第二幕 あらかじめ失うことが決められた初恋(四)
外はいつまでも長雨が降り続いていた。晴人はすっかり雨に気を削がれて授業もさぼって縁側でぼんやり庭を眺めていた。池の水面を叩く雨の波紋がぶつかり合って複雑な文様を描いていた。いつまでも見ていられる。普段は悠然と泳いでいる鯉たちの姿も今日は水底に隠れているのか影もない。
晴人は高校に入学して二ヶ月が経っていたが、何ら変わることはない毎日に早くも膿みはじめていた。晴人がここを逃げ出さないのはひとえに不寺の務めがあるからに他ならない。
無責任に投げ出してしまえば、知らない誰かを、けれども誰かにとっての大切な人を、危険にさらす羽目になる。
晴人は大きくため息をついた。ため息をつくと幸せが逃げていくと言うが、はなから幸せがあるのならため息もついたりなんかしないはずだ。
鈍色の空の彼方から雨に打たれながらも雀が一羽飛んできた。軒先で濡れた体を震わせる。雨宿りにやってきただけだと思っていたら、雀は晴人の前でおもむろに黒い煙を吐いた。晴人はちっと舌打ちする。
「出たか……」
不寺では縄張りの神社おのおのに式神を放っている。黒い煙はあやかしが現れた合図だ。晴人は携帯を取り出すと、ストラップの琥珀の蝶にまたひとつため息交じりに話しかけた。
「見てたろ。出動だ」
蝶は不器用に羽を動かし、やがてひらひらと宙に舞った。もともとがまがいものだ。雨粒などものともせずに屋敷の外に飛び去ってゆく。式神の雀も監視を続けるために神社に返した。晴人も現場に向かうべく玄関で靴を履いていると、ちょうど帰ってきた威彦と鉢合わせした。
「どこへ行くんだ?」濡れた傘の雫を振り落としながら威彦が訊く。
「散歩」
「雨だぞ?」
「知ってるよ」
晴人は履きつぶしたスニーカーをつっかけるとパーカーのフードを被って雨のなかを飛び出した。門をくぐるまでじっと威彦の目線を感じたが、あえて無視を決め込んだ。教える必要はなかった。面倒なことになるのがわかっているからだ。
***
場所は大飛鳥神宮の所管社のひとつ、葱神社だった。
山道を登って三十分はかかる、あまり参拝客のやってこない神社だ。鳥居と小屋のような拝殿、その奥に本殿がある。拝殿からわずかに妖気を感じるが、葉月がやってくるまで晴人は神社の敷地には入らずに木陰で雨宿りをして待つことにした。
葉月に不満を垂れながらも頼る気でいる。
そう思うと苛立ちが募った。そばに咲いていたキツネアザミの茎を一本力任せに引き抜く。それは思いのほかしっかりと根を張っていて、無駄に生命を絶ったことに自己嫌悪を覚える。はかなく思うものでも、しっかりと根付いて生きている。
五分ほど遅れて制服姿の葉月が山道からやってきた。葉月のまわりを舞っていた蝶も元通りに晴人の携帯ストラップに戻った。
この蝶はあやかしが現れたときに葉月に知らせるためだけに用意している式神だ。晴人がひとりであやかし退治に行ってしまわぬようにと葉月が無理やり晴人に用意させた。
あやかしを退治しに行くときは必ず一緒に行く。
というのが激しい口論の末に二人でとり交わした約束だった。本当は縁を断ってでも葉月にはかかわらせるべきではないのかもしれない。晴人にそれができないのは葉月の意志の強さであり、自分自身の未練だと思った。
ただ、そんなことをしたって葉月ひとりであやかし退治を始めるに決まっているのだ。
そう思っていままで同行を許しているつもりだが、やっぱりそれも言い訳だなと晴人は憐れに自嘲した。
「あやかしは?」
葉月は雨でぺったりと濡れた髪をかき上げた。
「拝殿のなかだ。まわりに人はいないし、まだ気付かれてもいないと思う」
お前は待ってろよ。
できればそう言いたい。
「行きましょう」
葉月は唇をきつく結んで鳥居をくぐった。
晴人は遅れないよう後を追った。
お前は待っていたくないのか。
言えるわけもない。
そしていつも、気付けば彼女の後ろ姿を見ている。
晴人はそれを無性に悲しく思った。
***
「いつでもいいわ。あやかしを呼び出して」
葉月は神経を集中し、指先から光り輝く矢と羽のように軽い弓を生み出した。姿勢を正して拝殿に向けて弓を引く。晴人も呼吸を整え、いつでも言霊を発せる状態にしてから扉の閉じられた拝殿に向かって話しかけた。
「姿をみせろ! いるのはわかっている!」
返事はなかった。物音一つしない。晴人は手早くあたりに現身の言霊を唱えた。
「もう一度言うぞ。姿を見せるんだっ」
晴人は葉月と目線を交わして、ゆっくりと賽銭箱の奥にある拝殿の扉に手をかけた。緊張で指がわずかに震える。鍵はかかっていない。晴人は覚悟を決めて一気に扉を開け放った。
「……!」
がらんとした祭壇があるだけだった。
だが、そこにある違和感にはすぐに気がついた。
隅に古い日本人形がひとつ奉納されている。祭壇に普段は置かれていない物だ。
「隠れても無駄だ。人形」
晴人は捨てがたくいつまでも持っていたキツネアザミの茎に霊気をあてて、試しに人形に突きあてた。穂先が人形に触れそうな距離に近づいたところで茎はみるみる枯れていく。
白い顔した人形の首がコトコト音を立ててゆっくりと一回転した。着物の隙間から黒々とした髪の毛が伸び、背丈もみるみる子供ほどに大きくなる。人形の細長い眼には赤い光りが宿り、物言わぬはずの口からはけたけたと笑いがこみ上げていた。
付喪神か、さもなくば生き霊の類いかもしれなかった。
「どうした?」
晴人は人形に声をかけた。言葉は意味をもつ。会話はあやかしを鎮める大切な糸口だった。
――恨めしい。
――この世が恨めしい。
人形は言った。
「お前の名はなんという?」
形あるものには名前があり、名前があることから縛りが生まれる。名前を知ることは相手を縛ることになる。聞き出せれば、大きなアドバンテージになった。
――恨めしい。
――あの男が恨めしい。
人形は地に手をつけて四つ足になるとそのまま歩き出し、蜘蛛のように壁へばりついた。
「聞く耳を持たないか。……葉月」
晴人は言霊を込めた護符を取り出して四方に投げた。あやかしが逃げないように結界を張る。人形の長く伸びた髪の毛が、晴人の足首に巻き付いた。
「離れなさいっ!」
葉月が弓を放った。人形の腰のあたりに突き刺さり、苦痛の叫びをあげる。晴人は霊気を込めた手刀で足首に巻きついた髪の毛を断ち切った。
さらに髪の一部が鞭のようにしなって葉月に襲いかかるが、葉月は軽々と飛び上がってそれを躱した。神子の力は身体能力にも現れる。葉月は空中に翻ったまま弓を引き絞り、人形にさらなる一撃を加えた。宙を舞う葉月の白い太ももが垣間見えて晴人はとっさに目を離す。戦うこの瞬間を美しいと感じてしまうのは、自分が異常な性癖を持っているのかと不安になる。二人のコンビネーションでいままで倒せなかったあやかしはいない。負けるなんてことは、これからもないのかもしれない。
「あぶないっ」
人形が針金みたいに髪をとがらせて晴人を突き刺しにかかった。晴人は円騨から教えを受けた験力で一気に跳躍して人形と距離を置く。
人形がかたかたと震えた。
笑っているのだ。
背中がぞっと粟立って、むしょうに嫌な予感がした。
人形の髪が格子状に広がって晴人の進路を阻んだ。晴人が手間取っている隙に人形は葉月のほうに弓を撃たせぬよう一気に距離を詰める。
「葉月!」
葉月はいつもより少し短い矢を何本か一気に生み出すと、至近距離からあらんかぎりの霊気を込めて人形にぶつけた。
「市杵嶋流奥義 五月雨!」
火花が散るように光が散らばって、人形も葉月も吹き飛んだ。人形のからだのところどころ溶けてビニールが燃えたようないやな匂いが充満する。
「大丈夫か?」
葉月が苦悶に顔をゆがめた。それでも弓を引き、最後まであやかしを狙う。人形は壁を伝って天井に張り付き、髪を刃物のようにとがらせてあたりかまわず振り回した。祭壇や壁が削れ、晴人も葉月も拝殿の隅に追いやられた。
晴人は言霊を唱えて新たに護符を柱に貼った。擬似的に柱を式神化して晴人の霊力を分け与える。それによって硬度を増した柱に、人形の髪の刃が突き刺さって抜けなくなった。
「市杵嶋流 村雨!」
そのすきに葉月がひときわ鋭い矢を放った。まっすぐに軌跡を描いて人形の肩を射貫く。
人形はついに自分を支えきれずに地に落ちた。どんっと建物全体が揺れる。
――おのれ……恨めしぃ。
――お前たち、まで私をぉ、恨まずにぃ……いられぬ、ものかぁ。
人形は手足をばたつかせながら起き上がろうとする。
「何を不満に思っているのだ?」
晴人は聞いた。
――あの男は、私を、捨てた。
――十年いっしょにぃ、寄り添うてぇ……おうた、のに。
捨てられた女の情だ。同じく不要になって供養に出された人形と結びついたのだろう。
「可哀相に。辛かったろう」
――お前になにぐぁわかる。
「わかるさ。人ならば寂しさくらい」
――おまぇにわだじぃの気ぼちがぁわがぐばげぶぁい。
人形の言葉がはっきりとした形にならなくなった。葉月の攻撃で呪いの力がおぼつかなくなってきているようだった。けれども人形は諦めていない。これ以上戦えば、互いに死力を尽くした消耗戦になるのは容易に想像がついた。
晴人はおもむろに四方に張った護符の一枚を破り捨てた。好機とばかりにそのエアポケットのような結界の隙間から人形が這うように出口を目指す。
いまは逃がす。
これだけ痛めつければ、しばらくは世を騒がすこともできないはずだった。
「大丈夫か?」
晴人は人形を背にして床に座り込んだままの葉月に声をかけた。
人形が拝殿の扉を開ける音がして、ざあと地を打ちつける雨音と共に菫の香りが漂った。
晴人が振り返るとそこにいたのは不寺の神体である十束剣を穿いた威彦だった。外人少女のモーラと一緒にいる。
晴人はまず驚いた。偶然に落ち合うにしては出来過ぎだったからだ。そして何か企みがあるのではないかと勘ぐった。屋敷に知らせに来た式神はすぐに放したので晴人以外はあやかしが出たことを知らないはずだったし、威彦が独自に式神を使ってあたりを監視しているとも聞いたことはなかった。
「どうしてここにいる?」
晴人は怪訝な顔で問いただした。
「ふふん。お前の携帯の式神が外れていたのでな」
威彦はにやりと笑った。晴人は尻ポケットに入れていた携帯を見遣る。いまは蝶のストラップが何事もなかったように垂れている。だが、屋敷を出ていったときは葉月のところに使いにやっていたのでついてなかった。門のところで目線を感じたのは式神を見られていたのだ。
「つけたのか」
質問には答えず威彦は眉をつり上げた。
「逃がすのか?」
晴人は肩をすくめる。
「だいぶ弱っている。当面はなにもできないはずだ」
這いずりながら林のなかへ消えていこうとするあやかしを見て晴人は言った。葉月も霊力を消費しすぎて立ち上がれないほどに消耗している。あやかしと戦えば神子は穢れがたまる。これ以上戦えば葉月の命にも関わるし、残念ながらあやかし自身に異界へ帰る意志がなければ、晴人に調伏する術はなかった。つまりなんのメリットもない。
「モーラ。あれがあやかしだ」
威彦は少女を見ずに言った。少女は興味深い顔であやかしを見ている。
「教えたとおり、やってみてごらん」
「イエスダーリン」
少女が目をつぶって意識を集中すると、彼女の手には銀色の槌が握られた。彼女への神の祝福。少女は得意満面で槌を威彦に見せると、威彦はにっこり笑って頷いた。
「ヤァー! ハァーッ!」
少女はあやかしに駈けよって鉄槌を喰らわせる。
――ぴぃぃぃぃぎゃぁぁぁ。
あやかしは声にならない叫びをあげた。髪を少女にまとわりつかせるが、その弱った体では存分に力を発揮することが叶わないようだった。少女は巻き付かれても気にせず恍惚の表情で鉄槌を振り下ろし続ける。人形の下半身がミンチのように潰れていった。
「ははは、あれが雷神の槌らしいぞ。荒削りでまだなんの術も覚えておらぬが、パワーだけでも見ていて爽快だな」
威彦が満足げに笑顔を見せる。
――ふぅぅぅふぅぅぅふぐぅぅぅ。
人形の鼻息が荒くなった。赤い瞳に強い光を帯びる。
「それ以上は駄目だっ!」
晴人は叫んだが、誰も聞き入れはしなかった。人形がいままでにない早さで体ごと少女に巻き付く。少女の目が驚愕に見開かれた。
目覚めたのだ。
あやかしがその持っている呪いの量を越えて意志をもったとき、それはあやかしを越えた脅威となる。
「ダーリン! ヘルッ! ヘルプッ!」
少女は人形を引きはがそうとしたがびくともしなかった。逆にめきめきと少女の骨が軋む嫌な音がする。
「だから言わないことじゃないっ」
晴人は地団駄を踏む。あやかしを本能に目覚めさせるのは危険なことだ。晴人は護符を取り出して人形に投げつけようとしたが、威彦が晴人の眼前に十束剣をかざして邪魔をした。
「おいっ!」
威彦が少女を見て低い声で神法を唱える。
「はらえ たまい きよめ たもう……」
晴人の顔は一瞬にして蒼白になった。威彦が晴人を見てにやりと笑った。
「おいっ! やめろっ」
「不寺奥義……おん ばく!」
晴人が十束剣を振り払って前に出た瞬間と、威彦が神法を唱え終わったのは同時だった。
少女を中心に光があふれ出た。上空から金色の円環が下りてくる。眩しさに瞼を閉じていても突き刺してくるような強烈な輝きがあたりを包んだ。光は温かく、甘美で、神々しく、他に味わうことのない感覚に晴人は体が浮いたような錯覚にとらわれた。神の導いた円環はあやかしと少女を囲んだ。
やがて光が収束し、目が慣れて視界が効くようになると、少女とあやかしがいた場所には一塊の子供の背丈ほどの岩が転がっているだけだった。
大祓。
不寺に伝わる最高の秘儀で、神子の持つ最大の神技。
乙女の命と引き替えにあやかしを異界に送り返し、その道をふさぐ大岩となる。
「……んでだよ」
晴人は力なく呟いた。
その岩は、よく見れば手足を丸めて縮こまる少女のようにも見える。
「なんでだよ!」
晴人は堪えきれない怒りを威彦にぶつけた。
「これが不寺の務めだろう。違うか?」
威彦はやれやれといった表情で十束剣を刀袋にしまう。
「あの子はどうなんだ? こんなことを望んでいたか!」
晴人は威彦の胸ぐらを掴んだ。威彦は見下すような目線で吐き捨てる。
「望む望まないの世界ではない。我々はあやかしから人々を守らねばならない。お前にそんな気はないと言うのか?」
いままでもあやかしが引き起こした怪奇な事件をいくつも見てきた。晴人だって野放しにするつもりはない。だが、あのモーラという少女にも彼女にしかない人生があったはずだ。
「だからと言って乱用しすぎだ! あのあやかしは弱ってた! 調伏するチャンスだってこれから先あったはずだ!」
「確かに何日か、何週間か、場合によっては何年かは大人しくしていたかもしれない。しかしいつかは必ず戻ってくるんだ。そのときは傷も癒えて、より大きな恨みを抱いている可能性が高いだろう。そのときお前に必ず事件を未然に防げるという保証があるのか? あのあやかしが一人殺したくらいでは満足しないほど呪いが強かったらどうなる? 今日見逃したことで将来何十人、何百人が犠牲になったとき、お前はその被害者にも同じことが言えるのか?」
「そんなの詭弁だ! 兄さんだってあの子の親に対して同じことを言えないだろ」
「言えるさ」
威彦は冷たく言い切った。
「たくさんの人を救うために尊い犠牲になりましたってな。それの何が悪い?」
「くっ……」
晴人は二の句が継げなかった。言い争いになったら勝てない。あやかしを退治したいという二人の気持ちに相違はないはずだった。ただ向かうベクトルが違いすぎる。
「そもそも道具に愛情なんかもっていたら強くなれないだろ」
威彦はうんざりして吐き捨てた。
「神子は道具なんかじゃない」
「神子になった時点で道具だ。それが乙女を神子にするということだ。俺は誰であろうと躊躇しない。例え家族だろうと神子にすれば大祓に使う。それがお前とは違う、俺の覚悟だ」
「兄さんのは覚悟なんかじゃない。ただの逃げだ」
「どっちが逃げてるんだ? 義務を果たせ」
威彦が掴んだままだった胸元の晴人の手を払いのける。晴人は懸命に言い返した。
「誰かの犠牲の上で成り立っている平和なんて、正しい訳がない!」
「甘いんだよ。あやかし退治に限らず、すべては何かを犠牲にすることによって成り立っているんだ」
ちらりと威彦は葉月を見遣る。
「あの一条院のお嬢さんにだってわかっているはずさ。お前だけだ、勘違いしているのは」
威彦はさらりと言いのけると煙管に煙草を詰めこんだ。
「それが不寺と、神子の定めだ」
威彦は石を眺めて満足げに踵を返した。
「……くそっ」
晴人は雨でぬかるんだ地面を蹴りつける。苛立ちと歯がゆさだけがいつまでも残る。
「晴ちゃん……」
葉月が心配げに声をかけた。晴人は無言で葉月に手を貸した。力なく抱きかかえられた彼女の重さを肌で感じて、晴人の胸はさらに痛む。
彼女を神子にしてしまった自分の甘さ。
彼女を突き放せない自分の弱さ。
絶対に、彼女だけは殺したくなかった。
これまで何千、何万回としてきた後悔が、いまも晴人の胸に重くのしかかった。




