第二幕 あらかじめ失うことが決められた初恋(五)
山からは麓の街並みが一望できて、街明かりが燦然と輝いて見える。
葛切笑美はその急勾配の山の斜面をひたすら登っていた。高校三年生にしてはやや幼く見えるその丸みがかった顔立ちと薄紅色の頬は、笑みが浮かんでいればさぞかし愛らしく見えることだろう。だがいまは唇を真一文字にきつく結び、眉間には大きなしわが現れていた。
「ちょっと待って下さいよー」
泣きそうになりながら本宮留衣が笑美について歩く。
「ちょっと待てっていってるでしょ!」
同じく後ろをほうほうの体で続きながらも本宮結衣は強気の姿勢を崩さない。泣き顔と怒り顔の違いはあれど、どちらもまだ思春期の大人になりきれない華奢な体と、背中まである長いツインテールに瓜二つの幼顔をしていた。
「笑美さまー」
息を切らせた留衣が必死に懇願する。
「しーっ。いまはその名前で呼ぶなって言ってるでしょっ」
笑美は小声で叱責した。もし誰かに聞かれたりでもしたらまずいのだ。
「ほんとにやるんですかぁ?」
結衣が不満を前面に押し出した。
「当たり前でしょ。やると決めたらやるのよ。女に二言はないわ」
笑美はびしっと神社のある山の頂上を指差した。決まったと笑美は思ったが、年若い中学生の双子からは白々しい目線が返ってくるだけだった。わずか二年の差とは言え、ジェネレーションギャップかなと笑美は思う。情熱という感覚に差異がありすぎるのだ。
「ほらさっさと歩く!」
笑美はこの先にある神社の神器を盗むつもりだった。だからこうして黒装束に身を固めて、木々に隠れるようにして山を登っている。ただ夜の山がこれほど登りにくいものだとは思わなかった。何度も根っこにつまずき、雨でぬかるんだ斜面に足を取られた。膝から下は泥だらけで、目的の神社についたときは三人ともすでに疲労困憊だった。本番はこれからである。
「さあ、ちゃっちゃと片付けるわよ」
笑美が気合いを入れ直して参道に足を踏み入れた瞬間、遠く足音が聞こえた。
「しっ」
そっと境内の奥をのぞき見ると、剣を持ったひとりの男が黙々と舞っていた。神楽かと思われるが少し足の運びが違う。笑美は専門外なのでわからないが、恐らく陰陽師の使う反閇に似た類いのものだと思った。
反閇は陰陽師が除霊のためにおこなう儀式的な歩行法で、笑美も神学を学ぶ者として知識だけは持っている。目にするのは初めてだったが、所作が美しいから舞いのように見えたのだ。
「笑美さま、あの人って……」
「……不寺威彦」
笑美と威彦は同じ学校で同じ学年だった。学科が違うので同じクラスになったことはないが、その評判は知れ渡っている。たとえ笑美じゃなくても学校の女子なら誰でも知っているだろう。
不寺の雅。
学年一のプレイボーイ。
結衣と留衣の通う中学校でも名前は轟いているらしかった。美男子と褒めそやす女子は多いけれど、笑美はそう思えない。
また、彼に告白してひどく傷つけられた友だちも知っている。その子はショックで二週間も学校に来られなかった。その他にも付き合って行方不明になった子もいるという噂もまことしやかに囁かれているし、とかく話題には事欠かない人物だった。
「やっぱ不寺の雅ってかっこいいなあ……」
結衣が羨望の眼差しを向けた。
「うん。それにあの剣……不寺家のトツカケンでしょうかね?」
留衣が首をかしげた。不寺の神器といえば神宮都市に古くから伝わる名品としてその界隈の人間には有名だ。
拳を十個連ねたほどの長さなので十束剣。
伊弉諾が伊弉冉死去の原因となった火之炫毘古神を斬った十束剣の破片を練って作られたという。真偽の程はわからないが、評価としては神宮に奉納されている神器に勝るとも劣らない逸品だという。
「決めた。あれを盗むわ」
笑美はきっぱりと言い放った。
「え? えーっ!」
「声が大きいっ」
留衣が驚きの声をあげたので結衣が頭をはたいた。
「本気ですか?」
「本気よ。十束剣を盗む」
自身の覚悟を決めるように、笑美は独りごちた。
「……女に二言はないのよ」
なんとしても神器がいる。それは高名ならば高名なほど、都合が良いはずだった。
***
(私だって好きでこんなことをしているわけじゃない)
笑美は神宮都市にある愛護寺の宮司の一人娘だった。
愛護寺は小さいながらも神宮の末社のひとつとして長い歴史を数え、葛切家は代々その宮司を務めている。
宮司として誰からも頼られていた優しい父が笑美は大好きで、休みの日に父の趣味である釣りに連れて行ってくれるのを楽しみにしていた。笑美は幼い頃から父の仕事を手伝いながら、いずれは結婚をして旦那さまが父に代わって宮司を務めることをずっと夢見ていた。
状況が変わったのは二年前だ。笑美が高校に入学してすぐのことだった。
愛護寺の御神体である朱の勾玉が盗まれたのだ。
御神体は神の依り代であり、神社ではもっとも大切な物だった。このニュースは即時に全国を伝わり、それから神社には参拝客がぱたりと途絶えた。神の加護をなくした神社では参拝しても御利益も得られないと思われたのだ。もちろんすぐに被害届は出したが、勾玉はいまだ見つからず、参拝客の足も戻らない。
責任感の強かった父は平安時代から受け継がれてきた御神体を自分の代で失ってしまったことを悔やみ、去年の暮れに自ら命を絶った。
母は家事以外なにもできないおっとりした性格で、いまは笑美が後援者たちの手を借りながら宮司の代理としてどうにか愛護寺を切り盛りしている。参拝客のいなくなった神社はどこかもの寂しく、悲しかった。笑美はそれがたらまらなく辛い。奪われた御神体を諦めきれなくて、笑美は一人で犯人を捜し続けた。
ある日、同じように盗難被害に遭った神社から情報提供があった。
盗まれた御神体専門の売買組織が存在すると。
すぐに警察に相談したが証拠が見つからずに捜査は難航した。笑美は辛抱できず独自に調査を続け、とうとう仲介業者にまでたどり着いた。業者は売買できる商品があれば組織を紹介しても良いと言う。組織にコンタクトを取ることができれば、盗まれた勾玉や犯人の情報を得られるかもしれない。
笑美は期待に胸を膨らませたが、組織を引き出すためにはどうしても商品が必要だった。
それで御神体の窃盗を行うことにしたのだ。
巫女として幼い頃から愛護寺を手伝う結衣と留衣は、そんな笑美が一人でどこまでも突っ走ってしまわぬようにと頼んでもないのについてきた。
笑美もさすがに本気で盗んだ御神体を売ろうとは思っていない。一時的に借りるだけだ。朱の勾玉の情報さえ聞き出せれば元に戻すつもりだった。それでもやはり同業者である神社の御神体に手を付けるのには抵抗がある。
そんな中で目にした不寺の御神体だった。
その価値は計り知れず、手に入れれば確実に組織を紹介してもらえるに違いなかった。それに不寺は神社ではないので、ちょっとの間だけ御神体がなくなったとしても参拝客に影響するようなこともない。
(振られためいちゃんの仕返しもできるし、一石二鳥だよね)
笑美は心の内で言い訳を添える。そんなことが免罪符になるとは思っていないが、父の無念を晴らすため、愛護寺の権威を取り戻すため、世の女性の代表として、笑美は不寺の十束剣を盗むことを心に決めた。




