婚約者に浮気を疑われて婚約を解消されましたが、浮気相手と決めつけられた騎士から求婚されました。
「あの騎士と、二度と会わないと約束してくれ」
ロズヴィン様は、私が差し出した報告書に手を触れず、そうおっしゃった。
メルゼン伯爵家の応接室。
窓際には侍女が控え、卓上には、まだ湯気の立つお茶が二人分あった。
「冬の備えについて、お父様から任されている確認があります。面会をやめるのでしたら、別の担当者を決めていただかないと」
「そういうことを聞いているんじゃない」
私は、膝の上で両手を重ねた。
「では、どういうことでしょうか」
「私と、あの男と、どちらが大切なんだ」
婚約者の顔を見た。
二十歳になったばかりの、タルフェン子爵家の跡取り。
私より二歳年上で、初めて舞踏会に出たときには、緊張している私を笑わせてくださった人だった。
その方がいま、私が何をしてきたのか知ろうとせず、答えだけを求めている。
「イゼル様とは、仕事の話をしています。いつも、ほかの者も同席しています」
「それなら、なぜあんなふうに笑っていた?」
回廊でのことだ。
手袋の見本を見て、皆で笑った。
なぜ笑ったのか説明しようとすると、ロズヴィン様は眉を寄せた。
「言い訳はいい」
私は、口を閉じた。
どこまでお話しすれば、聞いていただけるのだろう。
*
私はフィオレッタ・メルゼン。十八歳になった春から、父の仕事を少しずつ手伝っていた。
兄が家を継ぐので、私が領主になるわけではない。
それでも、領地から上がってくる報告書を読み、実際に何が不足しているのか知っておきたいと思った。
最初に父から預けられたのは、冬の巡察に使う防寒具の調達だった。
領内には、王国の東部巡察隊が駐屯している。
その装備費の一部を、領主である父が負担していた。
私は家令の指導を受けながら、工房の見積もりと隊からの要望を整理することになった。
注文や支出を最終的に決めるのは父だ。
私にできるのは、その判断に必要なものを揃えることだった。
巡察隊から確認役として来たのが、イゼル・ルーデン様だった。
二十歳の、若い騎士。
町の革職人の息子で、見習いを経て二年前に叙任されたと聞いている。
昨年の洪水では、増水した川の向こうに取り残された住民を、仲間とともに救助した。
勇ましいお姿を想像していたけれど、最初にお会いした彼は、執務室の入口で、入ってよいのか二度確認した。
「どうぞ。そちらの椅子へ」
「失礼いたします」
家令の隣に、きちんと座る。
背筋が真っすぐすぎて、少し苦しそうだった。
私も人のことは言えなかった。
前夜、報告書に間違いがないか見直しすぎて、あまり眠れていなかったのだ。
「こちらが、昨年の支出をもとにした案です」
イゼル様は、私の書いた一覧を丁寧に読んだ。
あるところで、指が止まった。
「手袋は、昨年と同じものでしょうか」
「はい。代わりに、予備の外套を増やしています。昨年は不足したと伺ったので」
「外套は、ありがたいです。ただ、手袋も、ご検討いただけないでしょうか」
予算には、限りがある。
私は、昨年の帳簿に目を落とした。
「何か、不具合がありましたか」
イゼル様は、少し迷った。
「支給されたものですので、使えないわけではありません。ただ、雪で濡れると、手綱を握るところが滑ります。乾くまで、替えがあれば」
言い終えたあと、私ではなく家令を見た。
要求が多すぎたと、思っているようだった。
「実物を見せていただけますか」
彼は、私を見た。
「いま持っているものでも、よろしければ」
「ぜひ」
差し出された手袋は、掌のところが薄くなっていた。
指先には、何度か縫い直した跡がある。
「……昨年、途中で買い替えた人はいらっしゃいますか」
「はい。自分で用意できる者は」
私は帳簿を見た。
不足したと記録されていない理由が、やっと分かった。
足りていたのではなく、足りない分を、自分で補っていたのだ。
「家令。外套の数を決める前に、隊の保管庫も確認できますか。修繕して使えるものがあれば、その費用と買い足しの費用を比べたいのです」
「手配いたします」
イゼル様が、私を見ていた。
「……申し訳ありません。案を、作っていただいていたのに」
「直せるうちに教えていただいて、助かりました」
私は、彼の手袋を両手で返した。
「次は、最初から伺います。昨年と同じならよいと思い込んでしまいました」
彼は少し目を見開き、やがて、小さく頷いた。
*
調達の案は、すぐにはまとまらなかった。
外套は、縫い直せば使えるものと、生地そのものが傷んでいるものがあった。
修繕を頼む工房にも、冬前はほかの注文が入る。
手袋を買うなら、誰に何組必要なのか確かめなければならない。
私は家令や侍女を伴い、保管庫へも工房へも出向いた。
イゼル様は隊長から許可された時間に同行し、巡察のときにどのように使うのか、説明してくださった。
ある日の工房で、私は厚手の革を手に取った。
「これなら、丈夫そうですね」
「丈夫ですが、指を曲げるのが大変かもしれません」
イゼル様が、試しに革を折り曲げた。
ほとんど曲がらない。
「……指を守る前に、動かせなくなりますね」
私が言うと、工房の親方が笑った。
イゼル様も、少しだけ口元を緩めた。
私は耳が熱くなった。
帳簿の数字なら、何度も見た。
でも、実物を知らなかった。
「父が革を扱っています。帰省したとき、手袋を分解して叱られたことがあって」
工房を出て、馬車へ戻る途中、イゼル様が言った。
「どうして分解したのですか」
「自分で繕えるようになりたくて」
「それは、いいことでは?」
「父の、売り物でした」
私は思わず笑ってしまった。
隣にいた侍女も、口元を押さえている。
イゼル様は、困った顔で頭を下げた。
「まだ、小さかったころの話です」
「分かっています。でも、売り物を選ばなくても」
「一番よくできているものを、調べたくて」
また、笑ってしまった。
イゼル様は、叱られるのを覚悟して告白した子どものような顔をしたあと、ようやく笑った。
私はその日、帰りの馬車で窓の外を見ながら、同じことを何度も思い出した。
婚約者以外の男性を、恋しいと思ったわけではない。
自分の失敗を笑って話せる彼のことを、少し羨ましいと思った。
ロズヴィン様の前では、最近、失敗の話をしなくなっていた。
*
ロズヴィン様との婚約は、二年前に決まった。
隣り合う領地の家同士で、昔から往来があった。
私たちも、初めて会ったわけではなかった。
婚約したとき、ロズヴィン様は、緊張して頷く私を見て「返事はもう少し大きくてもいいよ」と笑った。
そのあとのお茶の席では、私が何を好きなのか、いろいろ聞いてくださった。
私は押し花の栞を作るのが好きで、いつか庭に花を増やしたいとお話しした。
「じゃあ、温室のことは任せようかな」
そう言っていただいて、うれしかった。
父の仕事を手伝い始めたとお話ししたときも、最初は「いい勉強になるね」と言ってくださった。
けれど、次の面会で調達の話をすると、少し退屈そうな顔になった。
「そういうのは、使用人に任せればいい」
「最終的に決めるのはお父様ですけれど、私も、どんなふうに準備するのか覚えたくて」
「結婚したら、そこまでしなくていいよ。庭が好きなんだろう?」
庭は、好きだった。
だからといって、それ以外のことを知りたくないわけではなかった。
うまく伝えられず、私は花の話に戻った。
そのうち、イゼル様の名前を出すと、話が止まるようになった。
「よく来るんだね、その騎士は」
「隊からの確認をお願いしているので」
「君が、直接会う必要はあるのか?」
同席者を交えた面会であることも、毎回父へ報告していることもお話しした。
ロズヴィン様は、「そう」とだけ答えた。
それから、私が途中まで説明すると、ご自分の領地の話を始めるようになった。
私はその話を聞いた。
帰ったあとで、自分が何を伝えたかったのか、もう一度考えた。
*
夏の終わり、試作の手袋が屋敷へ届いた。
家令が工房に手直しを頼む前に、イゼル様に確かめていただくことになった。
隊のほかの方の意見も持ってきてくださり、指先の長さや、手首を締める紐について、皆で相談した。
その帰り、工房の親方とイゼル様を、回廊までお送りした。
侍女も一緒だった。
親方は急いで工房へ戻ると言って、先に馬車寄せへ向かった。
私は手元の試作品を見て、ふと尋ねた。
「今度は、売り物を分解しなくても大丈夫ですね」
イゼル様が、目を丸くした。
「……覚えていらしたのですか」
「ええ。どのくらい叱られたのか、まだ伺っていなかったので」
「その日の夕食のあとも、ずっと」
侍女が先に笑った。
私もつられて笑い、イゼル様は、また少し困ったように笑った。
その場を、ロズヴィン様に見られた。
約束の時刻より早く、父との面談にいらしたところだった。
執事が、ご到着を知らせにこちらへ向かっていた。
「楽しそうだね」
声をかけられ、私は振り向いた。
「ロズヴィン様。お早かったのですね」
彼は返事をせず、私の手元を見た。
「贈り物か?」
「支給する手袋の試作品です。先ほどまで、工房の方にも」
「そういう話か」
イゼル様が、一歩下がって礼をした。
ロズヴィン様は、その姿を上から下まで見た。
「もう帰るところだろう。婚約者が来たのだから、遠慮してもらえるかな」
彼が、私のほうへ手を差し出した。
イゼル様は何も言わず、もう一度礼をして、馬車寄せへ向かった。
私は差し出された手に、自分の手を重ねられなかった。
「いまの言い方は、失礼ではありませんか」
ロズヴィン様の目が、私へ戻った。
「君は、誰の婚約者なんだ」
侍女の前で言われたことが、ひどく恥ずかしかった。
でも、恥ずかしいと思った理由は、叱られたからだけではなかった。
私がお招きした相手に、こんな扱いをしたことが。
それを、婚約者だから許されると思っていることが。
「応接室へ、参りましょう」
私は、彼の手を取らずに歩き出した。
*
応接室でも、説明は届かなかった。
報告書には、面会の日付と同席者を記していた。
父が確認した印もある。
ロズヴィン様は、それを開こうとしなかった。
「使用人が、主人の娘に不利なことを言うわけがないだろう」
私は、窓際に控える侍女を見た。
彼女は唇を結び、まっすぐ立っていた。
「お父様にも、工房の方にも確かめていただけます」
「だから、私は、ほかの人間の説明を聞きたいんじゃない」
彼は、私へ身を乗り出した。
「あの騎士と、二度と会わないと約束してくれ」
仕事の引き継ぎが必要だと答えると、彼は私を遮った。
自分とイゼル様と、どちらが大切なのかと。
私は、卓上の手袋を見た。
濡れた革で手綱を握るのが怖いと言った、若い騎士の声を思い出した。
「私は、婚約の約束を破るようなことはしていません」
「私が嫌だと言っている」
「何があったのかを、確かめてください。嫌なお気持ちになったからといって、私たちが不貞を働いたことにはなりません」
ロズヴィン様の顔が赤くなった。
「婚約者にそんな口を利くほど、あの男をかばいたいのか」
私は、指先を重ね直した。
震えを止めたかった。
「何もしていない方を、かばうことはいけませんか」
しばらく、返事がなかった。
「そこまで言うなら、この婚約は終わりだ」
私は、彼を見た。
「君に不貞があったと、父上へ報告する」
喉が、ぎゅっと狭くなった。
何もしていない。
それでも、そう言われただけで、今後会う人の目が変わるかもしれない。
私は手袋を卓上の端へ置いた。
「では、両家の当主の前で、何があったのか確認してください」
ロズヴィン様が、わずかに眉を動かした。
「私が謝れば、事実を確かめずに済むとは、思わないでください」
*
父は、その日のうちに侍女と家令から事情を聞いた。
イゼル様の隊長にも連絡し、確認役としての訪問記録を揃えてくださった。
「あの方の処分を、隊へ求めないでください」
私が言うと、父は書類から顔を上げた。
「まだ、何の落ち度も見つかっていない者の処分を、なぜ求める」
私は、両手を握った。
「……ロズヴィン様が、不愉快に思われたので」
「不愉快に思った者がいることと、罰する理由があることは違う」
父は、私の前の椅子を引いた。
「お前も、座りなさい」
腰を下ろすと、急に、膝の力が抜けた。
「婚約を、続けたいか」
聞かれるまでは、考えないようにしていた。
家同士で決めたことだから。
隣の領地と、これからも付き合っていくのだから。
私は、膝の上を見た。
「あの方が、私の説明を聞いてくださらないままでは、嫌です」
父は、続きを待った。
「私が何をしたかではなく、ご自分がどう感じたかだけで、私のしたことを決められるのが、怖いです」
最後のほうは、少し声が小さくなった。
「そのまま、結婚したくありません」
父は、頷いた。
「分かった。婚約の解消は、両家で協議する。ただし、不貞が理由だったという形にはしない」
私は目を閉じた。
「お前にも、あの騎士にも、その先の暮らしがあるからな」
胸の奥にあったものが崩れて、私はそのとき初めて泣いた。
*
両家の話し合いは、五日後に行われた。
父とタルフェン子爵が卓を挟んで座り、その横に、私とロズヴィン様がいた。
イゼル様は隊長とともに来ていた。
家令が面会記録を読み上げ、工房の親方が、打ち合わせの内容を説明した。
侍女は、回廊で私たちが何を話していたかを証言した。
「手袋を分解したときのお話で、笑っていらっしゃいました」
イゼル様の肩が、わずかに動いた。
こんな場でまで子どものころの失敗を説明されることになり、申し訳なかった。
それでも彼は、俯かなかった。
「私からフィオレッタ様を、私的な面会へお誘いしたことはありません。贈り物も、個人的な手紙も、お渡ししておりません」
隊長が、訪問の目的と命令を受けた日付を示した。
家令の記録と、日付が一致していた。
ロズヴィン様は、しばらく黙っていた。
「だとしても、私の婚約者が、あんな男と親しげにしていたのです」
タルフェン子爵が、息子を見た。
「不貞だと言ったのではなかったか」
「ですから、その疑いが」
「いま、不貞があったと裏付ける話は、出ていない」
ロズヴィン様の手が、椅子の肘掛けを掴んだ。
「ならば、もう会わないと約束すればいい。そうすれば私も」
「ロズヴィン様」
私は、彼を見た。
「イゼル様への疑いが晴れても、お会いしてはいけないのですか」
「私が嫌だと言ったことを、なぜやめられない?」
問い返された。
私の答えは、もう決まっていた。
「疑いが晴れたあとまで、根拠なく仕事相手を遠ざけるよう求められることには、同意できません。私の仕事をどう続けるかは、お父様とも相談して決めます」
ロズヴィン様は、私を見た。
初めて知らない相手の話を聞いたような顔だった。
「君は、そんな人だったか」
私は、少しだけ笑いそうになった。
笑えなかった。
「ご存じなかったのなら、これからも、難しいと思います」
父が、婚約を解消する意思を子爵へ伝えた。
子爵は私へ意思を確かめ、私は、自分も解消を望むと答えた。
正式な書面はその後に整えられた。
婚約は両家の合意で解消すること。私にもイゼル様にも、不貞を認める根拠はなかったこと。その二点が、双方の当主の署名とともに記された。
子爵は、すでに事情を話した近親者にも、その内容を伝えると約束した。
ロズヴィン様は、父親に促されて、私とイゼル様へ謝罪した。
「……疑いを断定したことは、軽率でした」
その言葉を、私は受け取った。
でも、結婚したい気持ちは戻らなかった。
*
婚約の解消が正式に決まってから、十日ほどたったころ。
イゼル様は、隊長と家令がいる打ち合わせのあと、私に時間を求めた。
執務室に家令と侍女が残り、私は席へ戻った。
「確認役を、交代していただこうと考えております」
私は、持っていた筆を置いた。
「なぜですか」
「このまま私がお伺いすると、また、フィオレッタ様のお名前に傷がつくかもしれませんので」
彼の膝の上に、封筒があった。
「もう、隊長へお願いしたのですか」
「相談はしました。ただ、正式に願いを出す前に、こちらの引き継ぎを確認するようにと」
私は、封筒を見た。
イゼル様の指が、その角を押さえている。
「ご自身が、離れたいのですか」
彼は、すぐには答えなかった。
「私と会うのが、苦痛になったのなら、そうおっしゃってください」
「そのようなことは」
「では、なぜ」
声が強くなり、私は一度息を吸った。
同じことを、してはいけない。
私も、彼の話を聞かなければならない。
イゼル様は、封筒から手を離した。
「怖くなりました」
静かな声だった。
「自分が来たせいで、あなたが、あのように責められたことが。次に来るときも、誰かに何か言われないかと」
彼は、私を見た。
「あなたのためと言いましたが、自分が怖いのも、あります」
私は膝の上で、指を開いた。
「私も、怖いです」
イゼル様の目が動いた。
「また、何か言われるかもしれないと思っています。でも、何もなかったと確かめたあとで、あなたが来なくなったら、私は……」
言葉を探した。
彼の人生を、私の都合で決めたいわけではない。
「何もしていなくても、疑われたら諦めるしかないのだと、覚えてしまいそうです」
侍女が、私のそばで静かに立っていた。
「私のためかどうかは、私にも聞いてください。あなたがどうしたいのかも、聞かせてください」
イゼル様が、目を伏せた。
「……この仕事を、最後までやりたいです」
私は、頷いた。
「試作の手直しも、まだ終わっていません。実際に使う者の意見を聞いてくださった方に、何ができたか、見ていただきたいので」
私も、そのつもりだった。
外套と手袋が届き、皆がそれを使うところまで、見届けたかった。
「では、家令と隊長に、続ける方向でご相談しませんか」
彼は顔を上げた。
「よろしいのですか」
「はい。それが、私の希望です」
まだ不安が消えたわけではなかった。
それでも、誰かに聞かれたとき、自分の考えを言える気がした。
そのあと、父と隊長にも相談し、確認役は続けていただくことになった。
面会は、これまでと同じように同席者を交えて行った。
*
秋が深まるころ、防寒具の納品が始まった。
修繕した外套と、新しい外套。
手の大きさに合わせた手袋。
濡れたものを替えられるよう、巡察の人数をもとに決めた予備。
私は家令と保管庫へ行き、届いたものを数えた。
イゼル様は、隊の担当者と、名簿に照らして受け取っていた。
途中、私の計算と箱の数が合わなくなった。
「一つ、多いようです」
家令が確認し、イゼル様も箱を見た。
「フィオレッタ様。その箱、先ほども数えていませんでしたか」
私は、手元の紙を見た。
同じ印を、二度つけている。
「……数えました」
家令が、口元を引き締めた。
笑いをこらえているのが、分かった。
「もう一度、最初からお願いします」
私は立ち上がり、箱を二列に分けた。
「今度は、数えたものをこちらへ移します」
「では、私が運びます」
イゼル様が、大きな箱を持ち上げた。
私も小さな箱を動かし、数を読み上げた。
全部、合っていた。
「お騒がせしました」
「数が合って、よかったです」
彼は、それだけ言った。
笑わないように気を遣った顔ではなく、本当に安心した顔だった。
帰り際、試しに手袋を着けた若い隊員が、何度も指を曲げていた。
「これなら、手綱を持ち替えるのも楽です」
その言葉を聞いたイゼル様が、私を見た。
私も彼を見た。
二人とも、少し笑っていたと思う。
誰かに見られたらどうしようとは、そのときは思わなかった。
うれしかったのだ。
長い時間をかけて、確かめて、直してきたものが、役に立ったことが。
*
確認の仕事が終わると、イゼル様が屋敷へ来る理由もなくなった。
最終報告にいらした日の帰り、彼は玄関の前で足を止めた。
家令が書類を執務室へ置きに戻り、私のそばには侍女がいた。
「フィオレッタ様」
「はい」
彼は手袋を嵌め直しかけ、やめた。
「今度、任務ではなく、お訪ねしてもよろしいでしょうか」
私は、すぐには返事ができなかった。
「私に、ですか」
「はい」
彼の耳が、赤くなっていた。
「その、調達の報告ではなく。お茶をご一緒させていただければと」
何を意味するのか、分からないほど幼くはなかった。
でも、分かった途端に、返事の仕方を忘れた。
「お父様にも、お伝えして」
そこまで言って、私は自分の言葉を止めた。
父に知らせるのは、必要なことだ。
けれど、その前に。
「私は、お会いしたいです」
イゼル様が、私を見た。
「お仕事のお話でなくても」
彼は、深く息を吐いた。
「ありがとうございます」
侍女が、私の横で「では、ご都合を伺いましょう」と言った。
私は、自分の顔が赤くなっているのを知っていた。
*
初めて私的にお招きした日、イゼル様は小さな花束を持っていらした。
応接室へ入る前に父へ挨拶をし、そのあと、侍女のいる庭の東屋でお茶を飲んだ。
彼は花束を差し出すとき、まるで大切な書類を渡すように、両手を揃えていた。
「どの花がお好きか、まだ存じ上げなかったので」
季節の花を少しずつ集めた、小ぶりな花束だった。
私は、白い小さな花に触れた。
「これ、栞にしてもよろしいですか」
「栞に、なるのですか」
「ええ。乾かして、押して」
私は、作りかけの栞の話をした。
紙を開くのが早すぎて、花が曲がってしまったことも。
「待てなかったのですか」
「途中が気になって」
イゼル様が笑った。
「私も、父の作業場で、乾いていない革を触って叱られました」
「叱られたお話、多いですね」
「父に聞かれたら、ほかに覚えていることはないのかと言われそうです」
私は声を出して笑った。
彼は、お茶が少し苦手だということも話してくださった。
砂糖を入れるべきか分からず、いつもそのまま飲んでいたらしい。
「入れてはいけないのかと」
「お好みで、大丈夫です」
砂糖入れを寄せると、彼は礼を言い、一つ落とした。
飲んでから、もう一つ足した。
「私も、甘いほうが好きです」
そう言って自分のお茶にも入れると、彼は、少し安心した顔になった。
二度目は、庭を歩いた。
三度目は、父も交えて昼食をとった。
父は彼に、騎士になるまでの話を尋ねた。
私は隣で聞きながら、自分がまだ知らないことが、たくさんあるのだと思った。
彼の叙任に伴う身分は、一代限りのものだった。
大きな領地も、屋敷も持っていない。
父が将来の任地を尋ねると、イゼル様は、希望は出せても、自分だけでは決められないと答えた。
「冬の巡察では、何日も戻らないことがあります。家族ができても、そこは変わりません」
私のほうを見て、彼は続けた。
「もし、いずれ、そのようなお話をお許しいただけるのでしたら、先に知っておいていただきたくて」
父は、お茶を置いた。
「フィオレッタにも、暮らし方について考えがある。二人で、よく話しなさい」
私が貴族の娘だから、必ず同じ爵位の家へ嫁がなければならない、という決まりはない。
それでも、身分や暮らしの違いを気にする方はいる。
父がそれを軽く考えているわけではないことも、分かっていた。
だから私も、頷くだけで終わりにしたくなかった。
昼食のあと、侍女に少し離れて控えてもらい、庭の小道でお話しした。
「私は、結婚しても、何か役目を持っていたいです。今回のような仕事でも、それ以外のことでも」
イゼル様は、足を止めた。
「ただ、まだ一人でできることは少ないので、学びたいのです。庭だけを見て暮らしたいわけではありません」
「はい」
「もちろん、庭も好きです」
慌てて付け加えると、彼は少し笑った。
「その両方を、伺いたいです」
胸が、熱くなった。
「任地が変われば、その土地でできることも変わると思います。私が勝手に大丈夫だと約束できることではありませんが、一緒に考えたいです」
何でも叶うと言われたわけではない。
それでも、私は、その返事がうれしかった。
「留守の長さも、暮らしにかかるお金も、教えてください。私も、分からないまま大丈夫とは言いたくないので」
イゼル様は、真面目な顔で頷いた。
「はい」
その日は、まだ何かを決めたわけではなかった。
でも、次に会ったときも、この続きを話したかった。
*
ロズヴィン様と再びお会いしたのは、婚約解消から三か月ほど過ぎたころだった。
両家に共通の親族が開く、冬前の小さな集まり。
私は父と出席した。
イゼル様に私的にお会いしていることは、隠していなかった。
父へ正式に訪問の許可を求めている以上、親しい家々の耳にも入る。
ロズヴィン様は、私が父の隣を離れ、侍女とともに飲み物を取りに行ったところで、声をかけてきた。
「結局、あの騎士なのか」
私は、振り向いた。
「お付き合いを、始めております」
「やはり、あのときから」
「いいえ」
前より、声がよく出た。
「あなたと婚約していた間、私は約束を守りました」
ロズヴィン様が、口を閉じた。
「婚約が解消されてから、互いを知るために、お会いするようになったのです」
「だが、そんなに早く」
私は、彼を見た。
あの日から、どれだけ待てばよかったのだろう。
彼が、もう疑わなくなるまでだろうか。
「私がこれから誰を選ぶかは、私が決めます」
ロズヴィン様は、悔しそうに唇を動かした。
「君のために、温室を直すつもりだった。望んだ暮らしを、させるつもりだったんだ」
そのお話を聞いたとき、うれしかったことは覚えている。
嘘だったとは、思わない。
「ありがとうございます。でも、私の望みは、温室だけではありませんでした」
彼は、黙っていた。
「私の話を、聞いていただきたかったのです」
そこまで言うと、近くにいた父がこちらへ歩いてきた。
私を見て、声をかけてよいか確かめるように足を止めた。
私は父に頷き、ロズヴィン様へ一礼した。
「失礼いたします」
呼び止められなかった。
帰りの馬車で、父が「大丈夫か」と聞いた。
私は少し考えてから、答えた。
「はい。言いたかったことを、言えました」
*
最初の霜が降りた朝、イゼル様が屋敷へいらした。
巡察から戻り、次の任務まで数日の休みをいただいたという。
事前の手紙には、私と父に、改めて申し上げたいことがあると書かれていた。
私は、朝から同じ本の同じ頁を何度も読んだ。
内容は、ほとんど頭に入らなかった。
父への挨拶が済んでから、庭に面した小部屋へ移った。
扉は開けてあり、侍女は少し離れたところで花を整えている。
イゼル様が、私の前に立った。
「フィオレッタ様。私と、結婚していただけませんか」
声は、真っすぐだった。
けれど、指が、わずかに震えていた。
私は、彼を見上げた。
「初めてお会いしたとき、私の話を聞いて、作った案を直してくださいました。礼を言うのは、こちらのはずなのに、教えてくれて助かったと」
手袋を差し出した、あの日。
彼はあのとき、私が思った以上に、話すのをためらっていたのかもしれない。
「自分が何を知っているか、もう少し伝えてもよいのだと思いました。そのあとも、分からないことを、分からないとおっしゃって、一緒に確かめてくださった」
私は、頷いた。
「お慕いするようになったのは、婚約が解消されるより前です」
息が、一瞬止まった。
「ですが、あなたにお伝えするつもりはありませんでした。仕事で伺うことと、自分の気持ちを混ぜてはいけないと思っていましたので」
彼は、少し俯いた。
「交代を願い出ようとしたのも、あのままいれば、自分の気持ちまで知られてしまうのではないかと怖くなったからです。あなたのためと申し上げたのは、十分に正直ではありませんでした」
私は、あの封筒を思い出した。
「それも、今日、知っていただきたかったのです」
彼が顔を上げた。
「仕事が終わったあと、会いたいと言っていただけて、本当にうれしかった。花のことも、まだお一人では難しい仕事があることも、伺えて」
声が少し、柔らかくなった。
「これから覚えることや、できるようになることを、そばで知っていきたいです。私のことも、知っていただきたい」
私は、すぐには返事をしなかった。
言葉を、ちゃんと受け取りたかった。
彼が、前から私を好きだったこと。
それでも、婚約している私へ踏み込まずにいてくださったこと。
身を引こうとしたときの、格好のつかない気持ちまで、話してくださったこと。
「私は」
声を出すと、喉が少し震えた。
「あなたに、これからも来ていただきたかったのです。確認役を続けたいとおっしゃったときは、仕事を最後までできることが、うれしかった。でも、そのあとは」
庭の東屋が、窓から見えた。
「お茶のお約束をした日から、次に来てくださる日を、楽しみにしていました」
イゼル様の目が、少しだけ細くなった。
「私も、お慕いしています。あなたと結婚したいです」
彼は、一度深く息を吐いた。
私が何か言うより先に、また息を吸う。
「ありがとうございます」
何度も聞いた言葉なのに、その日は、少し違って聞こえた。
彼が、自分の手を見た。
「手を、取ってもよろしいでしょうか」
私は頷き、自分から差し出した。
彼は、両手で包むように受け取った。
「冬の巡察から戻ったら、甘いお茶を用意しておきますね」
言うと、彼は少し笑った。
「砂糖を、二つ」
「覚えています」
私は、彼の手を握り返した。
小部屋を出ると、侍女が目元を拭きながら、父を呼びに行った。
正式な婚約の日取りや、新しい住まいのことは、これから決める。
まだ知らないことも、相談することも、たくさんあった。
それを面倒だとは、思わなかった。
*
その日の午後、私はイゼル様からいただいた花で作った栞を、本から取り出した。
白い花は、少しだけ色が変わっていた。
それでも、小さな花びらの形はきれいに残っている。
彼は、窓辺でそれを見ていた。
「触れてもよろしいですか」
「どうぞ」
慎重に持ち上げ、光に透かす。
指先の、革を縫った小さな傷が見えた。
「私も、一つ作ってみたいです」
「では、今度、一緒に」
そう答えると、彼はうれしそうに頷いた。
「開くのを、待てますか」
私が尋ねると、彼は少し考えた。
「あなたが気になって開けようとしたら、お止めします」
「あなたが先に開けたくなったら?」
「そのときは、止めてください」
私は笑った。
彼も笑った。
窓の向こうから、父と家令の話し声が近づいてきた。
私たちは、栞を机の上へ戻した。
誰が来るのか分かったので、私は自分から扉のほうを向いた。
「お父様。今度は、イゼル様にも花の種を選んでいただこうと思うのです」
父が、入口で足を止めた。
イゼル様は少し驚き、それから私を見た。
「庭に、ですか」
「はい。お好きな花があるか、まだ伺っていなかったので」
彼は、ゆっくりと頷いた。
「では、ご一緒に選んでもよろしいでしょうか」
私は、はい、と答えた。
~完~




