「もういいよ」
「おうちの中で、かくれんぼしようか」
母にそう言われた時は、心の底から嬉しかった。
母はいつだって忙しそうで、あまり構ってもらえなかったから。
それにいつも疲れた顔をしていて、――いや、あの時も疲れた顔をしていた。
疲れた顔をしていた、はずだ。
私が気付けなかっただけで。
母は寝室のベッドに座ると、笑った。
「お母さんはここで十数えるから、その間に隠れてね」
「うん!」
「じゃあ、数えるね。いーち、にーい……」
私は寝室を飛び出すと、隠れる場所を探してバタバタと走り回った。
マンションの十二階に住んでいたので、下の階の住人にとってはいい迷惑だったろう。
自分の部屋に隠れようかと考え、辞めた。きっと、すぐに母に見つかってしまうから。
「もういいかーい」
母の声が聞こえてきた。私はあわてて、「まーだだよ」と返事する。
また一から数え始める、母の声。私はリビングに向かうと、こたつの中に潜り込んだ。それから少しだけ、こたつ布団をめくりあげた。
「もういいかーい」
先ほどと同じ、母の声。私は母にも聞こえるよう、なるべく大きな声で答えた。
「もういいよー」
私の答えと同時に、何かが落ちるような音がした。
母は、なかなかやってこなかった。
リビングどころか、他の部屋を探している様子もない。
息苦しくなってきた私は、こたつから抜け出し寝室へと向かった。
「……おかーさーん?」
寝室のドアを開けてみるものの、母の姿は見当たらない。
開いた窓。小さなベランダ。
ばたばたと音を鳴らして揺れるカーテン。同じリズムで揺れる洗濯物。
――悲鳴。
ベランダの真下。小さく見える母。地面に広がっていく、真っ赤な、
「もう、死んでもいいかしら」
母がそんなことを呟いたのは、かくれんぼをする三日前。それを聞いた父は、「何言ってるんだ」と笑い飛ばしてから、「まだ死ぬなよ?」と茶化すように言ったそうだ。
それに対する母の反応は、
「いつになったら、死んでもいいよって言ってくれるの?」
――三日後。母は、私にかくれんぼを提案した。
「もういいかい」と、訊いてきたのは母で。
「もういいよ」と、答えたのは私だ。
「――……もういいよって、言ってほしかったんだね。あの時」
そんな意味で答えたわけじゃなかったのに。
きっと母だって、それは分かっていたはずなのに。
それでも言ってほしかったんだろう。
「もういいよ」って。
私は手首の傷を隠すように長袖のカーディガンを羽織ると、空を見上げた。
電線でがんじがらめにされた空。
小さく息を吸って、そこにいるのか分からない人に、問いかける。
「――もういいかい」