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〇〇杯参加作

花束の色は

作者: 天見ひつじ

――アイザック・アシモフに捧ぐ


お客様、本作品はアイザック・アシモフ著「黒後家蜘蛛の会」のネタばれを含んでおります。来店の際はその旨ご承知おき下さいますよう、当店の給仕よりお願い申し上げます。

 重厚な戸をくぐり抜けると、そこはすでに日常とは切り離された空間だ。

 足裏から伝わる上質なオーク材のフローリングの感触を楽しみつつ、半ば指定席と化しているいつものテーブルに歩み寄ると、そこには真面目が人の形を成したような男が一人だけ椅子にかけていた。


「やあ、相羽。来ているのはまだ君だけかい?」

「三瓶か……ああ、そうだ。全く、君たちはいつも時間ぎりぎりに姿を現すのだな」

 三瓶と呼ばれた男は軽く肩をすくめてみせる。

「まあ、みんな忙しいんだ、仕方ないだろう。それに、忘れたわけじゃないだろうな? ここではお互いに仕事の話はしない約束だ」

「私が言っているのは人としての礼儀の問題だ。全く……」

 相羽は腕を組んでそっぽを向き、まだぶつぶつとつぶやいている。

 まあ、この堅物の弁護士様が時間にうるさいのはいつもの通りだ。

「三瓶様、コートをお預かりいたします」

「ありがとう、辺見さん」

 レストラン「facade」の給仕こと辺見さんはすでに六十台と聞いているが、しわ一つないその顔は若々しく、全く年齢を感じさせない。

 彼は常に絶妙なタイミングで彼のいるべき場所に現れる。

 コートを預かり、椅子を引く、一連の動きには一片の無駄も見られない。

 正に、給仕の鏡といってもいい立ち居振る舞い。

 その洗練された挙措に思わず笑みがこぼれる。


「やあやあ、遅れるところだったよ」

 そこへ、例によってバタバタとした足取りで現れた男の名は、富増。

 彼はいわゆる高級官僚というやつで、いつも三瓶や相羽以上に忙しくしている。いつだって会が開かれる間際に駆けこんでくるのだ。

 それでも毎回参加だけは欠かさない、義理堅いやつでもあるのだが。

「富増、君はもう少し静かに登場できないのか?」

 相羽はしかめっ面で言うが、富増はそれを聞き流して辺見さんに笑いかける。

「辺見さん、全力疾走したせいで死にかけている男にソーダ割りのスコッチを」

「かしこまりました。三瓶様はいかがいたしますか?」

「そうだな、グラスでシャンパーニュを頼もう」

「かしこまりました。すぐにお持ちいたします」

 先にやっているぞというように相羽は自分のグラスを持ち上げて見せる。

 これで三人。


「さて、これで残すは毬谷と、今日のゲストか」

 今日の会はあと二人、ホスト役である毬谷と彼が連れてくるゲストの計五人で開かれる。

 ホストとゲストは他のメンバーが揃ったのを見計らい、少し遅れて二人連れ立ってくるのが通例になっている。もうじき姿を現すはずだった。

「今日のホストは毬谷か。ゲストについては聞いているか?」

 富増の問いに三瓶は首を振る。

 三瓶は一応この会の主催のようなものではあるが、やっているのは開催の日時を皆に連絡するぐらいだった。持ち回りで決まるホストの連れてくるゲストが誰なのか、については当日のお楽しみということにしている。

 今日のホスト、毬谷の職業は絵描きで、やはり職業柄なのか友人には芸術家が多い。彼がホストを務めるときは一風変わったゲストが登場することも多いので、皆楽しみにしているのだ。


「やあ、主役の登場だよ」

 そんな第一声と共に、毬谷が姿を現した。

 白いスーツに赤いシャツという、いつもながらのきざな格好。

 だが、こいつは昔からそんな服装が妙に似合う男だった。

 そして、その隣に立つ本日のゲスト。

 こちらは何とも奇抜な格好。

 確かインバネスと呼ぶのだっただろうか、コートとケープが合わさったものを黒のスーツと一緒に身にまとい、鹿撃ち帽を頭に載せた男だった。何かを彷彿とさせる格好だと思っていると、富増がこらえきれないといった様子で噴き出す。

「やあ、シャーロック・ホームズのお出ましだな」

 富増の言葉で、合点がいく。

 どこかで見たことのある服装だと思ったら、そう。

 これでパイプでもくわえていたら、まるっきり小説や映画の中のシャーロック・ホームズの格好なのだ。

「こいつは野路。職業は、見ての通り、探偵だよ」

 笑いをこらえるような表情で毬谷が紹介を行い、野路に対してもメンバーを簡単に名前だけ紹介していく。

 それが終わるのを見計らったように辺見さんが現れ、二人のコートを受け取る。

 全員が席につき、食前酒がサーブされれば、いよいよ晩餐会が始まる。


 ヘキサグラム。

 それが、この会の正式名称だ。

 この世で最高のもてなしとはなにか。

 会のメンバーがそう問われたとしたら、彼らは揃ってこう答えるだろう。

 それは、上質な料理、香り高い酒、そして何より女性のお喋りに邪魔されない場所が提供されることだ、と。

 この信条の下、大学以来の友人が集まって結成したのがこの会だ。

 メンバーは以下の通り。

 堅物の弁護士、相羽。

 多忙な官僚、富増。

 きざな絵描き、毬谷。

 そしてこの私、ミステリ作家の三瓶。

 それぞれ持ち回りでホストを務め、ホストはその回の食事代の全てを持つ。

 もちろん、ゲストの分も含めてだ。

 ゲストの野路のために、そうした趣旨について三瓶が説明したところで、富増が口を挟む。

「おい、大事な人間を紹介するのを忘れてはいないか?」

 もちろん、忘れてはいない。

「辺見さん。彼は世界最高の給仕だ」

 いつの間にか、テーブルには前菜が並んでいた。

 運んできたのはもちろん辺見さんだ。

 彼のサーブは芸術の域に達しているとは毬谷の言葉だが、三瓶もそれには同意する。

 食卓を囲む者は目の前に皿が並べられるまで、彼が近づく気配に決して気づかない。

 こと辺見さんの預かる食卓である限り、サーブで会話が途切れることはあり得ないのだ。

「本日のメニューは、多様な食文化が入り混じる地中海はシチリア風の料理でございます」

 辺見さんは控えめな微笑を浮かべ、軽く目礼して姿を消す。

「私たち四人、そしてゲストの野路さんに辺見さん。併せて六人でヘキサグラム(六芒星)というわけさ」

「皆同じくらいの歳だ。私のことも呼び捨てにして下さい、三瓶さん。それにしても、なるほど、錚々たるメンバーですね。探偵なんて職業の私が潜り込んでもよかったのかな?」

「構わないさ、ルールさえ守ってもらえるのなら、我々は何者も拒まない。それと、私のことも三瓶と呼んでくれ。他のメンバーも同様だ」

 それで構わないだろう、と目で問いかける三瓶に皆がうなずきを返す。

「ルール、ですか……毬谷から聞きました。『女人禁制』それに『尋問』ですね?」

 野路の確認の言葉に、相羽が答える。

「その通り。ゲストである君はもてなしを受ける対価として、我々の『尋問』を受けて頂く。この場ではいかなる質問に対しても正直に答える責務を君は負うというわけだ」

「まあ、探偵と言う職業柄、どうしても話せない内容もあるだろう。そういう時は無理せずそう言ってくれればいい」

「なるほど……どうかお手柔らかにお願いしますよ」

 少し緊張が解けてきたのか、野路が苦笑いを浮かべる。

「いやいや、そんなわけにはいかないな。見ろ、みんな君に興味津々だ」

「ああ、インバネスはよかったな。どこの名探偵が現れたかと思ったぞ」

 茶化す毬谷に、富増が笑い、野路は少し怒ったような様子を見せる。

「君が着ろというからだろう、毬谷。鹿撃ち帽まで用意して、おかげでここに来るまで変に注目を集めて、恥ずかしいったらなかった。大体、日本人の私には似合わないさ」

 そう言って肩をすくめる野路だが、そう自分を卑下したものでもないさと富増は笑いかける。

「いやいや、日本人だからインバネスが似合わないなどと言うのは、実際歴史を知らない証拠だよ」

「ほう、東大出の官僚様はさすが博識でいらっしゃる。一つ講義してもらおうじゃないか」

 高い学歴の人間に突っかかる癖のある毬谷がにやにやと笑って言う。

「茶化すなよ。それでだ、元々インバネスはシャーロック・ホームズが着ていることからも分かる通り、イギリス生まれのコートなんだ。その名の通りスコットランドのインヴァネス地方で、雨や雪の中でもバグパイプを守り、また演奏するために生まれたと言われている」

「ほほう、それで、そのイギリス生まれのコートがなぜ日本に繋がってくる?」

「まあ最後まで聞けよ。日本にインバネスが伝わったのは明治だが、本格的に流行したのは大正から昭和初期にかけてだ。当時、洋装の人間が増えていたとはいえ、まだまだ和装を好む人は多かった。ある程度歳を重ねた人間ならなおさらだね。インバネスはそういう人にこそ好まれた」

「ああ、なるほど」

 そこまで聞いて三瓶にも理解がいった。

「分かったのか、三瓶?」

 なら続けろと、富増が目で促す。

 一つうなずいて、ゆっくりと皆の顔を見回す。

「いいか? みんな野路が私たちの前に現れた時のことを思い出すんだ。彼のそではどうなっていたか、覚えているか?」

「袖は袖だろう。インバネスの袖がどうかしたのか?」

 相羽が怪訝そうな表情を浮かべて言うと、いや違うと毬谷が応える。

「野路に渡す前に自分で着てみたんだ。買うときには気付かなかったんだが、あれにはそもそも袖がない。コート部分の袖がなくて、その上にケープを羽織る形になっているんだ」

「そう。そしてもう一つ聞こう。君たちは和服の上にコートを着ようと思うだろうか?」

「何言ってるんだ三瓶、お前和服を着たことがないのか? 和服の袖は大き過ぎてコートの袖を通らないんだぞ」

 自慢げに言い放った毬谷以外の全員が、もうこの時点で答えに思い至っていた。

 最後に、毬谷にも分かるよう富増が解説を加える。

「そうだ、和服の上からでは普通のコートは着れない。だが、袖のないインバネスならその限りではない。もう分かるだろう? インバネスは和服の上に着られるコートとして大流行を見たんだ。野路がさっき言っていたように、現代においてインバネスがシャーロック・ホームズの仮装にしか見えないのもそのためだ。日本じゃ和装はすっかり廃れてしまったし、イギリスほど一年中雨が降る気候でもないからね」

「なるほ……いや、分かっていたがね」

 毬谷が、そんなことはとうに気付いていたというような顔でうなずいているのを、その場の誰もが、辺見さんも含めて見なかったふりをしていた。


「いやいや、こうして見ると、謎一つ満足に解けない私などより皆さんの方がずっと探偵に向いているようだ」

 空気を変えるように、野路がおどけた様子で言う。

 それに応えるのは富増だ。

「そんなことはない。探偵にも色々あるということだろう。例えるなら我らは安楽椅子探偵、それに対する君は行動型の探偵。実際、君が普段している仕事を同じようにこなせる人間が、この中にいるとは思えない。相羽なんかいつも偉そうにふんぞり返っているから、走ったらすぐに息切れしてしまうだろうよ」

「何を言う、最近は欠かさずジョギングをしているんだぞ」

 富増と相羽がひとしきり言い合うのを見届けると、仕切り直すように野路が微笑む。

「でも、本当にそうなのかも知れません。代々私の家系は考えるより体を動かす方が得意らしく、その血を引いた私も頭を使って推理するのを実は苦手としているのですよ」

 野路はそう言って笑っているが、そうやって相手を油断させるのも探偵術の内、そんなことを書いた小説か何かを三瓶は読んだことがあった。

 実際、野路の落ち着いた言動からはかなりの知性が垣間見える。

 探偵も結局は客商売なのだから、高慢な態度で客を不快にさせていたら経営が成り立たない。小説に出てくるような、いかにも名探偵というような横柄な人間は実際には探偵に不向きだろう、と三瓶は思う。


 しかし、自分は向いていないかも知れないなどという人間がなぜ探偵になろうと思ったのか。少しだけ興味があった。

「ところで、野路。君はなぜ探偵になろうと?」

「待て、三瓶。そういう質問は『尋問』の時間にするんだ」

 すかさず口を挟んだのは相羽だ。

 彼はそうした形式をことさらに重んじるタイプなのだ。

 三瓶としても、このどこかお芝居めいた会の場において形式を踏襲するのにやぶさかではない。

 食卓を見まわし、メインの肉料理もあらかた片付いていることを確認する。

 辺見さんは、もちろん、呼ぶまでもなく側にいる。

「なら、そろそろコーヒーとデザート、それに『尋問』と行こうじゃないか。辺見さん、よろしくお願いします」

「かしこまりました」

「じゃあ毬谷、ホストの君が尋問役を指名してくれたまえ」

 待っていたと言わんばかりに、相羽が毬谷を促す。

「そうだなあ、じゃあ相羽、そんなに形式を守りたいのなら君がやるといい」

「よし、引き受けよう」

 相羽は重々しくうなずき、全員にコーヒーとデザートが行き渡ったのを確認すると、グラスをスプーンの背で軽く、ちりん、と鳴らした。


 場に、心地よい緊張感が降りる。

 最初の質問だけは、決まっている。

「野路さん。貴方は何をもって、ご自身の存在を正当となさいますか?」

 野路は、少し意表を突かれたような顔をした。

「ひどく抽象的な質問ですね……少し驚きました」

 野路は真剣な顔で黙考し、やがて口を開く。

「答えましょう。人々の、そして何より私自身の探究心を満たすため、私は探偵である私自身の存在を正当といたします」

「と、言いますと?」

「探偵とは、小説や映画に出てくるような、それこそシャーロック・ホームズのように格好いいものでは、決してありません。仕事の大半は、人探しや浮気の調査、時には決して表沙汰にできない調査もあります。社会正義のため、などとは口が裂けても言えません」

「続けて下さい」

「宝探し。それが私の原点です。皆さんも、子供のころ夢中になって集めたモノの一つや二つ、おありでしょう? 私はいつまで経ってもその面白さを忘れられず、それが高じて仕事にしてしまった。そうして、宝探しのやり方を忘れてしまった人々に代わって、求める宝を探し当てる。それが私という存在です」

「なるほど。しかし、その貴方をもってしても見つけられない宝があると?」

 相羽の問いに今度こそ野路は明確に意表を突かれた表情を浮かべた。

「それは、なぜ……そう、思われるのですか?」

「先ほど貴方は謎一つ解けない、とおっしゃっていました。インバネスの袖に関する小さな謎についての発言だったとも取れますが……あの時、貴方は富増から結論が提示されるより以前に結論に辿りついていた……違いますか?」

「ええ、おっしゃる通りです」

「ならば、あの言葉は……もしかしたら貴方は今、仕事上で何か謎を抱えていらっしゃるのではありませんか?」

 相羽の問いに、毬谷が便乗する。

「野路、観念して話してしまうことだ。弁護士先生ほど藪のつつき方が上手い人間なんてこの世にそうはいないんだからな」

「毬谷、君は少し黙るんだ。……野路さん、もし、秘密の漏洩について懸念しているのなら、心配ご無用と申し上げておこう。この場での会話は、この場限りのもの。辺見さんも含めて、この部屋、この会のメンバーから外に漏れることはないと約束する」

 胸を叩いて受け合う相羽に、野路はそういうことではないと苦笑しながら首を振る。

「いえ、別に皆さんから秘密が漏れると考えているわけではありません。ただ、今からお話しする物語がこの会の趣旨に沿うものかどうか、それが心配だったのです」

「ふむ、もう少し正確に教えてもらえるかな?」

「今からお話しするのは、私の知るある人物から伝え聞いた話なのです。その人物も、私と同じく探偵。守秘義務がありますから、場所や人名など肝心なところは聞いておりませんし、肝心の謎についても脚色を交え、実際とは異なる部分があるかも知れません。それでも、構わないでしょうか?」

「おいおい、ずいぶんあやふやな話なんだな」

「まあ、まずは聞いてみようじゃないか」

 遠慮のない言葉を吐きかける毬谷を、富増がフォローする。


「これは、あるお屋敷で起きたお話なのです」

 野路は意を決したように一つうなずくと、そう語り始めた。

「少し長くなりますが、まずはそのお屋敷の主人について説明しておきましょう。彼は横浜の大船主として一代で財を成した、いわゆる成金でした。そして、そうした方々には往々にしてありがちな金遣いの荒さ、人使いの荒さでも知られる人物でもあったのです」

「ふむ、ずいぶん時代がかった話だね」

 相羽が顎に手を当てて言い、野路は笑みを一つ浮かべて続ける。

「そうそう、これは偶然なのですが、その人物もまたインバネスの愛用者であったということです。その時はそこまで深く聞きませんでしたが、彼も和装の愛好者だったのかも知れませんね。……ある時、彼は決意しました。財界の大物を招いても恥ずかしくないような豪壮なお屋敷を建て、それにふさわしい使用人たちを集めよう、と」

 野路はそこでいったん言葉を切ると、辺見さんに珈琲のお代わりを頼み、一口すする。

「事件は、お屋敷に一人の執事が雇い入れられたことに端を発します。その執事は、本場イギリスで修業を積んだ本物の執事でした。……彼らは誇り高い。自らが紳士であり、そして自らが仕える者にも紳士たることを要求します。主人は、それが気に食わなかった。二人は事あるごとに対立していたと言います。テーブルマナーに始まり、言葉づかいや礼儀作法、果ては主人の服装の色のセンスに至るまで。加えて主人は他人の意見を聞かないことで有名で、仲のいい友人や主治医ですらまともに意見できないような人でしたから、面と向かって意見するたった一人の人物、しかも一介の使用人に過ぎない執事が余計に憎らしく思えたのでしょう」

「ほう、本場の執事とはそういうものなのか?」

 少し感心した様子を見せる相羽だが、野路は軽く肩をすくめてみせる。

「さて、全ては伝聞ですから、どこまで真実かは分かりません。ともかく、二人の関係はひどくぎすぎすしたものだったと聞いています。そして、ある事件によりその関係は破局を迎えます」

「ふむ?」

 テーブルに身を乗り出す毬谷へ、野路は手で押し返すような仕草を返す。

「といっても、血生臭い事件などではありません。ある晴れた昼下がり、主人は執事に一つの命令を下したのです。『愛人に贈るための花束を買ってこい』とね。執事は使い走りのような仕事に眉をひそめはしましたが、結局はうなずき、出かけていきました」

「屋敷に使用人、お次は愛人と来たか!」

 毬谷が勢いよく身を引き、背もたれに寄りかかる。

「しかし、それがどうして破局に繋がるんだ?」

 三瓶の問いに、野路が笑みを浮かべる。

「執事が買ってきた花束を見て、主人は激怒したのです。花が、茶色くくすんだ色をしていると言ってね。執事が出がけに嫌そうな顔をしていたこともあり、主人はこれを執事の嫌がらせと受け取り、大激怒。その場でクビを言い渡したそうです。とうに愛想をつかしていた執事は淡々とそれを受け入れたのですが、主人は執事のその殊勝な態度を逆に不気味に感じたそうです」


「ふむ、それが謎というわけか?」

 勢い込んで尋ねる三瓶に、野路はゆっくりと首を振る。

「いえ、本当の謎はここからです」

 野路はショットグラスを摘み上げ、芳醇な香りを発するブランデーを口に含む。

「執事はそのままお屋敷を出ましたが、その際に彼は『どうしても取りに戻らねばならないものがあるので明日一度だけ戻ってくる』と言い残していったそうです。しかし、主人はクビを言い渡した時の彼の態度が心の隅にひっかかってなりませんでした。なぜ執事はああもあっさりと解雇を受け入れたのか? 首を言い渡した自分に恨み言の一つもないのか? 一夜を経て妄想は膨らみ、主人は『やつは復讐を企んでいるからあっさり引き下がったのだ』と確信するに至ります」

「それは……なんとも短絡的な人物だね」

 困惑したような調子で言う相羽に、富増が反論する。

「いや、自分の力で成りあがったと信じる者は、皆が皆自分を蹴り落とそうとしているような被害妄想に陥りやすいものだよ」

「それは、高級官僚として実体験からの感想かい?」

「ああ、同僚とはいえ、彼らの被害妄想っぷりは時に見てて可哀そうになるくらいだぜ」

 そのまま脱線しかける二人を引き戻すのは相羽だ。

「おい、二人とも黙れ。肝心な部分を聞くところじゃないか」

「続けてもいいでしょうか? 執事が、私物を取りに戻った最後の日のことです。主人は、屋敷を訪れた執事が変な動きをしないかどうか、自ら後ろについて見張ったそうです。何か盗んだりしないだろうか、使用人が引き抜かれたりはしないだろうか、はたまた放火など企んでいるのではなかろうか、とね」

「そのまま、他の者が茶々を入れる前に続けてくれたまえ」

「彼が割り当ての部屋の扉を開き、机の上から取り上げたもの、それはなんと昨日主人が捨てておけと言った花束でした。彼はこれをある人物に渡すのだと言って屋敷の中をすたすたと歩みます。着いたのは、なんと主人のお嬢さんの部屋の前でした」

「ふふん、心根の汚い主人の娘には、薄汚い花束がお似合いだってことか。その執事もやるじゃないか」

 どことなく嬉しげに言い放つ毬谷だが、野路は首を振る。

「いいえ、そうではありません。……また、写真を見たことはないのですが、お嬢さんは大変可愛らしく心根の優しい方であったそうです。陰では、とても親子とは思えない、などと使用人たちの間で噂されていたとか」

「じゃあ、美しいお嬢さんに嫌がらせをしたってことかい? 一転、執事のイメージが悪くなったな」

 三瓶の問いかけに、またしても野路は首を振って返す。

「いえいえ、それも違うのです。彼は、お嬢さんに花束を渡し、こう言ったのです。『私と一緒に来て下さいませんか?』とね」

「求婚したってことか? 茶色く枯れた花束を手にして? お嬢さんは何て答えたんだ?」

 驚いて声高に問う三瓶に軽く笑いかけ、野路は続ける。

「親しげに執事の名を呼び『貴方がそう言ってくれるこの日を待っていた』と。二人は主人が激怒するのにも構わず、そのまま手を取り合って屋敷から駆け落ちしたそうです。最愛の娘を失った主人はひどく落胆し、時を同じくして会社の業績も急落。成り上がりは栄達も早ければ転落も早いとはよく言ったもので、彼の家は一代で潰れてしまったそうです。以上が、私の聞いた話の全てですね」


 野路がそう結ぶと、場に沈黙が落ちる。

 最初に切り出したのは、尋問役である相羽だった

「ふむ……色々と分からない部分はあるが、まず一つ確認したい。野路さんの知り合いという探偵は、誰からこの話を聞いたんだ?」

「屋敷の主人です。彼は被害妄想の虜となり、転落のきっかけとなった執事が全ての元凶なのだと思いこみ、探偵に執事の身辺調査を依頼したのだとか。私の知り合いだったその探偵は調査を行いましたが、もちろん何も出てくるはずもなく、結局はうやむやになってしまったようです。しかし花束の話だけは妙に印象に残って、ずっと気になっていたのだ、と言っていました」

「なるほど、よく分かった。では次だ。まず私の考えでは、全ての謎は花束に集約されると思う。これに異存のある者はいるか?」

 早速噛みついたのは毬谷だ。

「なぜだ? 執事は主人への嫌がらせに枯れた花束を買ってきたんじゃないのか?」

 相羽はため息をついて返す。

「それなら、後でお嬢さんに花束をプレゼントしてプロポーズするのはおかしいだろう」

「どこもおかしくはない。執事は元々駆け落ちして仕事をやめる気で、お嬢さんと共謀して主人に恥をかかせるためにそんなことをしたんだ」

 自信満々といった体で言う毬谷に、三瓶が指摘する。

「忘れていないか? 主人は最初『愛人に贈るために』執事に買いに行かせたんだぞ。その後クビになるかどうかは分からなかったんだから、嫌がらせをしても単に自分の立場をなくすだけだ」

 毬谷はなおも言い募ろうとするが、富増がそれを制して言う。

「うん、毬谷の説には少し違和感がある。なら、こういう考え方はどうだろうか?」

 富増はお代わりの珈琲に角砂糖を二つも三つも入れながら言う。

 珈琲はブラックが至上と考える相羽は渋い顔をしているが、富増がそれを気にする様子はなく、カップを持ち上げてうなずいている。

「花は枯れてたから茶色かったんじゃない。元から茶色い花だったんだよ。主人はそれを知らなかったものだから、てっきり執事が枯れた花を買ってきたものと思い込み、よく見もせずに激怒した」

「茶色い花? そんな種類があるのか?」

 相羽が尋ねると、富増はおどけた顔をして見せる。

「さあ? でも探せばあるんじゃないか」

「いや、それも違うと思う。主人は愛人への贈り物とはっきり明言したんだろう? 執事が悪意なく花を選んだとするのなら、もっと別の選択をしたはずだ。例えば、赤とか、黄色とか、もっと派手な。茶色というのは愛人に贈るにはいかにも地味じゃないか?」

 三瓶が否定すると、毬谷が食ってかかる。

「なんだ、三瓶はさっきから否定してばかりじゃないか。自分の意見があるなら言えよ」

「……まだ考えているところだ」

 そもそも、何か前提となる条件を見落としているような、そんな気がしていたのだ。

 しかし、それが何かが分からない。


 それからもいくつか意見は出たが、いずれもすぐに否定されてしまうものばかりだった。

 みな次第に口数が減り、ただ珈琲をすする音ばかりが室内に響く。

 沈黙を破ったのは野路だった。

「いやあ、私だけでなく、皆さんでも駄目となると、これはもう当の執事本人に聞いてみるしかないのかも知れませんね」

「人探しとなると、野路さんのご本業ですね。私たちに手伝える部分はなさそうだ。面目ない」

 残念そうに相羽が言う。

 相羽以外のメンバーも心なしうつむき気味で、それだけに野路が言い放った次の一言により、皆の視線はある一点に集中することとなった。

「いえいえ、探す必要はありません。執事さんは、ずっと私たちのそばでお話を聞いていらっしゃいましたからね。そうでしょう? 辺見さん」

 野路と辺見さんを除く全員が、えっ、と声を合わせる。

 辺見さんは少し困ったような表情を浮かべている。

「いやはや、野路様もお人が悪い。わたくし、皆さまのお話を聞きながら冷や汗を流しておりました」

「じゃあ、本当に辺見さんが?」

「はい、お話に出てきた執事とはわたくしのことでございます」

「お嬢さんって言うのは……」

「私の妻にございます」

「なら、なんで途中で言ってくれなかったんだ?」

「わたくしの天職はここで皆さまに給仕をすることにございます。……それに、誰しも自分の若気の至りを開陳されるのはいたたまれないものでございましょう?」

「なら、この話はもしかして……」

「はい、昔のことです。今年は昭和五十五年。あれは昭和十年のことですから、数えて四十五年ほど前になりましょうか。わたくしもまだまだ尻の青い若造で……おっと、失礼いたしました」

 メンバーが矢継ぎ早に投げかける質問に答えていた辺見さんの口調が不意に若々しくなったことに皆が目を丸くしていると、それに気づいた辺見さんは、これは失言とばかりに大げさに口元を押さえ、茶目っ気たっぷりにウィンクして見せた。

「いや、驚いた。だが、まだ肝心の謎が解決していないぞ? なぜ辺見さんは茶色い花を買ったんだ? 私たちに真相を教えてくれないか」


 相羽の問いに、辺見さんはしばし目を閉じ、そして静かに口を開いた。

「わたくしが買って参りましたのは、深紅の薔薇にございます」

「どういうことだ? 茶色い花と言う主人の言葉とは食い違うが」

 戸惑ったように言う相羽の言葉を受け、ミステリ作家である三瓶はぴんときた。

「ああ……そういうことなのか」

「皆さま、故人の名誉にもかかわることですので、一つ念押しさせて頂きたいと思います。この場でお話ししたことは、この部屋より外に出ることは決してない。それでよろしいでしょうか」

「ああ、もちろんだ辺見さん。尋問役である私がメンバーを代表して誓おう」

 相羽が請け合う。先ほどから黙って成り行きを見守る野路は静かな笑みを湛えているのを見て、三瓶もそれに倣うことにする。

「皆さま、色覚異常という言葉はご存知でしょうか? わたくしは専門家ではございませんが、誤解を恐れず簡単にご説明いたしますと……ある種の色覚異常者は赤あるいは緑と、くすんだ茶色との見分けが非常につきにくくなるそうなのでございます」

「赤や緑がくすんだ茶色に……そうか、深紅のバラも、主人の目には茶色に見えていたというわけか。そして周囲の人間は主人のことを恐れていたから、仮に少しおかしいなと思ったとしても、誰も……辺見さんを除いて、主人の色彩感覚のおかしさについて指摘できる者はいなかった」

 納得した様子でうんうんとうなずいている富増。

「野路、お前本当は最初から全部分かっていたんじゃないのか?」

 珍しく察しのいいところを見せて野路に食ってかかる毬谷。

「ふむ、すると野路さんのお知り合いの探偵と言うのはもしかしたら……」

「相羽さんのお察しの通り、これは探偵を営んでいた私の父から聞いた話です」

 私の知り合い、とはよく言ったものだ。

 家族も、まあ知り合いの内と言えばそうなのだろうが。


 これで全ての謎は解けたと言わんばかりに顔を見合わせる野路と辺見さんの顔は、別に打ち合わせをしたわけでもないのだろうが、どこか共犯者めいて見えた。

 思い返してみても、野路の言動は叙述トリックのお約束を綺麗に踏襲している。

 こうまで見事に騙されては、もう笑うしかなかった。

「全く、やってくれたものだな、野路、それに辺見さん」

「しかし、今日はいい話が聞けたな。まさか辺見さんの若き日の恋物語が聞けるとは思わなかった。辺見さんが惚れるほどの女性なんだ。さぞ美しかったんだろうなぁ」

 毬谷が両手をひらひらさせて降参のポーズを取る。

「さあ、辺見さん。奥さんの写真か何か持っているならそう答えて、観念して出すんだ」

 富増の問いに、辺見さんは珍しく少しだけ頬を赤らめた。

「お恥ずかしながら」

 胸元から引き出され、テーブルの上に差し出されたのは銀のロケットだった。

 受け取った三瓶が蓋を開けると、皆がそれを覗きこむ。

 中に入っていたのは、辺見さんと同年代と思しき初老の女性の写真。

 毬谷ががっかりしたような声を出す。

「確かに美しい老夫人だが……私たちが見たいのは結婚当時の奥さんの写真だ。ああ、さぞ美しかったんだろうなぁ」

「何をおっしゃいますやら、毬谷様」

 辺見さんは、上品に笑って口を開いた。


「わたくしの目には、この世のものとも思えない、それこそ薔薇のような美しさを誇る彼女の姿が映っております。まことに失礼ながら、皆さま目をお悪くされていらっしゃるのではございませんか?」

かの名作「黒後家蜘蛛の会」2巻所収「三つの数字」のあとがきにはこうあります。


これは意欲があれば誰にでもできることなのだ。

例えば、二通り以上の解が成り立って、ヘンリーだけに正解を言わせることのできる話があれば、〈ブラック・ウィドワーズ〉ものが一編できあがる。


場所を日本へと移してはおりますが、来店頂いた皆さまに「黒後家蜘蛛の会」の空気を少しでも感じて頂くと共に、原作をお手に取る機会としていただければ望外の喜びでございます。

では、またのご来店をお待ちしております。

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― 新着の感想 ―
[一言] 「わたくしの目には、この世のものとも思えない、それこそ薔薇のような美しさを誇る彼女の姿が映っております。まことに失礼ながら、皆さま目をお悪くされていらっしゃるのではございませんか?」 全て…
2013/01/23 13:10 退会済み
管理
[良い点] ふーむ! と唸ってしまいました。シンプルな会話劇ながら、血生臭くなく、かと言って平坦では 決してないお話を淡々とゆっくりと言い聞かせるかのような物語。純粋に、凄く面白かったです。 お茶会全…
2013/01/16 01:12 退会済み
管理
[良い点] 何という軽妙洒脱さ。 完成されてる感が素晴らしいですね
感想一覧
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