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雨宿りの夜に

作者: 雷星

「ねえ、わたしのことを少しでも哀れに思うのなら、いますぐにでも死んでくれない?」

 突然背後から投げつけられた言葉の意味を理解するのに要した数秒は、彼のこれまでの人生の中でもっとも長い数秒だったかもしれない。

 長い長い数秒。まるで時が止まったかのような感覚さえあった。

 そして、あまりに理不尽で暴力的な言葉をありのままに受け止めた瞬間、彼は言葉に殺されるというのはこういうものかもしれないと思ったのだ。

 もっとも、彼は死んではいない。背筋が凍るような寒気を覚えたものの、相手に殺意などはなく、ただいたずらに暴言をぶつけてきただけに過ぎないのだ。だから、返す言葉は適当でいい。

「死にたくはないなあ」

 振り返ると、彼女はソファに寝そべったまま、携帯電話をもてあそんでいた。ぶかぶかのシャツからすらりと伸びた足が、空中に投げ出されて所在なげにさ迷っている。まるで彼女の現状のようだと彼は思った。

「減点1」

「なにが」

「つまんないから減点。ちなみに10点からの減点方式で採点しています」

 極めて事務的な口調で告げてくると、彼女は思い立ったかのように上体を起こした。長い黒髪が流れるように揺らめき、洗い立ての匂いが鼻腔をくすぐる。シャツの胸元から覗く谷間を見せつけてくるかのように身を乗り出してきた少女の気だるげな目は、挑発的な態度とは裏腹にひどく怯えているように見えた。

 茶褐色の大きな目が、濡れたように輝いている。

 沈黙があった。ふたりだけの空間に満ちた静寂を乱すのは、時計の長針が刻む旋律と、窓を叩く雨音。テレビもつけていなければ、音楽がかかっているわけでもない。きわめて静かで、それでいて無音ではないのだが、ふたりの沈黙が気まずげな空気を作り出している。

 狭い空間だ。たった六畳の天地には、少女が領有権を主張してやまない安物のソファと、彼の数少ない領地であるところの小さなテーブル、ブラウン管のテレビくらいしかなかった。調度品は別の部屋に置いてあるのだが、だからこそこの空間は狭いながらもがらんとしているように感じられた。

 家賃の極端に安いアパートだ。なにやらいわくつきであるらしいのだが、彼は特に気にしてもいなかった。安ければそれに越したことはない。

そんな一室も彼女さえ現れなければ彼だけが支配者として君臨しえたのだが、つい一時期ほど前に現れた悪魔によって永遠に等しかったはずの安寧は、脆くも崩れ去ってしまっていた。

 蛍光灯の人工的な光が、室内を照らしている。決して眩しすぎることもなければ、物足りなさ過ぎることもない適量の明かり。いや、適量よりは強い光。

 静寂に耐えきれなかったというわけでもないのだろうが、少女は大きく伸びをすると、ソファにもたれかかった。下着は隠すつもりもないのだろう。わざわざ目の前で足を組み替えてみせてきた。

「嫌な雨ねー」

 唐突に話題を変えたのは、先の話では間が持たないと判断したからだろう。その点、彼女の切り替えは早い。ひとつの話題にこだわったりはしないタイプなのだ。

「今夜はやまないらしいよ」

 それどころか酷くなる一方だという。事実、雨音は激しさを増してきていた。

「雨宿りは大正解ってことよね」

「まあ、そうなるのかな」

 彼が曖昧にうなずいたのは、少女が彼の住む部屋に訪ねてきたときのことを思い出してしまったからだ。忘れようとしていたわけではない。意識的に触れないようにしていただけなのだが。

 これが思いのほか、彼の心に引っ掛かってしまった。失敗だったかもしれない。目の前の彼女への対応が曖昧にならざるを得なくなる。

「突然の大雨だもん。嫌になるわねえ」

 少女は、壁にかかった時計でも見ていたようで、こちらの様子には気づいていないように見えた。

「そうだね」

(まるで君みたいな……)

「なぁに? なんか文句でもあるわけ? こんなエロい体をただ見れるんだから感謝して欲しいくらいなんだけど」

 怒ったように胸の辺りで腕を組んだかと思うと、胸を寄せて谷間を強調してきたのだから呆気に取られるよりほかなかった。実際、スタイルの良さは同年代でも群を抜いていたし、彼女が誇るだけの価値はあるだろう。男なら放って置かないのではないか。

 しかし、彼にはそのような気は起こらなかった。耳朶を打つ雨音が、一時間前の出来事を瞼の裏に浮かび上がらせるのだ。だからかもしれない。彼は、少女の扇情的な態度に興味も抱かなかった。

 その反応が彼女の不興を買ったのだろう・

 少女は腕をほどいてソファから立ち上がるなり、冷ややかな一瞥を投げかけてきた。

「嫌なら、家にいれなきゃいいのに」

 言葉に棘はなかった。むしろ一抹の不安と若干の寂しさがにじんでいて、こちらに顔を背けるなり居間を出ていこうとする少女の姿は、いつもよりか弱く見えた。

(できるわけないだろう)

 土砂降りの雨の中につき返すこともそうだが、泣き腫らした顔で頼ってきた少女を、どうして放っておくことができるというのか。kysa

「ベッド、借りるから」

 こちらの返答を待つこともなく、そそくさと彼の寝室に向かっていった少女の背中を見送りながら、彼は、雨音に耳を澄ませていた。時計が刻む旋律と、苛烈な雨の音色。怒りを演出する少女の足音は、すぐに聞こえなくなった。バタンという扉を閉める大音さえも、雨音の前では無力に等しい。

(嫌われたかな?)

 そうなったらそうなったで仕方がないと思う一方、嫌われたくはないな、とも考える。なんとも優柔不断な思考だが、これが自分だからどうしようもないのだと諦めに近い感情が彼の脳内を埋めていた。

彼は大きくため息をつくと、ソファへと視線を移した。ネット通販で買った黒革のソファは、ご主人様がいなくなって所在無げに佇んでいるように見える。

(おまえの主人は俺だろう?)

 ぼやいたところでなにが変わるわけでもないが。

 もう一度、嘆息する。

 彼女とは長い付き合いだ。幼馴染みといっても過言ではない。子供のころから一緒にいすぎた反動か、ある時期からつい最近まで疎遠になっていたが。

 いつの間にか、こうしてまた一緒にいる時間が増えた。

 それがいいことなのかはわからない。

 今日のように、彼女がこの部屋に飛び込んでくるときはなにかしらの理由があるときに違いないのだ。

(泣いていたよな……)

 泣きながら、雨の中を走ってきたのだろう。逃げ場所を探して、辿り着いたのがこの部屋なのだ。彼以外だれもいない空間。だれにも邪魔されることなく、思うがままに振る舞うことのできる数少ない場所。逃げ込む先としてはこれ以上にないくらいの条件だったのかもしれない。


「雨宿り、させてくれる?」


 ドアを開けた彼に向かって彼女が口にした言葉はそれだけだったし、それだけで十分だった。ずぶ濡れの少女を迎え入れた彼は、彼女が雨宿りのためだけに訪れたのではないと直感的に理解していたが、だからといって問い詰めようとは思わなかった。

 彼女には彼女の人生があり、秘密があり、隠し事がある。だれにだって、ひとに聞かれたくないことのひとつやふたつは有るのだ。彼女が自分の意志で話し出さない限り、尋ねる必要はないと思っていた。

 醒めている、というわけではない。関わりを持とうとしていないわけでもない。 なにがあったのだろう。とは思う。なにかしてあげられることはないかと考える。

 ただ、まるでこの世のすべてに絶望したかのような少女の顔は、これ以上の詮索も、慰めも同情も求めているようには見えなかった。

 結果、いつも通りに振る舞うしかなかったのだが、どうやらうまくいかなかったらしい。彼女の不興を買ってしまった。

 少女の座っていたソファを見やりながら、彼は、苦笑した。

「なにやってんだろうな、俺」

 声は、雨音にかき消されるでもなく、虚空を漂って消えた。


 朝、目が覚めると、夜の大雨が嘘のように快晴の空と眩しい日の光が世界を染めていた。あきれるほどの鮮やかさで、窓の外は目に痛いくらいに輝いている。

 雨はいつか上がる。

 空は必ず晴れる。

 日はまた昇る。

 いくつかの言葉が、浮かんでは消えた。

 彼は、テーブルの上に並んだ手料理の数々に視線を戻すと、対面に腰を下ろし、満面の笑みを浮かべながらこちらの反応を見て楽しんでいる少女に、暴言のひとつでも吐いてやろうかと思わないではなかった。昨夜の苦悩がすべて台無しにされてしまった気分だ。悪い冗談だ。

(本当に……たちの悪い)

 もっとも、それは必ずしも悪いものではないようにも思える。

 彼女のいたずらっぽい笑顔は、まるで地上に舞い降りた天使のように見えたからだ。

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