第六幕 思いの丈(二)
大飛鳥神宮裏の滝で体を清めるのが一番効果が高い。不寺ではずっとそう信じられている。午前中は艶姫たちがいて大わらわだった。午後の誰もいなくなったところを見計らって、ようやく晴人は黄泉での穢れを祓った。
「ひふみよ いむなや こともちろらね……」
祝詞を口ずさみながら体を洗う。滝の水は冷たく清涼で、日差しの暖かさも相まって気持ちが良かった。十束剣に戻ったカグツチも洗ってやる。気持ちいいかと問いかけてみたものの、返事はなかった。晴人が無事である以上、カグツチも大丈夫だと思うしかなかった。同居人として、カグツチは無事な気もする。何か理由があって出てこられないだけなのだろう。
滝の深さは膝ほどしかないので、晴人は寝っ転がって全身で水につかった。目を閉じて、ざあざあと滝の落ちる音に耳を澄ます。ついこのあいだここで葉月が禊ぎをしていたはずなのに、もうこの世にいないのが信じられなかった。寄せては返す波のように、孤独が押し寄せてくる。
「葉月……」
口にした瞬間、どうしようもない悲しみが全身を襲った。心臓が苦しくなって胸に手を当てる。口にしてはいけない。考えてはいけない。そう思っていても、思い出さずにはいられなかった。
「葉月……俺は、どうやって生きていったら良いんだよ……」
答えは、思い浮かばなかった。葉月を失った喪失感は、何をもっても埋められようがなかった。悩んでも仕方ない。どうしても耐えられなくなったときには、会いに行くしかない。葉月には叱られるだろうが、そうせざるを得ないときだってある。それが何十年後なのか、何年後なのか、はたまた数ヶ月後なのか、晴人にはわからなかった。ただ、いまは遷宮を無事に終わらせることだけに集中する。晴人は起き上がって顔に滴る水をぬぐった。
そのとき、ぽちゃんと何かが足下に落ちた。
晴人は何の気なしに下を見る。波間に揺れる水底に何か光るものがあった。あたりを見回すが誰もおらず、上空にも鳥一羽とていなかった。
「何だ……?」
手を伸ばして掴みあげると、手には小さな勾玉が握られていた。乳白色で内側から鈍い光を発している。自分が落としたのだろうか? 身に覚えのない代物に晴人はいぶかしんだ。そのまま水底に戻しておくには忍びなく、晴人は勾玉を握ったまま滝をあがり、服を身にまとった。
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晴人は不寺の屋敷には帰らず、神宮林にこもることにした。威彦があの後どうなったかは気になるが、艶姫に会えば無断で持ってきてしまった十束剣を返せと言われるだろう。十束剣には晴人の心が封じ込められたままであり、これこそが晴人の本体だった。返すわけにはいかなかった。
葉月とも関連のある品はすべて屋敷に置くことにした。気がつくと見入ってばかりだからである。葉月のことを思い出すのは辛かった。甘美な思い出ほど、思い出した後に残る絶望が計り知れない。
日中は木陰に隠れて体を休め、夜は体を鍛えることに没頭した。艶姫が式神を駆使したところで決して見つからぬよう細心の注意を払う。
山に籠もってわかったことは、自分の体の大半がすでに自分の物ではないことだった。何か別のものが住んでいる。そのせいか様々な能力、この場合は変異なのか、とにかくいままでなかった特殊な能力を得ていることに気がついた。艶姫が体を改造した成果なのだろう。
(果たしてこの代償はどこかで払うのだろうか。それとも、もう支払ってしまったのだろうか)
晴人にはわからなかった。日々は過ぎてゆく。寂寥の思いは募るばかりだった。
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晴人は闇に紛れて年若い檜の林を抜け、拓けた窪地に足を踏み入れる。以前は三十分以上かかったここまでの道のりも、神速を身につけた今は数分とかからない。
晴人はふたつに割れた母の大岩に手を触れた。
「母さん、ただいま」
どんなに人恋しくなっても我慢してきた。人と会わないようにすることで、晴人は孤独を思い出さないようにしていた。そのかわり、ここには毎日のように足を向けてしまう。今日も晴人がここにやってきたのは母に言いたいことがあったからだ。
「俺、このあいだ黄泉に行ってきたって言ったろ。いままで気がつかなかったけど、母さんにも会いに行けばよかった。どうしてあのとき思いつかなかったんだろう。後悔するよ。……会いに行ったら母さん喜んでくれたかな?」
晴人は苦笑した。あの世で息子に会って嬉しい母親なんているはずがない。そんなことが言いたいわけではないのだ。ただの独り言なのに、どうして躊躇してしまうのだろう。
「あのさ俺、父さんのこと嫌いだって言ってただろ。母さんを殺した父さんがずっと許せなかった。母さんに会えなくなったのは父さんのせいだって」
晴人は言葉をきった。空を見上げる。
「俺、父さんは母さんのことを愛してなかったと思ってた。でも最近違うなって感じるようになったんだ。俺は葉月が好きだったよ。すごく、好きだった。でも救うことができなかった。……それでわかったんだ。父さんも、母さんを使役したからって、母さんを決して愛してなかったわけじゃないって」
月が高く上がっていた。満月だ。こんな綺麗な月を見たのは初めてだった。
「違うかな? 愛って難しいから、間違ってるのかも知れない。でも母さんが死んでから父さんは神子を使わなくなった。最初は艶姫さんを愛してて、だから使わないんだと思ってた。でも違うよね。艶姫さんが大切なら、他に神子を作れば良かったんだ。でも父さんは母さんが死ぬ前から神子だった艶姫さん以外に、誰も神子を作らなかった。それはきっと母さんを失って苦しんだからだ。そして、もう誰も使役しないって決めたんだと思う」
晴人は涙を流した。最近泣いてばかりいる自分が情けなかった。いままで憎しみに囚われて悲しみを誤魔化してきたことを恥じた。
「俺、この術を教わったときに父さんが言っていた言葉を思い出したよ。『よく考えて使え。この術は世の中を幸せにするが、決してお前を幸せにするものではない』って言ったんだよ。いまさら思い出して意味がわかったって、遅いのにな」
岩はただ佇み、あるがままに晴人を受け入れていた。
晴人が岩の前で父と母との思い出に浸っていたとき、木陰から声がした。
「よう。やっぱり、ここにおったんか」
「三郎か?」
「ジョニーや」
ビニール袋を片手に革ジャンを着込んだ三郎が姿を出した。晴人の隣に腰掛ける。普段なら修行の時間だった。
「修行は?」晴人は訊いた。
「今日は休みや。おまえはここんとこ修行にきいへんな」
「……」
晴人は答えなかった。
「しっかしちょっとの間におまえは変わったなー。顔に傷なんかこさえて、めっさクールやな」
「……」
「なんで修行に来んのや?」
「……ひとりで考えたかったから」
「で、一人でぶつくさ呟いとんのか?」
晴人は憮然とした表情で三郎を見た。
「引きこもったって解決するとは限らんで。わいと師匠は何の役にも立たんのか?」
三郎はビニール袋から団子を取り出して晴人に手渡した。
「まる助の団子や。喰うやろ?」
神宮林にいるあいだ木の実や小動物ばかりを獲って食べていたので、菓子なんて食べるのは久しぶりだった。一口食べて晴人はその甘さに顔をしかめる。
「あま……」
「それがええんやないか。……じつはな。ここ数日はわいも師匠もおまえのこと探しとってん。だから修行もやっとらん。ようやっと見つかったわ。もしかしたらここに来るんやないかと思っとったけど……場所をよう覚えとらんでな。めっさ探しよったわ。辛い記憶やけど、葉月さんと最後にすごした場所やもんな」
「それだけじゃない」
「?」
「この岩、実は母親なんだ」
「……っ」
手についた団子のたれを岩にこすりつけようとしていた三郎は慌ててその手を引っ込めた。
「むかし父は母に大祓をして、そのときにあやかしを封じる岩になった。このあいだ怨霊に襲われたときにこの岩が割れたのを見ただろう。きっと母が自分を助けてくれたんだ」
「……そうか。ならわいも、このあいだは助けられたんやな」
三郎は割れた岩に向けて手を合わせた。
「わいの両親もな、あやかしに殺されたんや」
「……捨てられたんじゃなかったのか?」
昔に聞いた話では、両親に捨てられたところを円騨に拾われたはずだった。
「小さい頃は悪ガキでな、しょっちゅう近所の子供らをいじめとった。それでおかんには散々叱られ、おとんには打たれて、わいは嫌になって近くだった神宮林に逃げ込んだんや。雪のちらつく日やった。考えなしに忍び込んだもんやから、帰り道もわからんようなってもうてな。どんどん陽も落ちてきて、半ズボンやったわいは寒うてのう、思わず漏らしてもうた。そしたらさらに冷えて凍えるわで散々や。切のうて、悲しゅうてワンワン泣いとったわ。そしたらな、両親が血相変えて迎えに来たんよ。また打たれると思ったら、無事で良かったなんて二人して抱きしめてくれてな。おかんなんてサンダルやったから足血だらけや。そこまでして探してくれたんかと、ほんま嬉しかったわ。
けどな、その帰りにあやかしに襲われてもうた。二人とも最後までわいをかばってくれたせいで、きっちり親の死に目に会うてもうた。
あやかしはあかんで、情も何もあったもんやない。いま思い返しても無残な死に様や。それでなんとか一矢報いてやろうとあやかしに立ち向かったところ師匠に救われてな。……運が良かったんや。
しばらくは現実を受け入れられんかった。わいのせいで両親が死んだなんて認めとうなかった。だから捨てられたなんて嘘ついてたんや」
「……そうか」
「あやかしは許さへん。あいつらは人を不幸にする。だからわいは戦い続けるんや。例え犠牲になったとしてもな。晴人のおとんとおかんも同じ気持ちやったと思うで。
この街があるのはこうして過去にもたくさんの人たちの尊い犠牲があったからや。そして現在はわいらが守っていかねばならん。例えどれだけ辛くても、それがこの街の摂理やからな。……まさにシン・シティや」
三郎は遠い目をして空を眺める。晴人は英語が苦手なので聞き返した。
「神の街?」
「あほか。罪の街や。おまえはもっと勉強もせなあかんで。気持ちが落ちついたらまた修行に来い、師匠も待っとるからな」
英語を学ぶならロックに限ると言い残して三郎は去っていった。晴人は三郎の心遣いに感謝した。自分を気にかけてくれている人がいる。それは何よりも心強かった。
 




