造られた箱庭を逃げ出して(エマ)
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○登場人物:エマ・ウィンストン、ジュリア・エルロイド、サイモン・ウォーカー
窓の外を見ると、王都の青い空が広がっている。
石造りの校舎を包むように造られた薔薇の生垣が、甘い香りを風に乗せて教室へと運んでくる。
私は先ほど返ってきた答案用紙を、そっと机の引き出しに仕舞い込んだ。
上の下。何につけても、それが私、エマ・ウィンストンの定位置だった。
毎日参考書をめくり、歴史の年号を暗記し、魔術の術式を指が黒ずむほど書き連ねても、何日も徹夜で試験勉強しても。どんなに頑張っても、結果はいつも全体の10~15パーセントあたりをいったりきたりしている。
決して悪くはない。どっちかっていうと優秀な部類になるんだと思う。でも、その上にはいつも、本当の天才たちがいた。
「エマ、今回の魔術史、難しかったよね」
かわいらしい声とともに、柔らかな金髪が視界に飛び込んできた。
ジュリア・エルロイドは、私が王都の学校に来て初めてできた友達であり親友で、学校の誰もが憧れる美少女だ。彼女の手にある用紙には、満点に近い数字が見える。
「そんなこと言って、ジュリアほぼ満点じゃない。私なんて、87点だよ」
「偶然ヤマが当たったんだよ。エマの方が頭いいでしょう。いつも図書館で遅くまで勉強してるし。私、知ってるよ」
ジュリアは、いつも私が頑張っていることを知ってくれている。努力を認めてくれる。それは悪意のかけらも見えない、皆が言う純粋無垢な天使のようで。だからこそ、私は時々追い詰められたような気持ちになる。
放課後、私はジュリアといつものように、教会の孤児院で行われるボランティア活動に参加していた。
私は、古い寄宿舎の床を雑巾で磨き、重い洗濯桶を運び、子供たちの破れた服を繕った。爪の間に泥が挟まるのも気にせず、必死に黙々と手を動かし続ける。
ジュリアもまた、子供たちに勉強を教え、絵本を読み聞かせ、そのかわいい笑顔で場を和ませていた。
すべての作業が終わり、夕暮れが街を黄金色に染める頃、孤児院の院長がやってきた。院長は私に見向きもせず、まっすぐにジュリアの手を取った。
「ジュリア様、今日も本当にありがとうございました。あなたのような高貴で慈悲深い方が、こうして汚れる仕事も厭わずに手伝ってくださるなんて……。子どもたちも、あなたのおかげで明日を生きる希望を持てます」
ジュリアは困ったように微笑み、「エマも一緒にやってくれたのですよ」と言葉を添えた。
だが、院長の目はジュリアの輝きに釘付けで、私の方を見ようともしなかった。最後に形式的に「ああ、そちらの方もありがとう」と軽く頭を下げられただけだった。
―― またか
胸の奥に、冷たい澱みがたまっていくのを感じた。
こういうことが、よくあった。
つい昨日のこと。学校の敷地で道に迷って泣いていた留学生の子供を見つけて声をかけたのは私だった。泣く子のつたない言葉をなんとか理解し、手を引いて案内した。途中で合流したジュリアは、ただその子の頭を撫でただけだった。なのに、駆けつけた親は涙を流して、ジュリアに感謝を捧げた。
「ジュリア様、あなたがこの子を救ってくださったのですね、ありがとうございます」
あの時も、ジュリアはちゃんと「エマが見つけたの」と言ってくれた。けれど、周囲の大人たちの記憶の中では、いつの間にか「ジュリアが迷子を助けた」という話になっていた。
―― なぜ、いつもこうなのだろう。
私はジュリアのことが好きだった。優しくて、かわいくて、自分を思ってくれる、大切な大切な友達だ。
けれど、二人で何かをするたびに、周囲の視線はジュリアだけに向けられ、自分の存在が透明になっていくような錯覚に囚われた。
学校への帰り道、夕日で赤く染まった石畳を歩きながら、ふと、少し先を歩くジュリアの背中を見つめた。
ジュリアの細い手首には、教会から贈られたという、繊細な銀のブレスレットが鈍く光っていた。
私が漠然と感じたその奇妙な違和感を、私よりも的確に見ていた者がいた。
誰とも群れずに一人でいることが多いせいか、クラスでもどこか浮いた存在の、サイモン・ウォーカーだった。
すっきり刈られた黒髪に、するどく細めた夜色の瞳。その見た目のせいもあってどこか冷めた印象を受け、同じクラスといっても、これまで数えるほどしか言葉を交わしたことがないクラスメイトだ。
彼からの最初の接触は、魔術の演習授業の後だった。
一人で残って演習道具の片づけをしていた私の前に、彼がふらりと現れた。彼は無言で重い木箱を持ち上げ、私の作業を手伝い始めた。
「あ、ありがとう、ウォーカー君」
驚いて声をかけると、彼は表情を変えないまま、ぼそりと呟いた。
「……君って、いつもそうなの?」
「え?」
「誰も見ていないところで、誰もやらない雑用ばかり押し付けられてる。それなのに、手柄はいつも別の誰かにいく」
その言葉に、私は目を見張り、息を詰まらせた。
何かを知っているのだろうか。でも、彼はそれ以上何も言わず、最後の箱を棚に片づけるとすぐに去っていった。
二度目は、それから数日後の図書室だった。
閉館間際まで残って勉強をしていた私の机に、影が落ちた。見上げると、ウォーカー君が古い革表紙の本を抱えて立っていた。彼は私のノートに目を落とし、小さく鼻を鳴らした。
「こんなに遅くまで勉強してるんだね。そんなにびっしり書き込んでも、明日の小テストで名前を呼ばれるのはエルロイドなんだろうな。」
「ウォーカー君……ジュリアってが自頭がいいんだよ。私は逆で、元々の頭の出来はよくないから。だからこそいっぱい頑張らないとね…」
私が自嘲気味に笑って言うと、彼の目が、凍りつくような冷たさを帯びた。
「要領の問題じゃないよ。これは人の『認識』の問題なんだ。
……君、本当に考えたことないの? 毎回毎回、なんで自分の努力が、みんなに分かってもらえないのか。キレイさっぱり消えてなくなるのか」
彼の言葉は、鋭い棘となって私の胸の奥を突き刺した。自分の実力不足、自分の地味さのせいにしていた『何か』を、彼は真っ向から否定している。
そして、次の日の放課後。
いつものようにボランティアを終え、ジュリアと共に校門をくぐろうとした時だった。
「ウィンストン!」
校門の横に佇んでいた人影が、静かに進み出て二人の前に立つ。ウォーカー君だった。
夕暮れの赤い光が、彼の黒髪を輪郭づけている。
ジュリアがふしぎそうに小首を傾げた。
「ウォーカー君? 何か用かしら」
だが、彼はジュリアの存在など気にせず、その強い視線をまっすぐ私へと向けた。
「君に、話したいことがあるんだ。」
その声は低く、どこか緊迫感を孕んでいた。
彼とこれまでした会話が頭の中をめぐり、鼓動が速くなっていく。周囲の風が、急に冷たさを増したような気がした。
「それで、話したいことって何?」
ジュリアを先に帰らせ、学校の裏手にある古い東屋でウォーカー君と向き合っていた。
沈みかけた太陽が、私たちの間に長い影を落としている。風が木々を揺らし、ざわざわと騒がしい音を立てている。
彼はしばらく黙って私を見つめていたが、ポケットから二枚の紙切れを取り出して私の前に置いた。それは、先週のボランティアのメンバー表と、学校に届けられた教会の報告書の写しだった。
「それを見て、おかしいと思わないか」
「何が?」
「君もジュリアと一緒にボランティアに参加してたはずだ。でも、君の名前は参加者の欄だけにしかない。床磨き、洗濯、服の補修、学習指導、読み聞かせ。そのすべてが、報告書では『ジュリアの成果』として記載されてる。2時間でこれ全部ひとりでやるなんて、どう考えても無理だろう。
孤児院の件だけじゃない、この間の街の迷子の件もそうだ。実はあの時、見ていたんだ。迷子の子をなだめて、手を引いて親元に届けたのは君だっただろう。でも、学校の記録には、ジュリア・エルロイドの功績として記載されている」
私は息をのんだ。
誰にも気づかれていないと思っていた。自分が地味で、ただ人々の印象に残らないだけなのだと、自分に言い聞かせてきたのだ。
「それは、ジュリアの方が華があるし、彼女は目を引くから……」
言い淀む私に
「そんな次元の話じゃない」
と詰められ、その靴音が石畳に硬く響いた。
「人間はそこまで盲目じゃない。どんなに印象が薄くても、普通は目の前で自分を助けてくれた人を間違えたりはしない。これは『認識の改変』だと思っている」
『認識の改変』
その言葉の不吉さに、背筋に冷たいものが走った。
「信じられないなら、明日、昼休みに図書館の奥の禁書庫に来て。
偶然、教会に関するある記述を見つけたんだ。自分の目で確かめてみればいい」
彼はそれだけ言うと、去っていった。
一人残された私は、自分の両手を見つめた。インク汚れが染みついて、少し荒れてしまった自分の手。
―― 努力は必ず報われるとは限らないのよ。
幼い頃から、母に言われてきた言葉が頭をよぎる。
世の中には理不尽なことがあふれている。だからこそ、自分のために最善をつくしなさい、と。
けれど、今のこの状況は、本当にただの『理不尽なこと』なのだろうか。
考えても分からなかった。ただ、彼がわざわざ私に話に来た、という事に重い何かを感じた。今まで一クラスメイトだっただけの彼に、単純に興味がわいたのかもしれない。
次の日の昼休み、石造りの回廊を通り、図書館に向かった。
休み時間が始まったばかりのせいか人はまったくおらず、日光が長い廊下をまばゆく照らし、自分の足音だけが異常に大きく響く。緊張で口の中がカラカラに渇いていた。
図書館の最奥、鍵が解かれた禁書庫の扉を押し開けると、部屋の一番奥、魔導ランプの小さな灯りの下にウォーカー君が座っていた。彼の前には、古びた羊皮紙の本が広げられている。
「早かったね」
そう言って彼は静かに、開いていた本のページの一節を指差した。
そこに書かれていたのは、過去に失われたとされる禁忌の魔道具――『聖女の腕輪』に関する記述だった。
「これ、エルロイドがいつもつけているブレスレットのことだと思う。あれ、教会から渡されたんだろう。」
彼の声が、冷ややかに、しかし確信を込めて響いた。
本から、そこに書かれたことから、目が離せない。
「あれは、着けている者の周囲で発生した『善行』や『奇跡』の因果を書き換える呪具だよ。書き換えて、すべてブレスレットを着けてるやつの功績として周囲に認識させるんだ」
「……え?」
「つまり、君がどれだけ頑張っても、そのブレスレットの効果で、すべての評価は自動的にエルロイドへと向かう。逆に言えば、近くにいない人間、例えば君の家族や、君を遠くから見ている人には効果がないから、きっと君のしたことは正しく評価されているだろう。でも、その場に居合わせた者たちの記憶は、その場で書き換えられてしまうんだ」
頭を強く殴られたような衝撃だった。
彼の言葉を聞きながら、私の脳裏には激しい拒絶感が渦巻いた。
知らなければよかった。自分の実力不足だと、自分が地味だからだと諦めていれば、大好きなジュリアを嫌わずに済んだかもしれない。
でも、知らなければ、ずっと何も気づかずにのうのうと過ごしていたのだ、という恐怖がつのる。
呼吸が荒くなる私に、彼は痛ましそうな目を向けた。
「ずっとそうだと信じて、自分に言い聞かせてきたの。
でも、なぜ信じていたのかさえ、もう分からない。ただ、夢から覚めたことだけは確かよ。」
私の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
「なんで……ジュリアが、そんなことを……」
「エルロイド自身は知らないのかもしれない」
ウォーカー君が静かに否定した。
「あのブレスレットは、教会が特定の誰かを『聖女』として仕立て上げるために使ってるんだと思う。今、教会も国も、民衆を統合するための象徴としての聖女を求めている。それに見た目も血統も良く、民衆受けのするエルロイドが選ばれただけ。彼女はただ、教会から贈られた記念品か何かだと思ってブレスレットを身につけてるだけなんじゃないかな」
「そんな……じゃあ、私の努力は、全部……」
その時、禁書庫の入り口の扉が、鈍い音を立てて開いた。
闇の中から現れたのは、白い法衣を身にまとった教会の神官だった。その背後には、数人の神殿騎士が控えている。
ウォーカー君がとっさに私をかばうように前に出た。ぴんと張り詰めた空気が流れる中、神官の顔に浮かんだのは、焦りや怒りではなく、どこまでも慈悲深く、そして酷く冷ややかな微笑みだった。
「おやおや、昼ごはんはどうしたんですか? 迷い子の生徒たちかな。熱心に何を読んでいるのかと思えば……」
神官は私たちが広げていた古い書物に一瞥をくれると、困ったこどもを見るように、ふっと小さく息を漏らした。
「なるほど、そんな古いお伽話を真に受けていたのですか。ウォーカー君、ウィンストンさん。君たちのその推理は、いささか想像力が豊かすぎる……それは昔の人が書いた、ただの物語ですよ。そんな恐ろしい呪いが、この神聖な国にあるわけがないでしょう」
「っふ。白々しい」
ウォーカー君が鋭い声を上げた。
「では、なぜウィンストンの行ったボランティアがすべてエルロイドのものとして、教会の記録に書かれているんですか? その場にいた人間たちの記憶にも、ウィンストンが消えているのはなんでですか?」
神官は少しも動じることなく、むしろ気の毒そうに首を振った。
「それはね、人が見たいものを見ているだけに過ぎませんよ。民は、美しく気高きジュリア様が奇跡を起こす姿を望んでいる。だから自然と、彼女の印象ばかりが強く残るのです。神が彼女に特別な輝きをお与えになった……それだけのこと。それを、道具による改変だなどと、教会への不敬が過ぎますよ」
神官の言葉は穏やかだったけれど、その穏やかさの裏には、これ以上何を暴こうとしてもすべて『こどもの戯言として処理する』という、巨大な組織の絶対的な壁が存在しているようにも思えた。
「……聖女というのは国のために必要なものなのです。王家も、今の民の心の支えとして、ジュリア様という光を求めておいでなのですよ。それを、君たちのような小さなこどもの歪んだ嫉妬や、根拠のない妄想で汚すことは、決して許されません」
神官の目が、一瞬だけ、凍りつくような鋭さで私を射抜いたような気がした。
「ウィンストンさん。突出した才能を持たない者が、輝く者を羨む気持ちは分かります。ましてやあなたはその輝きを最も近くで見てしまっている。自分が成り代わりたいと思っても仕方ありません。ですが、身の程を知るということはとても大切なことです。静かに現実を受け入れることもまた、信仰の美徳なのですよ」
そう言って神官は、あえて私たちをとがめることも、拘束することもなく、静かに背を向けた。
「さあ、そろそろ昼休みも終わってしまいますよ。早く戻りなさい」
その背中を見送りながら、私は全身の血が冷たくなっていくのを感じていた。
力で脅されるよりも、自分たちの訴えが『なかったこと』として笑顔で踏みつぶされることの方が、よほど恐ろしかった。何もできない。私たちの声など、国を動かす大きな歯車の前には届かない。
無力感という名の底なし沼に、深く沈んでいくのを感じていた。
その日から、私の世界は色を失ってしまった。
学校へ行けば、相変わらずジュリアが中心にいて、その周りには多くの人々が集まっている。その中には、私が密かに思いを寄せていた上級生の姿もあった。
彼はいつも私を気遣い、優しく声をかけてくれていた人だった。けれど、今、彼の目はまっすぐにジュリアだけを映している。
私のしたことがジュリアのしたことになる。そうしてジュリアが私の成果を纏えば纏うほど、彼の心もジュリアへと傾いていくのが分かった。そして私の熱も冷えていった。
最初は大丈夫だと思った。そんなことどうってことないと思った。そう思いたかった。
それでも、心の淀みは消えず、ただ心の中でだけ泣く。その涙に意味はあるのだろうか。
見えないように膜を被せておくことは出来るけれど、出来てしまった溝は二度と埋まることは無い。
どれほど自分を納得させようとしても、自分の存在を否定され続ける苦しみは、私の心を確実に削り取っていった。
そんなある日の放課後、誰もいない教室で、ジュリアが手招きして私を呼んだ。
夕暮れの教室。まぶしい赤オレンジ色の光が、ジュリアの美しい金髪をまるで後光のように照らし出している。その手首では、あの銀のブレスレットが不気味なほど静かに輝いていた。
「ねえ、エマ」
ジュリアはいつも通りの愛らしい笑みを少し曇らせ、私の手をそっと握る。
「最近、少し元気がないでしょう? 私、心配していたの。……私に、何か隠していることはない?」
私は一瞬、息を詰まらせた。
澄んだ瞳に見つめられると、すべてを見透かされているような錯覚に陥る。
「……ジュリア。あなた、自分の周りで起きていること、どう思っているの?」
静かに、震える声を絞り出した。
「私がやったことも、他の子がしたことも、気がついたら全部あなたがしたことになってた。皆あなたにお礼を言っている。ねぇ、おかしいと思わない?」
ジュリアの笑顔がとまった。その瞳にかすかな動揺と、それ以上に深い「冷たい光」が宿るのを、私は見逃さなかった。
ジュリアは私の手を離し、窓の外の王都の街並みへと視線を移した。
「……気づいていたわよ、もちろん。いくら私でも、そこまで鈍感じゃないもの」
ジュリアの声は、いつもより少し低かった。
「おかしいって、ずっと違和感はあったわ。エマや他の子が頑張ったことなのに、なぜか全部私の功績だと思い込んでしまう。理由は分からない。ううん、多分このブレスレットをいただいてから、ずっとそんな感じ」
ジュリアは自嘲気味に微笑み、そして、自らの胸にそっと手を当てた。
「でもね、エマ。私はきっと、神様に選ばれたのよ。なぜだか分からないけれど、そうなるのはきっと、私がこの国を救う『聖女』にふさわしいからなんだと思うの。世界が『聖女』に都合よく回っているの。そういうことになっているのよ」
「ジュリア……?」
「エマには本当に悪いと思ってる。今まであなたが流した汗も、努力も、私が全部奪ってしまう形になっているもの。……でも、私は『聖女』だから、仕方がないの。国のため、民のため、私はこの光を背負わなきゃいけないの。だから……許して」
許して。
その言葉は、あまりにも残酷に私の胸に突き刺さった。
ジュリアはブレスレットの具体的な呪いまでは知らなかった。けれど、彼女は「自分が特別だから、『聖女』だから、他人の努力を搾取しても許される」と、その歪んだ現実を自ら受け入れ、肯定していたのだ。
そこに悪意はなく、受け入れただけ。
ただ、悪意がないからこそ、その純粋さは、私の心を完全に打ち砕いた。
―― ジュリアはこの出来事を許容していた
その静かな衝撃は鼓動とともに体全体を小さく震わす。
―― 話し合えば分かるなんて大嘘だ。
言ったら何かが変わるかもしれないなんて、願望ゆえのただの幻想だった。
『一生分かり合えないこと』が、今、この場に存在している。
私はとても冷静だった。ジュリアのおかげだ。
ある意味、ジュリアの回答は私にとってもよかったのだと思う。
だって、今のジュリアのために自分の人生を差し出す必要なんて、どこにもない。
大好きな親友だった。けれど、もう隣にはいられない。
私の中で、ジュリアとの間にあったものが音を立てて切れた。これが、明確な決別だった。
「……分かったわ、ジュリア。おめでとう。立派な『聖女』になってね」
私はそれだけ言うと、引き止めるジュリアの声を背に、一度も振り返ることなく教室を飛び出した。
それから数日、私は休んで両親のいる領地へ手紙を書き、その後学校に一枚の届出を出した。
「転校……ですか?」
担任の教師が驚いた声を上げる。
「はい。実家の領地で、大雨による災害がありまして……。規模は小さいのですが、家族の手伝いをしなければならなくなりました」
少しだけ嘘をついた。実際には、災害自体は本当に大したことはなく、すでに復旧の目処は立っていた。ただ、あのブレスレットの呪縛から、ジュリアから離れるための口実が必要だったのだ。
私は、きれいなところだけを見て生きて行こうとしていた。汚いところなんか隠して生きていくしかないと思って、ずっと長いことそうしていた。でも、もうその必要は、私自身にはない。
王都の、きらびやかで歪んだ世界から目を背け、ただ静かに生きていきたい。友達の醜いエゴも、自分の報われない悲しさも隠したまま、普通の人間として生きていきたかった。
荷物をまとめ、馬車に乗り込もうとしたその時、息を切らせたウォーカー君が走ってきた。その手には、彼自身の転校手続きの書類が握られていた。
「ウォーカー君!? どうして……」
「俺もあとで行くから!」
彼は乱れた息を整えながら、私をまっすぐに見つめた。
「あの日からどこにいても、誰かに見られてる。多分、教会の監視だと思うけど。それに、こんな歪んだ場所に残って、あいつらの片棒を担ぐような真似はごめんだ。……まぁ監視が鬱陶しい、っていうのが一番の本音かな」
彼は不器用に横を向きながら、少しだけ耳を赤くしていた。
凍りついていた心が、ほんの少しだけ温かくなるのを感じた。
「ありがとう、先に行って待ってる」
馬車が動き出し、窓から見える王都の街並みが、徐々に小さくなっていく。
ジュリアのいた、眩しすぎる光の箱庭。
私はそっと目を閉じ、完全にその世界に別れを告げた。
王都から遠く離れた、緑豊かな辺境の街。
数年前に新設されたここの学校は、王都のような華やかさこそないが、素朴な校舎と、窓から見える広大な小麦畑が、私の固くなった心を静かに癒やしてくれた。
転校してからの日々は、驚くほど穏やかだった。
私はここでも、以前と変わらずに過ごした。授業には熱心に取り組み、放課後はボランティアや、下級生の世話などを積極的に手伝った。
勉強も運動も「上の中」にはなったけど、やっぱり本当の天才にはかなわない。
でも、ここでは、世界が違っていた。
「ウィストンさん、いつも朝早くから準備をしてくれてありがとう。本当に助かっているわ」
担任の女性教師が、そう言いながら私の肩を優しく叩いた。
「いえ、私が好きでやっていることですから……」
「みんなが見て見ぬふりをするような雑用でも、あなたはいつも進んで引き受けてくれるでしょう。あなたは何でもよくできるし、しかも丁寧にしてくれるから。クラスのみんな、あなたをとても信頼しているのよ」
私は目を見開いた。そんな風に、まっすぐに自分の存在を認められたのは久しぶりのことで、たったそれだけなのにとても気恥ずかしくなってしまった。
放課後、街の市場でボランティアの買い出しをしていると、すれ違う街の人々が次々と私に声をかけてくる。
「エマちゃん、この間の街の清掃、ありがとうね!」
「いつも裏方で頑張ってくれて、本当にえらいよ」
―― ああ……
ブレスレットがない世界では、自分の行ったことが、そのまま自分の評価として返ってくる。
当然のことだが、その当然のことが以前は当然ではなかったのだ。
どれほど小さな善行であっても、それは誰のものでもない、私自身のものとして人々の心に刻まれていた。
「……何を呆然としている」
背後から、ノートの束を抱えたサイモンが歩いてきた。彼は相変わらず無愛想だったが、その瞳には王都にいた頃のようなトゲはなかった。
「ねぇサイモン。私、すごく不思議な気持ちなの。……みんなが、私を見て、お礼を言ってくれるの」
「当たり前だ」
サイモンはふいっと目を逸らしながら、ぶっきらぼうに言った。
「お前が頑張っているのは、誰が見ても明らかだからな。おかしいのは王都の奴らだけだ」
その言葉に、長い間存在していた胸の奥の淀みが、すうっと消えていくのが分かった。
ある日、王都からの定期便で、一通の手紙が届いた。差出人はジュリアだった。
手紙には、彼女が正式に教会の「聖女」として認定されたことが、喜びの言葉と共に綴られていた。民衆からの圧倒的な支持を得て、彼女は今や国の象徴として、光の中に立っているという。
手紙を読み終え、静かにそれを机に置いた。
憎しみはなかった。ジュリアは、あの歪んだ光の中で、これからも生きていくのだろう。それが彼女の運命であり、彼女が望んだことでもある。
「してもらえるうちが華、か」
ふと、王都の学校の年配の用務員が、かつて呟いていた言葉を思い出した。
人から注目され、称賛されること。それは一見、幸福なことのように思えるが、同時に過酷な義務と縛りを伴う。ジュリアはこれからも、周囲の『聖女』としての期待を背負い、自分の意志とは関係なく、光を浴び続けなければならない。
それに比べて、今の自分はどうだろう。
誰も自分を『聖女』とは呼ばない。けれど、自分のしたことはした分だけ、正当に認めてもらえる。この静かで、確かな足場のある生活こそが、自分にとっての本当の幸福なのだと、私は深く実感していた。
季節は巡り、卒業の足音が近づいてくる頃。
街の広場には、冬の終わりを告げる白い花が咲き始めていた。冷たい空気の中に、微かに春の匂いが混ざり合っている。
私は卒業後の進路として、この街の役場に就職することを決めていた。
派手な仕事ではない。地域の福祉や、住民たちの細かな相談に乗る、裏方の仕事だ。けれど、今の私には、それこそが最も自分を活かせる場所だと確信していた。
放課後、夕日に染まる校庭のベンチに座っていると、隣にサイモンが腰掛けた。
「進路、決まったそうだな」
「うん。役場の民生課。私、やっぱりこういう、地味だけど誰かの役に立てる仕事が好きなんだって気づいたの」
「そうか。お前らしいな」
彼はそう言うと、静かに前を見つめた。
「サイモンは? 王都に戻るの?」
私の問いに、彼は少しだけ首を振った。
「いや。俺はこの街の研究所に残る。魔導回路の解析の仕事だ。王都のきな臭い政治に付き合うより、ここで静かに研究をしている方が性に合ってる」
しばらく、私たちの間に心地よい沈黙が流れた。
風が私の髪を揺らし、夕暮れの光が彼の横顔を柔らかく照らし出す。
「エマ」
不意に、サイモンが私の名前を呼んだ。その声は、かつて夜の禁書庫で聞いたものとは違い、どこか優しく震えていた。
「俺さ、実は王都にいた頃から、お前のことを見ていたんだ」
私は息をのみ、彼の方を振り向いた。
「みんながエルロイドに目を奪われている中で、お前は、誰も見てなくても関係なく、ずっと頑張っていただろう。勉強も、運動も、それ以外も。いつも必死で、絶対に手を抜かなかった。なんでそんなに頑張れるんだろうってずっと思ってた。」
サイモンの夜色の瞳が、まっすぐに私の瞳を射抜く。
「王都を離れたのは、お前をあそこから連れ出すためでもあった。なんで頑張ってるやつが評価されないんだって、多分、お前が正当に評価されないことが、許せなかった。
……これからは、俺が一番近くでお前を見ていたい。できれば、お前が笑う理由の、一部になりたいんだ」
心臓が、大きく跳ねた。
かつて王都で抱いていた、淡い想い。ジュリアの影に隠れて、冷えていった心。
それは、激しい嵐のように私を翻弄したが、今、サイモンの言葉で再び熱を取り戻した。
「サイモン……」
目から、涙が溢れそうになった。
「私、普通の人だよ。聖女でも、天才でも、なんでもない……」
「それがどうした。っていうか、基準がおかしいだろ。それを言ったら俺だって普通の人だぞ。
俺にとっては、お前が最高で、代わりのいない人間なんだよ」
サイモンはそう言って、少し照れくさそうに微笑むと、私の少し荒れた手を、そっと握りしめた。その手の平は、驚くほど温かかった。
王都では、今頃、聖女となったジュリアが、民衆の歓声の中で輝いていることだろう。
でも、それがうらやましいとは思わない。
偽りの光に満ちた世界を離れ、自分の足で立ち、そして自分を心から愛してくれる人と結ばれる。
これがハッピーエンドじゃなければなんだというのだ。
沈みゆく太陽が、二人の影を一つに重ね合わせる。
私はサイモンの手を握り返し、これから訪れる出来事に、胸を弾ませた。
チャッピーと音声会話してるととんでもない回答が返ってくることがある。
聖女って何とか、びっくりするなぁもう。




