第二幕 あらかじめ失うことが決められた初恋(一)
晴人は夢を見ていた。
「……きて」
ぽかぽかと陽が差し込む教室はまどろむにはうってつけだ。睡魔が深い眠りの底に引き込んで、たとえ悪夢だとしても起きだすのは難しい。
「起きて」
優しく透き通る声が鼓膜を震わせた。初夏の太陽と同じくらい温かな手の感触が肩に触れる。ずっと待ち望んでいた温もり。
「おいっ。起きろって言ってんだろ!」
「ぶごっ」
後頭部に大きな衝撃が走って晴人は急速に現実に引き戻された。机から頭を上げてぼんやりとした視界が徐々にはっきりしてくると、晴人の顔を覗き込む葉月が心配そうな顔が見えた。
「大丈夫?」
小首をかしげる葉月の黒髪がふわりと揺れた。その艶やかで繊細な髪に触れたい欲求を晴人はぐっと我慢する。
後ろを向くと小太りの栗田修太がおびえながらも晴人をにらみつけていた。どうやらこいつが頭を叩いた犯人のようだ。
「何だよ? いってえな」
「は、葉月様が起きろと言ってるんだ。さっさと目を覚ませよっ」
栗田は葉月の親衛隊のひとりだった。いつも葉月に影のように張り付いている。
「お前には関係ねぇだろうが」
晴人はうんざりした気分で毒づく。殴りつけてやりたい気分だったが辛うじてその衝動を抑え込む。そんなことをしても無駄な連中だ。親衛隊は鉄の結束だ。ここで栗田を殴れば、きっと親衛隊の連中すべてを敵に回すことになるだろう。これ以上親衛隊との関係を悪化させても、何も良いことはなかった。
「乱暴なことはしちゃ駄目よ」
葉月がはたかれた後頭部に触れようとして、晴人は邪険にその手を振り払った。
「触んな」
「まだ入学式から一ヶ月しか経ってないのに、こんな怠惰に授業を受けてるのは晴ちゃんだけだよ」
「いいだろ別に。それに晴ちゃん言うな」
「なんでそんなに投げやりなのかな、晴ちゃんは」
「だからほっとけ」
「ほらもう授業終わってお昼休みだよ。今日は晴ちゃんの分も作ってみました。ジャーン♪」
こちらの言うことにまるで聞く耳を持たない葉月がお弁当の包みを持ってにっこりと微笑んだ。軽く四五人前はありそうな寿司屋の桶サイズだ。親衛隊の戦慄の嘆声と羨望のため息、嫉妬の舌打ちが一緒くたになって聞こえる。
「そんなに食えるか」
「こっちは私のだよ」
そう言って葉月は寿司桶の影から小さな、と言っても普通の大きさの、寿司桶という比較対象物が悪すぎる、弁当箱を取り出す。葉月は信じられないほどによく食べる。本人は胃下垂だからと言っているが、もはや常人の食べる量ではなかった。それでそのモデルのようなプロポーションをどうやって維持しているのか甚だ疑問だが、本人はまったく意に介していない。晴人はため息をついてから、携帯で時間を確認して立ち上がった。ストラップにしている琥珀の蝶がゆらゆらと揺れる。
「どこ行くの?」
「購買」
「だからお弁当あるって」
教室を出て購買に向かう晴人を葉月が追いかける。葉月の姿に廊下に出ていた生徒たちがざわついた。ここの制服は白を基調としていながらも、セーラー服と巫女装束を掛け合わせたような独特な意匠をしている。有名デザイナーが手がけたらしく、この制服を目当てに入学してくる女子もいるらしい。晴人なんかは普通の巫女装束でいいんじゃないかと思うのだが、神社の正装と違うのは差別化のためだそうだ。その存分に腰を絞った形状は着る者を選んだが、美人の葉月には逆に良く映えた。
つまり葉月はとにかく目立つのだ。
隣に並ぶ葉月を見上げて晴人は舌打ちする。整髪料でツンツンに立ち上げた短髪を足してみても、まだ葉月のほうが背が高い。晴人にとって、モデル並みの八頭身で百七十センチある葉月と歩くのに劣等感を抱かずにはいられなかった。
晴人は心のなかでぼやく。
(この五センチに天地の差を感じるんだよな)
小学校の高学年くらいからずっと見上げ続けている。果たして追い越すことができるのか晴人には自信がなかった。
「なんで? 私のお弁当嫌い?」
さっきの話の続きだろう。葉月は悲しい声でつぶやいた。晴人は罪悪感を覚えて、ため息交じりに言葉を返す。
「茶だよ、茶」
「なんだ。そうならそう言ってよ。避けられたのかと思ったじゃない」
(避けてんだよ)
心に思った言葉は口には出さなかった。ここで葉月を悲しませれば、またどこかで監視している親衛隊どもが騒ぎ出すだろう。葉月は上機嫌に、「天気が良いから中庭で食べよっか」と言って、それから「晴ちゃんの好きなタコさんウィンナーもあるんだからね」とクスッと笑った。
「ガキ扱いすんじゃねーよ」
晴人は舌打ちする。子供の頃、葉月の家でバカみたいにタコさんウィンナーにかぶりついたのが今更ながら悔やまれた。家ではウィンナー自体が滅多に出てくることなんてなかったし、タコの形に切れ目が入っていることなどなかったから、当時はすごく嬉しかったのだ。
「またそんな顔して。晴ちゃんがいまでも大好きなの知ってるんだからね」
葉月はまたクスクスッと笑った。
晴人はその笑い方が大嫌いだった。
なぜなら自分がいつか葉月から、その目映いばかりの笑顔を奪ってしまうかもしれないからだ。
***
放課後、弓道場にタンッ!と小気味よい音が鳴る。間を置きながら三度、立て続けに黒点をついた。
図星。
正鵠を射る。
言い方はなんだっていいが、葉月の射る矢はとにかく迷いがなくて正確だった。構えを解いた葉月の元に女子たちがタオルを持って群がる。誰が葉月の汗を拭くかで揉めている。葉月は女子にも男子と同じくらい、下手をするとそれ以上の人気があった。晴人は遠くフェンスの向こうからその様子を眺めていたが、曲がり角から寮に向かう頭を丸めた仏教系の学生たちが猛烈な勢いで走ってくるのが見えて、ため息をついてその場をあとにする。
この学校は街でも屈指の神官学校だ。各地から神社仏閣の僧侶の子息が送られてくる。大半の生徒は寺持ちで、学科も仏教、神道、その他宗教にいたるまで様々で、そのなかでもさらに宗派で細分化されている。仏教系は上下関係が厳しく、修行とやらで朝昼晩絶えず走り回っていた。いま走っていった学生たちはこれから上級生が帰ってくるまでに寮を塵ひとつなく掃除しなければならないのだろう。仏教系に比べて神道系は規律がゆるやかだし授業が少ない。さらに晴人のような寺持ちでもない零細宗派はさらに少なくなる。
仏教科の連中に同情しつつ校門に向かって歩いて行くと、途中の木陰からひそひそと話し声が聞こえた。
「おい、あれが不寺だよな?」
「ああ」
「あの一条院葉月と付き合ってるんだろ」
「不寺の雅ならまだしも、粗暴な弟のほうと付き合ってるんだから女の趣味はわからねえよな」
「あんな奴のどこが良いんだろうな」
「ダメ過ぎるところが母性をくすられるんじゃねえの」
晴人は声の方向に中指を立てた。
「聞こえてんぞ」
やべえと言い残して慌てて駆け去る音がする。葉月の態度のせいで二人は付き合ってるようにまわりからは思われていた。入学式初日にして学校一の美少女の誉れを拝した葉月と、授業を寝て過ごしてばかりでちょいとばかっり背の低い晴人では釣り合わないと思う人間も多い。晴人はおかげで不良に絡まれたりと、ろくなことがなかった。実際にそんなものではないのだ。
「へへ、来てたんだ?」
突然の声に振り返ると葉月がいつの間にか立っていた。不審な顔をする晴人に
「晴ちゃんが見えたから」と舌を出す。
さっき坊主どもがばたばたと駆けていったものだから目についてしまったらしい。
「部活中じゃないのか?」
「休憩にしてもらったから」
弓道衣をまとった葉月はなかなか様になっている。本人も楽しんでいるようで、晴人はそれにまた腹が立つ。
「なんで弓道部になんか入ったんだよ?」
「だって、人目も気にせずに気兼ねなく練習できるし」
「別にお前が背負い込まなくても良いんだ」
「ダメだよ。晴ちゃんひとりにできないもん」
「いいんだよ、俺だけで」
「そんな『俺』だなんて、晴ちゃんぽくないなぁ。前みたいに『僕』で良いのに」
「そんなことはどうでもいいだろ」
最近変えたばかりの呼び方を指摘され、晴人は赤面する。
「どうでもよくないよ。私にとって晴ちゃんは晴ちゃんなんだよ。そんなに無理して変わろうとすることないよ」
「無理はしてない」
「意地っ張り」
葉月は顔をしかめたが、そのあとすぐに晴人の手を握った。晴人は思わず固まってしまう。
「だって晴ちゃんは逃げたりしないんでしょ?」
葉月は晴人の瞳をしっかりと捉えてはなさい。
「何に?」晴人は乱暴にその手をふりほどく。
「自分の運命によ」葉月はきっぱりと言い切った。
晴人が瑞垣であることは一部の極々限られた人間しか知らない。瑞垣という存在は政府によって隠蔽された秘密事項だからだ。
晴人はその運命にほとほと嫌気がさしている。