表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
25/26

第六幕 遷御(三)

 笑美は静かな水面を眺めて思いに暮れる。


 気温は高すぎず低すぎず、穏やかな夜だ。神宮に連なる末社の巫女として、笑美は遷御の儀の手伝いに来ていた。参道にはすでにこの神事を観るためやってきた特別参拝の客人たちが席について待っている。


 二十年に一度の神事に携わるという大役ながら、笑美の心は深夜に開催される競売のことで頭がいっぱいだった。そんな時間に行われるのは、きっと遷御に使用された宝物ほうもつ陳列棚ショーウィンドウに並ぶからだろう。この貴賓ばかりが集まった特別参拝の客たちのなかにも競売の参加者がいるのかもしれない。そう考えると、いてもたってもいられない気持ちになった。


 すでに御正殿では渡御とぎょの準備も整っている。渡御とは神が新宮に身を遷すことで、百人あまりの神官たちが一糸乱れぬ祭列を組んで白い絹に囲われた神を新しい正殿に案内するため待機していた。


(ああもうじれったいっ。落ち着かなくて仕方ないわ)


 渡御の儀が始まる午後八時まであとわずか。笑美にはもう待つ以外に仕事はなく、そわそわと控え室と人気のない敷地の池を行ったり来たりしていた。


 本日何度目かわからない手洗いの後、笑美はまた勾玉池の前にやってきた。月明かりがうっすらと池面に映っている。静寂があたりを包み込み、鈴虫たちの鳴き声だけがその沈黙を破っていた。


 笑美は布に包んで大切にしまっていた勾玉を懐から取り出した。内から発する乳白色の輝きはいつまでも見入ってしまうほどに美しい。うっとりとその胎動のような瞬きを眺めていると、競売になど出さずに一生手元に置いておきたい気持ちになった。笑美は頭を振って邪念を払う。


(駄目。愛護寺の勾玉は命に代えても取り戻さなければならないわ)


 それが父への手向けになるはずだった。


 笑美はこの勾玉をくれた不寺晴人のことを思い返した。ちょっと背が低くて、頬に大きな傷がある。無愛想で口が悪いのは兄にそっくりだが、それでもなぜか根底には優しさを感じる人だった。彼からの贈り物を手放してしまうのも、なんだか惜しい気がする要因のひとつだ。


(そういえばあいつはどこに住んでいるのだろう?)


 兄の不寺威彦を散々に監視しているときも、屋敷で晴人を見かけることはほとんどなかった。最近も会ったのはすべて神宮林の中だけだ。まさか神宮林に住んでいるとも思えない。修験者でもあるまいし、とても人が住めるようなところではなかった。


(あんなところに住んでるなんて、まさかね。愛護寺の御神体を取り戻したら、ちゃんとお礼をしなくては。何がいいだろう……)


 そのシチュエーションを考えるのは案外と夢中になれた。元々がお節介焼きな性格だ。人のために何かを考えるのは大いに楽しい。笑美は誰もいない湖畔でひとり想像しては苛ついたりにやけたりしていると、がさりと大きな葉音がした。


「ななにっ!」


「いててて、枝がひっかかった」


「……あ」


 藪から姿を現したのは不寺晴人だった。足に絡まった枝を外しながら空を見て、「まだ来てないか」などと訳のわからないことを口にしている。ようやく晴人が笑美に気づいて、あたりの池を見渡して、それからまた笑美を見遣って言った。


「……釣れてるか?」


「だから釣ってないし! あ、あんたこそ、こんなところで何してるのよっ」


 晴人の格好はあまりにめちゃくちゃだった。全身煤にまみれている。どこの火事現場を通り抜けてきたのだろうという有様だ。

 笑美の質問を無視して晴人は訊く。


「渡御はもう始まってるのか?」


「ううん、まだよ。もう少しだとおも……」


 言い切らないうちに敷地内の瓦斯灯が一斉に明かりを消した。正殿がある方角の空だけが、松明の灯りで薄赤く浮かび上がっている。


「始まったよ!」


 きっといまごろは御神体が絹布に守られて旧正殿からの移動を開始し、楽士たちが神楽歌を奏で始める頃だろう。


「くそっ。まずいな」


「なにがまずいのよ?」


「神さまが厳重に守護された正殿からのこのこと顔を出してくるんだ。これを見逃さないあやかしがいるってことだよ」


「……?」


「ここは危険だから早く逃げろ」


 笑美はなんとなく釈然とせずに、その場を離れられない。晴人は立ち尽くす笑美を尻目に護符を取り出して言霊を発する。神道に身を置く身として笑美もそれが祝詞のたぐいであることは察することができた。そして晴人は駆けだしたと思ったら一瞬にして笑美の前から姿を消した。


「ちょっとっ。どこ行ったのよ!」


 誰もいなくなった池の畔で笑美は慌てふためいた。

 

   ***


 晴人は最後に稲荷橋にかかる大鳥居の二本の柱に護符を貼りつけると、丁寧に祝詞を奏上した。意識を集中し、言霊の格調レベルをあげる。


「と あおそ むわ」


 神宮に漂う霊力が反応し、参道の縁がほのかに輝いた。たったいま神速を用いて内宮にあるすべての鳥居に同じ護符を貼り付けてきた。内宮は潜在する霊力が違う。参道は神を守る強力な霊気の脈となって、あやかしを寄せ付けない強い結界となった。


 晴人が結界に足を踏み入れると心臓が激痛で暴れた。慌てて結界の外に出る。どうやら晴人の体内に巣くう未知なるものにはあやかしも含んでいるようだった。憤懣で胸を拳で叩く。


「俺の体なんだ。邪魔をするなよ」


 晴人は結界の外を通って内宮の裏山に向かった。その奥地で今度は逆にあやかしを寄せ付ける言霊を唱える。

 霊力の乱れに気がついたのか、内宮を警備していた瑞垣が衛士を連れて晴人の元に集まってきた。そのひとりが晴人を問い詰める。


「お前、不寺ではないか。内宮ここへの出入りが禁止されているのはわかっているな。何をしている?」


「そんなことをぐだぐだ言ってる場合か。じきにとんでもないのが来るぞ」


「何を戯れ言を。ここをいますぐ立ち去れ」


「気付かないのかよっ。この妖気を!」


 そう言って晴人は全身が粟立つのを感じた。言霊につられて何か大きなあやかしがすぐそばまでやってきている。集まった瑞垣たちも強い妖気に感付いた。即座に戦闘態勢を敷いて散開する。


「遷御の邪魔をさせるな! ここで足止めするんだ!」


 瑞垣たちの耳にどこかからからんからんと鈴の音が聞こえた。やってきたのは晴人が予想していた百鬼夜行の群れではなかった。空から馬に乗った木梨軽皇子が、白銀の鎧甲に身をまとい、色鮮やかな豪奢な牛車を引き連れてふわりと舞い降りた。軽皇子の脇に控える骸の兵士が絶え間なく鈴を鳴らしている。


「お前か……」


 晴人は思わず息を呑んだ。父を、葉月を、すべてを奪った相手だ。


「ほう、つくづくえにしがあるとみえるな、小僧」


 軽皇子は大仰に驚いて見せた。そして腕を掲げると、つむじ風から砂を積み上げるようにして骸の兵士の大群がわき上がる。


「戦じゃ。今宵をもってこの現世はふたたびわれの国となる」



 骸の兵士が次々と瑞垣たちに襲いかかった。木梨軽皇子はこの場を兵士たちに任せて、正殿のほうへ向けて優雅に馬で空を駆ってゆく。


「待てっ」


 晴人は木梨軽皇子を追った。牛車を連れた空を走る馬は神速の晴人でも追いつくのやっとだった。渡御の列を見つけた軽皇子はそのまま神のいる絹垣のなかに突っこもうとする。バチッと激しい火花が散って、軽皇子の馬は空中で竿立ちになった。さきほど晴人が張った結界が効いている。


「おのれこしゃくな」


 軽皇子が腕を掲げるとみるみると突風が吹き荒れた。雷鳴が鳴り響き、空を横断するように雷がじぐざぐに走った。突然の天変地異に参列者たちは逃げ惑う。絹垣を囲う神官たちはそれでも粛々と新正殿まで渡御を進めようとしたが、軽皇子がさらに地面を揺らした。たまらず神官の何人かが足を取られ転び、絹垣がほころんだ。参列者たちが上空にいた軽皇子と骸の兵士たちを見つけて悲鳴を上げる。


「参道から出るなっ! そのまま神楽殿まで避難しろ!」


 晴人が叫ぶ。


「邪魔するでない!」


 木梨軽皇子が憤怒の形相で晴人を睨みつけた。晴人は験力で大きく飛び上がり十束剣を軽皇子に突きつける。


「ならぬっ」


 鋭い声とともに軽皇子に追随していた牛車から花びらが乱舞した。晴人は十束剣で迫り来る花びらをふり払ったが、あいだをすり抜けた花びらのひとつが晴人の肩に触れた。とたんにじゅっと焦げ臭い匂いがして服が焼け落ちる。


「ぐっ……」


 晴人は堪らず牛車から離れた。地に落ちて溶けかけた花びらを見遣ると、それは丸みを帯びた白い桜の花びらだった。


「兄さまには触れさせぬ」


 牛車の屋形の奥で軽大娘皇女が袖を口にあてて妖艶な笑みを浮かべた。五衣唐衣裳の重ねられたうちぎのひとつから、桜の花びらが散って宙に漂った。


「愛しのきみよ。このような小僧、ひとりでも難儀はせぬ」


 軽皇子の声を軽大娘皇女がやんわりと遮る。


「わらわとて心配なのです。手助けを」


 晴人は剣を構えたままじりじりと距離を測った。軽皇子の大風と、軽大娘皇女の桜吹雪の組み合わせは相当にやっかいだった。風に舞う小さな花びら一片ずつをとても避けきることはできない。相打ち覚悟で突っ込もうとしたとき、


 ――我に任せよ。


 カグツチがおもむろに剣から炎を発した。


「カグツチッ。なんだよ助けてくれるのかよ」


 ――天照大神は異母兄弟。助けが必要とも思えんが、看過するのは仁を欠こう。


 風に乗って花びらが襲いかかった。晴人は炎を帯びた十束剣で花びらをごっそりと焼き払った。牛車に向かって飛び上がる。二度三度と立て続けに桜吹雪が襲いかかるが、すべてを残らず燃やし尽くす。晴人は牛車の前板に足をかけ、すだれを格子ごと切り捨てた。


「無礼な」


「なんとでも言え」


 晴人が軽大娘皇女に剣を振り下ろそうとしたそのとき、五衣唐衣裳から今度は淡い薄桃色の椿つばきが花弁ごとぽとりぽとりと床に落ちた。軽大娘皇女が唇の端をつり上げる。晴人はとっさに身の危険を感じて牛車から飛び降りた。途端に牛車が爆発して、その爆風で吹き飛ばされる。


「下賤の者が、近づくでない」


 軽大娘皇女は傷ひとつなく、空中に浮き上がったまま晴人に言い放つ。

 休む間もなく地から沸いて出た兵士たちが晴人に襲いかかった。どの兵士も手練れで、なおかつ桜と椿の花がひっきりなしに降ってくるため、晴人は為す術もなく防戦一方になる。空中では神速が使えないのが痛かった。参道の結界のなかでは大風こそ防いでいるものの、地揺れに邪魔されて渡御の列はなかなか前に進めない。晴人は毒づく。


(早くしてくれっ)


 この不利な状況から一刻も早く遷御を済ませるためにはあやかしたちを調伏、または遠ざける必要があったが、いい手が思いつかない。

 軽皇子剣を掲げると兵士がさらに分裂して増えた。


「らちがあかねぇっ」


 晴人は顔をしかめる。


「おいおいおいおい、めっさ盛り上がってんなぁ」


 いつもの三郎の声に晴人は嬉々として振り返る。円騨と三郎が戦いの場に躍り込んだ。


「来てくれると思ってた!」


「この金剛流円騨が助太刀いたす」


 骸の兵士たちが空を走った。円騨と三郎が負けじと験力で飛び上がる。空中で円騨の錫杖と兵士の剣がぶつかり合って激しく音を立てた。円騨が素早く九字の呪法を唱える。


「臨兵闘者皆陳列在前急急如律令!」


 剣を交えていた兵士が浮力を失って地面に叩きつけられる。

 円騨はそのまま軽皇子をも地に墜とそうと錫杖を差し向けた。


「いでよ宿禰すくね


 軽皇子が声を掛けると地中からひときわ大きな骸が姿を現した。背丈は晴人の倍近くあり、腕の骨は丸太ほどに太い。宿禰と呼ばれた骸は軽皇子を狙う円騨の前に立ちはだかった。


「邪魔すれば討つのみ」


 円騨が九字の呪法を唱えると、宿禰と一緒に地中から掘り起こされた岩石がぐらぐらと揺れた。重さをものともせずに岩石は徐々に宙に浮かび上がる。


「臨兵闘者皆陳列在前っ」


 円騨の気迫のこもったかけ声と共に、空高く上がった岩石が宿禰めがけて落下した。対する宿禰も手を触れずに岩石の落下を押しとどめる。験力で押しつぶそうとする円騨と妖力でそれを受け止める宿禰。岩を挟んで、苛烈な力比べが繰り広げられた。


「ぐむぅ……っ」


「ギギギ……ッ」


 どちらも一歩も引かずに岩は小刻みに震え続ける。やがて岩が互いの圧力に負けて粉々に砕け散った。円騨は汗をびっしょりとかいて膝をつく。かたや宿禰は両手を突き出して咆吼した。とどめとばかりに花びらが円騨に降り注ぐ。


「師匠ーっ!」


 三郎が円騨の元に駆け寄った。軽皇子は鼻で笑う。


「ふむ、もうおわりか。余興としてはいまひとつであったな」


「貴様……」


 晴人は軽皇子をにらみ付ける。円騨の験力ですら敵わない敵だとなれば、この戦いはあまりにも分が悪かった。軽皇子の顔に愉悦が浮かぶ。


「葦原を皮切りに、吾はすべてを統べる皇となる。はははっ。小僧、おぬしの女も黄泉で可愛がってくれようぞ」


「……っ!」


 その一言でぞわりと晴人の体の中を何かがうごめいた。いままで闇の底に隠れていた自分の中に眠る獣がむくりと起きあがる。血がたぎり、猛々しい力が全身に満ちるのを感じた。晴人はその力を欲し、その変化をなすがままに受け入れた。みるみると晴人の体にも異変が起こる。体中の毛が逆立ち、鋭く爪が伸び、骨格すら鋭利に変貌した。


 ――待て。あやかしに囚われるな。


 カグツチの制止する声が聞こえたが、耳を貸すつもりはなかった。心地よい開放感が体中に伝わる。


「鬼憑き……」


 三郎が放心してその様子をみつめる。晴人の肌は浅黒く光り、瞳は紅く輝いていた。晴人は本能の赴くままに宿禰に向かった。宿禰は太い腕を晴人めがけて振りかざす。晴人はその腕を掴むと、易々と握りつぶした。そのまま宿禰の体を足がかりにして脳天めがけて十束剣を突き立てる。


「うおおおおぉぉぉん」


 宿禰は絶叫をあげて倒れ込むとそのまま砂となって朽ち果てた。晴人は舌なめずりをする。力を発散するのが堪らなく気持ちがいい。これ以上ない高揚感が晴人を包んでいた。


無駄いたづらなことを」


 木梨軽皇子はことさら怜悧な声で言い放った。


(内心は恐れているのだな)


 晴人はにやりと笑った。葉月の仇。しかしそれさえも、いまはどうでも良かった。どのように始末してくれようか。そう考えるだけで胸が躍った。皆殺しだ。すべてを殺し尽くして快楽の極限を味わう。


 ――止めるんだ。これ以上は人に戻れなくなるぞ。


 何かが晴人の心に訴えかけてきたが、無視をする。こんなに気持ちいいことを止めるなんてばかげている。


「おい、……晴人?」


 三郎が怖々と晴人に声を掛けた。晴人は金髪の男を見て首をかしげる。どこかで見たような気もするが、それもどうでも良かった。ただ血が、見たかった。真っ赤にほとばしる血、芳しい臓物の香り、肉を抉る手触り、断末魔の叫び、すべてが待ち遠しい。

 晴人は三郎と円騨の元ににじり寄る。狂気が晴人を支配していた。



「晴人……しっかりせいっ。わいや、わからんかっ?」


 三郎は円騨を抱えて後ずさる。晴人は十束剣を三郎の顔面めがけて振り下ろそうとした。


「いたっ! 一体何が起こってるのよ……って、きゃっ」


 笑美が暴風に晒されながらも晴人を見つけ、それから骸の兵士をみて悲鳴を上げた。


 晴人が声につられて振り返ると巫女姿の女が風に煽られて立ちすくんでいる。千早の袖が翻り、水引で結わいた長い黒髪がほつれてたなびいた。二人の目が合う。異形に成り変わった晴人を笑美はまっすぐに見つめていた。

 その瞳には驚きと恐怖、心配と憐れみ、晴人に対するすべての感情が次々と浮かび、最後には温かな信頼の情が映し出された。


 なにがあっても大丈夫だと語る、絶対的に晴人を信じ、許し、助ける、揺るぎのない眼差し。


 その視線に忘れていた母の、葉月の、それぞれの姿が重なる。晴人の体に巣くう魔物がすっと消え去った。晴人は呆然と振り上げた自分の腕を眺めた。憑きものが落ちたように元の姿に戻った晴人を見て、三郎は安堵のため息をついた。遠くで笑美が再び悲鳴をあげる。その姿はいつもの笑美だ。


「ねぇっ! 何なのこれっ!」


「馬鹿っ。早く逃げろって言ったろ!」


 そんな二人の様子を見て、木梨軽皇子があざ笑った。


「小僧。また女人の助けを借りる気か?」


「そんなんじゃねえよっ」


 それを聞いて笑美が憤慨した。


「ちょっとっ。またって何の話よ!」


「関係ねえだろっ。そんなとこに突っかかるなっ」


「だが、もう遅い」


 木梨軽皇子が晴人の後ろに続く夜空を指し示した。晴人もつられて仰ぎ見ると、蛇行しながら延々と伸びる百鬼夜行の列がすぐそばまできていた。


「こやつらと共に神を完膚なきまでに叩き、その血肉を残らず喰らってやろうぞ。いよいよ吾が国の始まりじゃ」


 いままでとは比較にならない量の桜と椿の花弁があたり一面に降り注いだ。三郎は円騨を連れて参道に逃げ込む。晴人は神速で笑美の元まで駆け寄ると、十束剣を振りかざし炎の壁を作った。


「きゃあああああぁぁぁ」


 晴人は悲鳴をあげる笑美を胸元に覆い抱いた。爆発の熱気で喉が焼けるように熱い。豪雨のように桜の花びらが炎の壁に当たってざあざあと音を立て、椿の花弁が華火のように爆発音を腹に響かせた。


 ――まつりじゃぁ。


 ――まつりじゃぁ。


 呑気な太鼓と笛の音色にまじって、人のものと思えない奇声があがった。新たな異形の行列に結界内の参列客はさらにパニックになった。我先に逃げだそうと参道から飛び出した参列客がひとり、あやかしの餌食になった。


「そうだ、それでいいっ。すべてを喰らいつくせっ」


 しかし百鬼夜行のあやかしたちの群れは、痛みを憶える結界など見向きもせずに結界の外にいる骸の兵士たちに襲いかかった。


「違う! 何をしておる! 邪神はそこにおるのだぞ!」


 木梨軽皇子が何を言ってもあやかしたちには梨のなしのつぶてだった。巨大な龍が骸の兵士を蹴散らす。木梨軽皇子は寄ってくるあやかしを切り倒しながら、晴人たちに向けていた花びらの暴風雨を一転して渡御の列に向けた。結界はばちばちと音を立てて花びらを弾いて攻撃を耐え抜いていたが、そのあまりの威力に結界が破られるのは時間の問題に思われた。


「くっそっ。邪魔すんな、どけ!」


 軽皇子の攻撃の手が止んだところで晴人たちは百鬼夜行のあやかしたちに襲われていた。手当たり次第に斬り捨てて軽皇子に近づこうにも、とにかくあやかしの数が多い。


「このままでは結界が壊れるっ」


 晴人は焦った。足下で震えていた笑美が急に晴人の足下を引っ張った。


「あぶなっ。引っ張るな! 動くと危なく斬っちまうぞ」


「勾玉がっ!」



 笑美の懐に仕舞われた勾玉が強い輝きを放っていた。包み布も巫女装束の襦袢や白衣すら透かすほどの目映い光。おかげで胸元すらうっすら透けて晴人は目のやり場に困る。


「……見せるならそっから出せ」


 ぶっきらぼうに目線を逸らす晴人の言葉の意味に気付いて、笑美は顔を赤らめる。


「やだっ! えっちっ!」


 迫り来るあやかしたちをなぎ払いながら晴人は「俺のせいじゃねえっ」と怒鳴り返した。慌てて笑美が包みから取り出すと、勾玉はまっすぐ見つめることが難しいほどの神々しい明るさを放っていた。


「なんだろう……これ」


 ――空高くかざせ。


 カグツチの声がした。


「なに?」


 晴人は問いただす。笑美はその様子を不思議そうに眺めた。


 ――その巫女に天に掲げるよう言うのだ。


 晴人はカグツチの言葉を笑美に伝えた。


「天にかざすんだ。ほらっ」


 晴人は脇を掴んで無理やり笑美を立たせた。笑美は訳もわからず言われたとおり勾玉を手のひらに載せて天に向けておおきく手を伸ばす。


 ――祝詞を。


「祝詞を言うんだ!」


「え、なんて言うの?」


 笑美はびっくりして晴人を見た。笑美も宮司の見習いとして祝詞はいくつか知っているが、暗唱できるようなものはなかった。


「大祝詞とか言えば良いの? でも私、そんな長い祝詞憶えてないよ」


「たぶん、『祓え給い清め給う』だけで大丈夫だ」


 カグツチが答える前に晴人は答えた。こんなとき神頼みをするのなら、伝える言葉はひとつしかない。よほど勘の悪い神さまでなければこれで通じるはずだろう。


 笑美がうわずった声で叫んだ。


「はらえっ。たまえっ。きよめたもーっ」


「全然違う! 言霊は発音が大事なんだ!」


 晴人は頭を掻いた。笑美の腰をぐっと押さえる。


「ちょっ。何すんの!」


「いいから! 腹にもっと力を入れて」


 笑美は晴人の真剣さに飲まれて、戸惑いながらも言われたとおり力を込める。


「そう。祝詞を唱えるには呼吸が肝要だ。息を吐いて。しっかり吐けば自然と吸う量も多くなる。意識づけも大事だ。奇蹟を信じろ。あとはとにかく発音がすべてだ。俺に続いて、あくまでも冷静さを失わずに、やりきるのがコツだ。いいな?」


 笑美はしっかりと頷いた。晴人の合図と共に互いの声が重なる。


「はらえ たまえ きよめ たもう」


 二人の言霊を込めた祝詞が天に響いたとき、勾玉がこれ以上ないくらいの目映い光を、あたり一面に白い影ができるほどの強烈な輝きを発した。


 視界が真っ白に焼き付けられて晴人は目をつぶる。まぶたごしに伝わる残光が収まってきたのを確かめて、ゆっくりと目を開いた。ぼやけた視界が徐々に明らかになってくる。


「……っ!」


 そのとき目に映った光景は、さっきとなんら変わりなかった。


「おいっ! 何もなしかよ!」


「うそ!?」


 笑美が手に持った勾玉を覗き込むと、勾玉は輝きを無くしてすっかり何の変哲もない、ただの乳白色の石に変わっていた。思わず笑美は勾玉を二度見する。


「え、えーーーっ?」


 晴人も開いた口が塞がらなかった。どうにか気持ちを立て直してカグツチに文句をつけようとしたそのとき、笑美がまたも驚きの声をあげた。


「あれ!」


 笑美が指差す方向には白い光の柱が地上から天に向かって伸びていた。一本、二本、その数はどんどん増えて、やがてどこを見回しても数え切れないほどの光の柱が立ちのぼる。そのうちの最も近いのは内宮の境内にある別宮から出ていた。


「これってもしかして……」


「ああ……」


 方角から察するに神宮が管理する宮社、全百二十五社から次々と光の柱が伸びている。やがてすべての光が天に向かって伸びきったところで、それぞれの光は吸い寄せられるように徐々に内宮に向かって角度を変え、いまも結界に力を振るう木梨軽皇子に向かって収束した。神の使わした閃光があやかしたちの闇を覆い尽くす。


「が………………が…………っ」


 神の光の中で馬も白銀の甲鎧も打ち砕けて、襤褸のようになった木梨軽皇子が頭から地に墜ちた。すっかり妖力を失ったらしく、骸の兵士たちの姿もたちまち消える。


「これが神の力か……?」


 晴人は呆気にとられて呟いた。笑美は腰が抜けてへたりこむ。


「兄さまっ!」


 神の雷を受けなかった軽大娘皇女が、軽皇子の元へ向かう。それに気がついた軽皇子が軽大娘皇女を見て声にならない叫びをあげた。


「……せっ! ……ろっ!」


 軽大娘皇女の背後に暗い影が差した。異変に気付いて軽大娘皇女が後ろを振り向いたときに見えたのは、大きく開いた真っ赤な口腔だった。空中に浮かんだ巨大な女の生首が、軽大娘皇女の上半身を咥え、ばっくりと食いちぎる。下半身はそのまま地面に落ち、そのなまめかしくあらわになった太ももを牛の首に蜘蛛の胴体をもったあやかしが大事そうに持ち去った。


「あ、……ああ……」


 力を失った木梨軽皇子は呆然とその様子を見つめるしかなかった。


「……愛してたんだろ? わかるぜその気持ち」


 失意に暮れる木梨軽皇子の前に晴人は立ちはだかった。


「多くを望みすぎたんだ。自分の国などを望まず、軽の乙女と再会だけに満足してりゃ良かったのに」


 葉月を殺した軽皇子に対し、晴人は不思議と憎しみを抱かなかった。ただ、悲しいだけだ。それはどこまでも続く深淵で、ぽっかりと開いた穴が埋まることはない。


「……吾は何度でも蘇る。理想の国で軽皇女と暮らせるまでな」


「懲りる気はなしか……」


「斬れ」


「俺に調伏はできないが……、きっと誰かがやってくれるだろ。次こそ高望みせず、愛しのきみだけをみてやれよ」


「笑止」


 覚悟を決めて首を出す軽皇子に対して、晴人は十束剣を一閃した。


 首がころりと転がる。


 晴人は軽皇子の顔をじっくりと眺めた。その表情は怒っているわけでも、嘆いているわけでもなかった。ただ淡々と虚な眼差しで空を見つめている。

 仇を取った気はしなかった。むなしいだけだ。


 骸の兵士たちがいなくなったからだろう。瑞垣たちが祭列に集まってきた。不寺の神法では神子なしでは成仏を望まぬあやかしを調伏することはできなかったが、これで誰か調伏が得意な者が後始末をつけてくれるだろう。晴人は首を拾って近くにいた瑞垣に放り投げる。


 地揺れが止んで、絹垣を囲っていた神官たちは急ぎ足で新しい正殿に向かっていった。しばらくすれば無事に入御したことを知らせる神楽歌が聞こえはじめる。


 これで木梨軽皇子の神への反乱も一件落着だった。


「……が、それにしたって騒がしいのはどういうことだ?」 


 晴人は大きく首を振ってため息をついた。結界内の遷御はつつがなく終わるとしても、結界の外は相変わらず、怨霊、妖魔、付喪神、ありとあらゆるあやかしが祭りに熱狂していて、騒乱はとどまるところを知らない。百鬼夜行は神の行方などお構いなしらしい。


「ぎゃーっ! こっちくんなっ。ぎゃーっ!!」


 笑美がまとわりつく壺のあやかしから逃げ回っている。


「おいカグツチ、あとはどうしたらいいんだ??」


 晴人はこつこつと十束剣を叩いた。面倒くさげにカグツチが答える。


 ――さあ、存ぜぬな。百鬼夜行ならば、朝日が昇れば退散せよう。


「まじかよ」


 晴人は天を仰いだ。


「遷御さえ済めばどうでもいいってか。神さまってのは自分勝手なもんだなぁ」


 晴人は十束剣を担ぎ直して、瀬戸物のおばけと格闘する笑美の元に歩いていった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ