に入れる。
それがいまの晴人の精一杯の意地だった。
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「前の車に近づきすぎだ。少しペースを落とせ」
引率していた担任が注意した。気がつけば前の奉曳車との差がだいぶ詰まっている。一旦立ち止まって距離が開くのを待った。つかの間の休憩に安堵の声が広がって、みんな次々と地べたに座り込んだ。
葉月は一緒に木ぞりを曳きながら、細々とまわりの世話も焼いていた。法被姿ながら、巻いたさらしからのぞく鎖骨が眩しい。ただあまりに長い足はスタイルが良すぎてなんだか趣味の悪いコスプレのようにも見える。晴人はその白い肌が焼けないようにちゃんと日焼け止めとか塗ってるのかなと考えて、自分がその露わな太ももに日焼け止めをすり込んでいる姿を妄想する。すべすべなんだろうなと考えて、慌てて頭を振った。きっと暑さでぼっとしているのだ。晴人は顔をぱんと叩いた。葉月がタオルと水筒を持って近寄ってくる。
「晴ちゃん、すっごい汗だよ。ちゃんとお水飲んで」
晴人は手渡された水筒の水をぐっと煽った。喉がよほど欲していたのだろう。ごきゅごきゅと旨そうに音を鳴らす。
「お二人さん、写真を撮るよー」
同行していた新聞部の生徒が晴人たちを声を掛けた。
「やだよ、写すんじゃねえ!」
「えーっ! せっかくだから撮ろうよ。……えい!」
葉月が逃げる晴人の腕をとって強引に絡ませた。
「おいっ!」
「ほら笑顔、え・が・お!」
葉月は立体映像カメラを前に無邪気にピースサインを決め、晴人は仕方なく、やや困った顔でレンズを眺めた。一瞬の閃光。
「ありがとー」
「ほら、行くぞぉ」
担任の叱咤にクラスメイトたちが重い腰を上げた。御正殿のある外宮までは、あともう少しだった。
***
外宮に着いて第一の鳥居をくぐると、少しだけ涼しく感じた。あたりに緑が多いせいかもしれない。神妙な気持ちになるのはこの気温差か、それとも神域に近づいているせいだろうか。その両方だと晴人は思った。普通の人間は前者を、霊力があるものなら後者を感じるに違いない。
入り口でひとりひとり白い布に包んで持ってきた御白石を、出来たばかりの正殿の敷地に納めた。正殿からはまだ真新しい檜の香りが漂っている。御白石には自らの祈りを託すのが習わしだった。敷地にはすでに数え切れない御白石が納められている。それだけの祈りが、ここには集まっている。
晴人は強い祈りを込めて丁寧に御白石を地面に載せた。
正殿は瑞垣という石の囲いのなかにあって、神域と現世を分けている。不寺を含めたあやかしを退治する者たちの名も瑞垣だった。つまりは、あやかしを調伏して神域と現世を分け隔てている自分たちにも、同じように祈りが託されているのだと晴人は思った。
隣で葉月が同じように包みから御白石を取り出して置いた。彼女の祈りが何であるのか、晴人にはわからなかった。
晴人の視線に気付いて葉月は
「晴ちゃん、お腹空いたね」
と言って笑う。確かに朝から歩きずくめで、晴人も腹がぺこぺこだった。
「そうだな。あとで飯でも食いに行くか」
「今日はお腹いっぱい食べるんだ♪」
「お前、普段のあれで満腹じゃないのかよ?」
「最後まで付き合ってくれる?」
葉月の無垢な眼差しに晴人は思わず頷く。
「お、おう。よくわからんが、いいぞ」
「やった」
葉月が小さくガッツポーズをする。晴人は嫌な予感がして思わず渋い顔をする。
「おごりじゃないからな」
神域で財布の中身を案じてるなんて、夢も希望もなさすぎる。
***
晴人と葉月はテーブルに向かい合った。ひろへい屋は神宮うどんの老舗である。神宮うどんとは太く柔らかい麺に濃厚なタレを絡めて食べる古くは江戸時代からの神宮都市の名物だ。クラスメイトたちはおらず、席には二人だけだった。
「えへへ、さっきの写真、新聞部に『出来上がったら二枚くださいっ』てお願いしたから晴ちゃんにもあげるね」
「いらねぇよ。……しっかし、ほんとによく喰うよなぁ」
晴人はあきれ顔で言った。これで三軒目になる。御白石持行事を終えて最初はクラスメイト全員で食事に来たのだが、二軒目まではついてきた葉月の親友たちも三軒目ではひきつった笑みを残して帰ってしまった。晴人だけが約束した手前、葉月に最後まで付き合わされている。
目の前には美味しそうに四杯目の神宮うどんをすする葉月がいた。
「ここのは出汁がまろやかで甘いから、食後のデザート感覚だよ。晴ちゃんもどう?」
「いや、俺はもう無理」
もはや葉月の食べている姿を見ているだけで何かがこみ上げてくるものがある。壁に貼られたお品書きに目を泳がせながら、晴人はずっと思っていたことを口にした。
「なぁ、さっき何を祈った?」
「ん?」
葉月が首をかしげる。
「御正殿の前でだよ」
「ああ、御白石を奉献するときね。うんとね、食べ過ぎが直りますようにって」
「早速ダメじゃねぇか」
「えへ」
「『えへ』じゃねぇよ。いずれブックブクに太るぞ」
「太らないよ」
「なんで?」
「吐いてるから」
「……あ?」
「落ち着かないんだ」
「……」
葉月の真剣な表情に、晴人は返す言葉が見つからなかった。
「食べてないと不安になるんだよ。いつ死ぬかわからないんだから、美味し
いものはいまのうちにたくさん食べておかなきゃって」
「……お前は死なねえよ。絶対に死なせない」
晴人は自分に言い聞かせるように吐き捨てる。
「嘘だよ」
葉月はじっと晴人の目を見た。晴人はむきになって否定する。
「嘘じゃないっ。言ったろ? 大祓はしないって決めたんだから」
「違うよ。私の言ったことが嘘なの」
「え?」
「食べるのが好きなのに、食べ過ぎなんて直したくないもん」
あっけらかんと語る葉月に、晴人は拳を振るわせる。
「てめえ、……真に受けて損したじゃねえか。じゃあ、なんだよ?」
「お父さんの跡を継げますようにって」
葉月の父は神社の事務方をやっている。晴人は事務方がそれほど魅力的な仕事には思えなかった。悪い仕事ではないが、決して誰もが望むような仕事でもない。葉月の美貌は噂を聞きつけて東京からわざわざスカウトがやってくるくらいなのに、本人はいたって気に留める様子もないのだ。
「……何でも好きなことができるのに勿体ないな。モデルでも、アイドルでも、いつでもデビューできるんだぞ」
「好きなことを選んだから事務方なのよ」
「わっかんね」
「今日、御白石持行事に参加して、思ったんだ。やっぱり素敵だなって。お祭りに参加してる人みんな生き生きして楽しそうだったでしょ? 神宮都市で生まれ育ったんだもん。表であれ裏であれ、こういった街の行事をこれからも私は支えていきたいの。それに晴ちゃんとも一緒にいたいし。モデルになって東京なんか行ったら離ればなれだよ? 晴ちゃんはここを離れたりできないでしょ」
晴人はいままで誰にも言わずに胸に秘めていたことを口にした。
「俺は……ここを出るよ」
「嘘でしょ。晴ちゃんまでそんな嘘つかなくて良いんだよ」
「嘘じゃないよ」
「……だって、この街の人はどうするの? 晴ちゃんいなくなったら誰が守るの?」
「兄さんがいるさ」
「そんなのっ。晴ちゃんらしくない。無責任だよ」
「俺はお前みたいに人生達観してねえんだよ」
「別に私だって好きで死にたくなんてないよっ!」
葉月が目を真っ赤に染めて声を荒げた。
「……ごめん」
何かしていないとどうにかなりそうで、食べかけのどんぶりを葉月から奪うと一心不乱にうどんにむさぼりつく。
「晴ちゃんネギついてる」
葉月が泣き顔のままクスリと笑う。
「うっさい」
晴人は照れくさくて、どんぶりを突き返した。やってみたものの、激しく後悔する。さすがに胃がもう受け付けなかった。
「本当はね」
葉月が遠い目をする。
「みんなが幸せでいられますように、ってお願いしたの。晴ちゃんがここを離れたいならいいよ。私は邪魔しない。ただ……」
葉月は一度そこで言葉を切って、それからゆっくりと続きを切り出した。
「御白石、見たでしょ? 私たちはたくさんの人たちの祈りを背負ってる。私だって生きていたいよ。色々楽しいことだってたくさんしたい。でもその想いに比べたら、私の命なんてちっぽけだと思えるの」
「……」
「街の人たちのためなら私はいつ大祓してもらっても良いんだよ。そのためにいままで戦ってきてるんだもの」
葉月の悲壮な言葉に晴人は頭を棍棒で殴られたようだった。葉月はもっと本気で自分たちのことを考えていた。辛いからと街を出ようなんて考えていた自分の甘さに反吐が出そうになる。葉月は街の人々の幸せのためなら命を惜しまない覚悟でいる。それに比べて自分は葉月のこと、というか自分のことばかりを考えて恐れてばかりだ。
晴人は激しく自分を嫌悪する。
「……でも……」
それでも葉月を失うことを想像すると自然と涙が出てきた。顔を上げることができず、どうにかして言葉を振り絞る。葉月を失いたくないのだ。
「……俺は」
「ノンノン。無理しないで。『僕は』でしょ?」
「……僕は……」
「うん」
晴人のかすれた声に葉月が優しい声で続きを促した。
「僕は……僕はずっと、……葉月を、苦しめるのかもしれない」
口にして胸が激しく痛んだ。自分が逃げ出し、放り出そうとしている使命を、葉月だけに担がせるわけにはいかない。同じ覚悟を、晴人自身も持たなくてはならなかった。
「うん。それで良いんだよ。私は晴ちゃんの神子なんだから」
涙はどうやっても止められなかった。葉月はずっとそばで、温かい手で、晴人の手を、いつまでも握ってくれていた。