第二幕 あらかじめ失うことが決められた初恋(六)
大飛鳥神宮の裏山に小さな滝がある。
晴人は厳かに神水の滴る滝を背にして朝焼けの太陽を眺めていた。
滝では葉月が禊ぎ(みそぎ)をしている。
振り返っても葉月が見えない、かといって離れすぎない適度な距離を保って晴人は人が立ち入ってこないよう見張っている。雨こそ降っていないものの、まだ六月の沐浴は凍えるほど寒い。人目を忍ぶ明け方ならば尚更だ。だがこればかりは真冬だったとしても欠かすことはできなかった。
神子はあやかしと戦うたびに穢れ(けがれ)が溜まる。穢れを残したままにしておくと、いずれ葉月が呪いに取り込まれてしまうことになる。その前に神聖な滝で穢れを洗い流す必要があった。
現に葉月はここに来るまで四十度を超える高熱と、それに伴う幻覚、幻聴でふらふらの状態だった。早急に禊をしなければどうなるかわからなかっただろう。
けれども穢れはきれいに落としきれるものではない。葉月の症状は昔に比べると徐々にではあるが、悪化の一途を辿っていた。神子とはもともと神への供物であり、言い換えれば消耗品だ。いつまであやかしと戦い続けられるものでもない。晴人のように大祓させることなく一人の神子を使い続けることが異例なのだ。
晴人はこれ以上、葉月を戦わせたくはなかった。だが、あやかしを放っておけば罪のない人々が犠牲になってしまうからと葉月は戦うことを止めない。それでいままでずるずるときている。
晴人が強引に止めたところで、葉月はきっと一人でも戦うだろう。
もう引き返せはしないだ。
「晴ちゃーん」
水の落ちる音に紛れて葉月の澄んだ声が届いた。
「あー?」
「いるー?」
いま返事をしたのだから、いるに決まっている。当たり前の質問に晴人はやや苛立ちながら答えた。
「いるってば。勝手に帰ったりしないから心配すんな」
「一緒にはいるー?」
「入るかバカッ」
***
葉月のことについて晴人が中学のときに一度だけ威彦と話をしたことがある。夏休みに居間で扇風機を前にだらしなく横になっているときに、威彦が訊いてきたのだ。
「一条院のお嬢さんが好きなのか?」
唐突な質問に晴人は面食らった。
「別に、ただの幼なじみだし……なんともねえよ」
好きなのかどうかなんて、その頃は本当にわからなかった。物心ついたときから一緒だったのだ。
「じゃあ、なぜ大祓しないんだ?」
高校に上がった威彦はもうこのとき二三人は神子を大祓していた。それを気に留めている様子も、ましてや悔やんでいる気配もない。
「びびってるのか?」
威彦は晴人を見て嘲った。威彦がこのことで罪に問われることはないだろう。あやかし退治に関わる犠牲は国家によって黙認されている。何かとんでもないヘマをして足がつくようなことがなければ、基本的に少女の失踪がこの街で積極的に捜査されることはない。あやかしと共に誰にも知られずに闇に葬られるのだ。
「そんなんじゃない」
晴人は強い口調で反論した。晴人は命を軽々しく犠牲にしてしまうことに抵抗があった。それが葉月だからなのではなく、例え他人でも同じだ。
「神子になったんだ。遅かれ早かれあやかしと手を取り合って仲良く地獄に沈むしかないさ」
晴人は起き上がって扇風機の電源を切った。とたんに蒸し暑さが倍増したように感じる。蝉の鳴き声もまるで耳元でしているかのように鳴り響いている。
「絶対にそんなことはさせない」
晴人は自分の部屋に戻ろうとする。言い合っても弁の立つ威彦に勝てるとは思わなかったからだ。
「じゃあどうする?」
威彦は後ろを向いた晴人に声をかける。
「教えてやるよ」
立ち止まった晴人の耳元で威彦は意地悪く囁いた。
「葉月を助けたいのなら、お前が死ねばいいんだよ」
術者が死ねば、神子はその苦役から逃れられる。
晴人はそれが逃げだとわかっていながら頭を離れない。
***
「まーたなんか考えてる」
気付くと葉月が濡れ髪を拭きながら滝からあがってきた。ざっくりと着崩した制服が妙に色っぽい。
「あ、いま私に興奮したでしょ?」
葉月はイタズラっぽく微笑んだ。晴人はそっぽを向いて「そんなわけない」と否定する。そんな晴人の顔を葉月は両手で掴んで自分のほうを向かせて見つめ合う。
「長い付き合いなんだから、晴ちゃんが何を考えているかなんて目を見れば簡単にわかるんだからね」
「見んなよ」
顔を逸らそうとする晴人を葉月はしっかりと押さえた。
「威彦くんの言うことなんて気にしちゃ駄目なんだからね」
本当に心を見透かされているのだと晴人は軽い驚きを覚える。
「……わかってるよ」
頬にあてられた葉月の手のひらはとても温かかった。その温度を晴人は決して忘れまいと思った。
「晴ちゃん」葉月の唇がうすく開く。
例え自分がどうなったとしても、葉月を決して死なせてはいけないのだと、柔らかな温もりにに包まれて晴人は思った。
***
葉月を彼女の家に送った帰り、晴人は神宮林のはずれに足を向けた。汗をびっしょりとかきながら獣のように人気のない神宮林のなかを分け入る。ここに来るまでに験力を用いてがむしゃらに登っても三十分はかかる。あたりはまだ植林されて十五年前後の年若い檜ばかりが連なっている。遷宮の御用材に使う檜は樹齢二百年程度が望ましいとされているため、この檜が使われるのはまだ百八十年以上も先になる。それまで手入れをする業者しか足を踏み入れることのないであろう秘所に晴人が目指すものがあった。
やや拓けた窪地にその大岩はある。
晴人の母だ。正確には母だったもの。
父の神子だった母は、晴人がまだ幼いときに大祓された。
当時は、ただ母がいなくなったとだけ伝えられて、晴人は意味がわからず泣いてばかりいた。数年前に艶姫からこの大岩の存在を教えられてから、ここが晴人にとっての掛け替えのない場所になっていた。
岩は変わらずそこに佇んでいた。
木々の隙間から差し込んだ陽が母を照らしていた。
よく見れば跪いて祈りを捧げているようにも見える。
晴人は寄り添うように岩の表面に手を当てた。陽にあたっているせいだろう、岩はわずかに温かい。
晴人は母をこうした父を許せはしなかった。なぜ母を大祓に使役したのか。それはいまでも晴人の胸の内をかき乱し続ける。
「……母さん、俺はどうしたらいい?」
思わず愚痴がこぼれる。ここでは、ここでだけは、晴人は弱音を吐き出すことができた。岩はもちろん何も語らないが、聞いてくれていると信じている。
「もう誰も……失いたくないんだよ」
梅雨時期の日差しは湿気のせいか淡く滲んで見える。こころなしか憂いて見えるのはその光のせいなのか、晴人にはわからなかった。
葉月を失いたくはない。
そう願うならば、他に道はないのだろうか。