扉
サークルで書こうとして完成度に納得がいかずにセルフボツにした作品です。
決死の形相であった。
死の淵にいる父は床に伏したまま、鬼のような面容で天井を睨みつけている。傍に、長女のヒトミが侍り、枝を想起させるほど細くなった手を握り締めている。反対側には医師が脈拍を取っており、ヒトミの夫のヒデトシがその隣に座っている。
「……もう、長くなさそうね」
次女のカエデがヒトミへと耳打ちした。カエデはすっかり耳の遠くなってしまった父には聞こえないことは承知しつつも、憚るような声音で返した。
「そうね。お父さんが死んだら、わたしたちも自由になるのかしら」
ヒトミの言葉にまだ中学を卒業したばかりの末っ子のミキが口を挟んだ。
「ちょっと待ってよ。あたしが高校に通うお金はどうするの。姉さんたちが払ってくれるの? まだ死んでもらっちゃ困るのよ」
ミキの声は父以外のものたちの耳にはっきりと聞こえた。医師が所在無さそうに目を右往左往させる。ヒトミとカエデ恥じ入るように顔を伏せ、人知れず舌打ちする。まだ子供だというのにひとりで大きくなったような顔をしている妹は、長女と次女にとっては邪魔以外の何者でもなかった。
「お医者さん。お父さんを助けてあげて。あたしの人生に必要なのよ」
医師へとミキがすがりついた。父が隙間風のような呼吸を漏らす喉から、ミキの名を搾り出そうとする。父にはミキはよく出来た娘として映っていたであろうが、その裏では父のことを財布以下としか思っていないことを二人の姉は知っていた。ミキに比べて、という言葉が晩年の父の口癖だった。妹と比べられることをよしとしない姉たちは家を出ることも考えたが、それすらも許されなかった。
「お前らはわたしの財産だ。財産は勝手に逃げ出さないし、意思を持ったりはしない」
父の言葉は二人の姉を縛り付ける鎖として機能していた。ヒトミは底から逃れたい一心で結婚したというのに、婿養子という形で夫のヒデトシとともにこの家に閉じ込められる毎日を送っていた。もっとも、ヒデトシはそうは思っていないらしく、夫の前だけいい舅の仮面は通用しているようだった。
娘のことを案じ、婿養子にも心配りの出来る懐の広い男。ヒトミはそれを演じる父の姿が憎らしく、吐き気すら覚えた。一度、父の束縛から本気で逃れるために、ヒトミはヒデトシと二人で家を出ることを提案した。蓄えも十分にある。しかし、ヒデトシはそれを頑として受け入れなかった。
「どうして、こんなにいいお義父さんから離れたいんだい? 僕は羨ましいくらいだよ。あんなに君の事を心配しておられるじゃないか」
夫は父の仮面を完全に信じきっていた。ヒトミは死ぬまで父の財産であり続けなければならない自身の運命を呪った。
カエデは、というと父に役者の道を反対されていた。
「役者なんて先の知れないものにはなるな。いい男と夫婦になり、この家を存続させることだけを考えろ。お前の存在理由はそれだけだ」
カエデもまた、この家に縛り付けられていた。父を恨んだ。役者の道を否定するだけならいざ知らず、父は娘の存在すら人間以下だと規定したのだ。憎悪の火が燃え上がり、カエデは反抗するようにヒトミと違って結婚を考えようとしなかった。父の決め付けた鋳型にはめ込まれるのが嫌だったのだ。
だが、その矢先に父は急病に倒れた。現在の医学では治らないらしく、何ヶ月も床に伏せ、今まさに終わりのときを迎えようとしていた。
二人の姉は今まさに解放されるときを待ち望んでいた。ミキだけが嫌そうにしていたが、その根底にあるのは父と同じ、人間を財産としか見ない考え方だ。そんな妹に二人の姉は手を差し伸べることなど考えていなかった。
その時、父が喉からかすれ声を出した。ヒトミの掌に乗せられた手が今一度活力を取り戻し、ゆっくりと指先が動いた。ヒトミは父の顔を覗き込んだ。カエデも同じように父を見つめた。よもや、死の淵から這い上がってくるのではなかろうな。その不安に絡め取られたように、二人の姉は父の顔に視線を固定した。
「どうしましたか、お父さん」
ヒデトシが父の額に滲んだ汗を拭う。父は息も絶え絶えに、言葉を一個一個吐き出した。
「……お前ら、蔵の扉、は知っているな」
三姉妹は頷いた。父の言う蔵の扉とは、庭の裏にある白い壁の蔵、その入り口である古びた木製の扉のことであった。
「その扉が、どうしたの?」
ヒトミが尋ねると、父は呼吸困難に喘ぐ魚のように、口を何度もパクパクさせた。
「……あの扉は、普通の方法では、開かぬ」
「存じていますわ」
カエデが返答する。
蔵の扉は現代のような錠ではなく、扉の横に備え付けられた特殊な鍵によって閉ざされていた。その鍵の場所を知っているのは父だけだった。もとより、父以外は誰も蔵になど頓着していなかったのである。三つの鍵穴があり、その鍵穴も現代のものとは違う。縦長の長方形であり、その鍵穴は扉よりも奥に続いているようだった。
「必要なものをあそこに仕舞ってある。お前らが困窮したときに、それを開けるがいい」
「それ、本当?」
ミキが父に詰め寄り、その指先に触れた。必要なものという言葉に引っかかったのだろう。恐らく財産だろうと三姉妹は当たりをつけた。二人の姉はそんなことはどうでもいい、という風を装いながらも、次の瞬間には財産の鍵の場所を聞きだす手段を講じていた。
ヒトミはさも悲劇の娘のように泣き咽び、首を振って言葉を振りかけた。
「そんなものはいいわよ、お父さん。私たちは、お父さんが生きていさえしてくれれば。……ああ、でも今年から私立に通うミキの学費を払えるかしら。それだけが、お父さんに相談できなかった心残りだわ」
「わたしもそう。結婚の準備をいい人としていたのに、残念だわ。お父さんに晴れ姿を見せられないなんて。……ああ、でも結婚式は出来るだけ豪華にして、お父さんを喜ばせたかった」
ミキの学費の心配も結婚も口からでまかせだった。
父は碁石のような目をヒトミとカエデに向けた。次いで、父はヒデトシへと目を向けた。ヒデトシが体を父に近づく。父はヒデトシへと手を差し出した。ヒデトシがそれを握り締める。それを見たヒトミが感極まったというように言った。
「お父さん。ヒデトシさんなら、心配しなくても大丈夫よ。この人はしっかりしているから」
ヒデトシが父に頷いた。
震える声が、静かに乾いた唇から搾り出される。
「鍵の場所は、わしの書斎だ。三つの鍵がある。それぞれを携えて、蔵の鍵穴に――」
その時、突然父は激しく咳き込んだ。血反吐が白い布団を染める。医師が急いで処置をしようとしたが、その途中で目を伏せて手を止めた。その手を握り締める。父は二、三度痙攣するように瞼を震わせた後、動かなくなった。医師は腕に巻いた時計を見やり、静かに臨終を告げた。
父の葬儀が終わった二日後、三姉妹はそれぞれ鍵を携えて蔵の前に立っていた。蔵の周りは茫々に草が伸びており、手入れなど一切されていないことを物語っていた。父が恐らく使用人にも蔵へと近づくことを禁じていたのであろう。近くに放り出された昔の農業用具が、年月の圧力に耐え切れず朽ち果てていた。
ヒトミは手に握った鍵へと視線を落とした。それは一般的な鍵とは異なっていた。形状を大雑把に示すならば、所々折れ曲がった鉄の棒だった。先端に引っ掛ける箇所が出っ張っており、それだけが鍵だという証だった。ただの歪曲した鉄の棒と説明されてもおかしくないものを三姉妹は握りながら、目の前の蔵の扉に目をやった。
扉の周囲はしんと静まり返っており、その静寂を一身に背負っているようだった。静寂の皮膜を破ったのは長女のヒトミだった。扉の前に立つと、一番上の鍵穴に鍵を差し込んだ。振り返り、妹たちに言った。
「あんたたちが持っている鍵を渡しなさい。私が開けるから」
その言葉にカエデが抗議の声を上げた。
「ちょっと待ってよ。そうやって財産を独り占めする腹なんでしょ」
「そんなことは考えていないわ。早く、鍵を渡しなさい。三つの鍵で同時に開けるのよ」
「冗談じゃないわ。お断りよ。姉さんに奪われるくらいなら、このまま開けないほうがマシだわ」
「ちょっと! あたしの学費はどうなるの!」
ミキの甲高い喚き声に、二人の姉はヒステリックに叫んだ。
「あんたの学費なんて払うわけないでしょう! 開けた人間のものよ、財産はね!」
ミキがその言葉に食いかかろうとする。三姉妹はお互いを鍵で殴りつけた。鉄製の鍵は凶器に変じた。服が破れ、擦り傷や切り傷でお互いの顔がいっぱいになった頃に、カエデが冷静に口を開いた。
「分かったわ。順番に、公平にやりましょう」
最初は長女のヒトミが三つの鍵を試すことになった。三つの鍵を入れ込むが扉は開かない。残りの二人もそれに続いたが、結局扉は開かなかった。何度も組み合わせを講じ、幾通りも試してみたが、まるで開かなかった。
三姉妹は諦めきれないと思いながらも、結局開けること叶わずに開かずの扉の前で無為に時間を過ごすしかなかった。その日は諦めて三姉妹は明朝に備えるため早めに眠りについた。
蔵の周囲に生えている茫々の草の中を歩く影が、月光が雲に隠された夜半に現われた。
風が吹いて、草の先端を揺らして緑色の空気をくゆらせる。影は草いきれの充満する空気の中を泳ぐように掻き分け、蔵へと辿り着いた。影は、一番下の鍵穴に長い鉄の棒に見える鍵を差し込んだ。中の金具を先端に巻きつけ、引っ張ると、四角い金具が鍵についてきた。影はふぅと一息つく。鍵は姉妹が手にしていたもののうちのひとつだった。いや、この場合どれであろうと関係がなかった。三つの鍵は同じ形をしていたのだから。
「三つの鍵に三つの鍵穴と聞けば、誰でも同時に開けると思い込む。最期に掌に本当のことを書いてくれなかったら、きっと分からなかった」
父は最期の瞬間に弱気になって影の手を握ったわけではない。三姉妹にくれてやるよりも影の人物に託すことを決めたのだ。指で書かれた感触を思い出しながら、影は扉を開けた。蔵の中は思ったよりもこざっぱりとしていた。部屋の中心に壷が置いてあるのみだ。その壷へと影は歩み寄り、壷を床から剥がした。壷は思ったよりも重く、中に何かが入っているようだった。
その壷のあった部分だけ、丸く周囲の床とは違う色に隔絶されている。その円の中心に手紙が置かれていた。影は壷を傍らにおいて、その手紙を開いた。それは父の筆跡だった。
「我が娘ながら三姉妹の業は深く、三人の誰であっても余の意思にそぐわぬであろうことは想像に難くない。なればこそ、三人以外の誰かにこれを託す。壷の中身は」――。
影の人物はその文を読んで薄く笑った。その時、雲が切れ、蔵の窓から月光が射し込んでいる。
壷の口を閉じている縄を解き、封を開く。覗き込んだ瞬間、つんと漂ってきた刺激臭に顔をしかめた。
「――毒か」
これで三姉妹を殺せと、父は命じているのだろう。ならば、それに従おうと影の人物は決めた。壷を抱えて、影の人物は蔵から出ようとした。その歩む方向に十字に縁取られた月光が落ちている。青い光に、影の人物は顔を上げた。
ヒデトシが、死人のように白い顔の口元に笑みを作っていた。