3話:最強になりたいんや
最強になりたい。
それは野心でも復讐でもなく、ただの憧れだった。
物語の主人公のように、理由もなく強くなり、気づけば誰よりも先を歩いている存在。
回道 丞は、そんな「物語の中の立ち位置」に本気で手を伸ばし始めている。
未来が見えたから最強なのではない。
才能があったから天才なのでもない。
――それでも、彼は最強を目指す。
男は地面に仰向けに倒れ込み、夜空をぼんやりと見上げていた。
雲の切れ間から覗く月明かりが、戦いの終わりを淡々と告げている。
回道は一歩距離を取り、ゆっくりと息を整えながら、服と腕に付いた土埃を手で払った。
胸の奥はまだ熱を帯びているが、頭は不思議なほど冷えている。
勝ったという実感よりも先に残ったのは――
「できてしまった」という、静かな確信だった。
???「くそっ……!」
地面に倒れたまま、男は悔しさを噛み殺すように悪態をついた。
拳を強く握りしめ、歯を食いしばっている。
回道はその様子を見て、胸の奥にわずかな罪悪感が芽生える。
勝ちたい、強くなりたい――その気持ちで動いただけなのに、相手をここまで追い詰めてしまったという事実が、遅れて実感として押し寄せてきた。
回道(……やりすぎた、か?)
そう思った、その時だった。
背後から足音が近づいてくる。
聞き覚えのある、少し間の抜けた歩調。
十神「ん? どういう状況?」
回道が振り返ると、十神が眉をひそめて立っていた。
視線はまず倒れている男に向けられ、次に回道へと移る。
十神「回道の霊力が一瞬、はっきり感じられたから戻ってきたんだけどさ……」
十神は状況を理解しようとするように、周囲をぐるりと見回す。
十神「……なんで一人、地面に転がってんの?」
回道は言葉に詰まり、少し視線を逸らした。
説明するには、あまりにも色々なことが起きすぎていた。
十神が暗がりの中、倒れている男の顔を覗き込む。
月明かりに照らされ、その輪郭を認識した瞬間、十神の声が裏返った。
十神「は!? なんでお前いんの!?」
男は気まずそうに視線を逸らし、頭の後ろを掻きながら小さく息を吐く。
???「……ごめん、兄ちゃん」
その一言に、回道が思わず反応する。
回道「兄ちゃん?」
驚きと疑問が入り混じった声で、回道は十神と男を交互に見る。
空気が一瞬、ぴたりと止まった。
少し間を置いて、男――十神の弟が気まずそうに口を開く。
十神の弟「俺、兄ちゃんの技、教えてもらいたくてさ。弟子をボコしたら、俺を弟子にしてくれると思って、」
淡々と、それでいてどこか投げやりな声音だった。
十神「……それで負けたってわけか」
十神の弟「うん」
短い返事に、事実の重さだけが残る。
十神は小さくため息をつき、回道の方へ向き直った。
十神「回道、すまんな。こいつは扇って言うんや」
少し間を置いて、続ける。
十神「十神 扇。俺の実の弟や」
回道は改めて扇の顔を見る。
先ほどまで敵だった相手が、十神と同じ血を引いている――その事実を、まだうまく飲み込めずにいた。
扇が頭を掻きながら、半ば呆れたように口を開く。
扇「てかあんた、なんで俺の能力使えたんや。未来視……」
その言葉に、十神の表情が一瞬で強張る。
十神「は? 未来視を回道が使えた?」
扇「そうなんだよ。最初は普通に殴り合ってたのに、途中から急に動き変わってさ。
次の瞬間には『未来が見える』とか言い始めて、全部避けられた」
十神は回道に視線を移す。
冗談を言っている様子はない。扇の口調も、負け惜しみには聞こえなかった。
十神「……回道、本当か」
回道は少し困ったように笑い、首を傾げる。
回道「俺もわかんないです。
戦ってたら、急に頭の中がザワザワして……気づいたら、次の動きが見えてました」
言葉にしながら、回道自身も状況を整理しきれていない様子だった。
扇「意味わからんやろ?
あれ、俺の才能やぞ。勝手に取られた!!」
十神はしばらく黙り込み、やがて小さく息を吐く。
十神「……偶然じゃないな。
未来視は“見よう”として見えるもんじゃない」
十神の視線が鋭くなる。
十神「回道、お前――妖力の時もそうだけど、原理理解して能力を見たら自分が使えるようになるんじゃないか?」
その言葉の意味を、回道はまだ完全には理解できていなかった。
だが、胸の奥で何かが静かに確信へと変わり始めていた。
十神が一度、考え込むように顎に手を当てる。
その目は、もう疑念ではなく確信を帯びていた。
十神「……実験だ」
回道と扇が同時に顔を上げる。
十神「俺の知り合いに、ええ能力を持ってるやつがおる。
ちょっと普通じゃない、厄介で、面白いやつや」
回道「実験、ですか?」
十神は口角を少しだけ上げる。
十神「会いに行ってみよう。
お前が“どこまで出来るか”、確かめるにはちょうどええ」
次の日の放課後
夕暮れに染まり始めた校門の前に、ひとり立つ影があった。
長身で、どこか気だるげに門柱にもたれかかっている。
見慣れたその姿に、回道はすぐ気づいた。
十神だった。
回道が近づくと、十神はちらりと視線を向ける。
十神「遅いな、学生。放課後はもっとダラダラするもんちゃうんか?」
回道「す、すみません。急いできたつもりなんですけど」
十神は肩をすくめ、小さく笑う。
十神「まぁええわ。今日は寄り道するで」
回道「寄り道、ですか?」
十神「昨日言ったやろ。
能力の実験や。面白いもん見せたる」
二人は人通りの少ない路地裏へと入った。
夕方の薄暗さの中、十神は壁の前に立ち、指先で空をなぞる。
すると、壁に淡く光る陣が浮かび上がった。
幾何学的な線が絡み合い、低く唸るような音を立てて回転する。
回道「……なに、それ」
十神「細かい説明は後や。はいれ」
回道「え、ちょ――」
言われるがまま、半信半疑で陣の中へ足を踏み入れた瞬間。
視界がぐにゃりと歪み、足元の感覚が消える。
浮遊感とともに世界が反転し――
次の瞬間、回道は硬い地面の感触を足裏に感じていた。
見上げれば、広い校庭。
整えられたグラウンド、規則正しく並ぶ校舎、夕焼けに染まる空。
回道「……は?」
見覚えのない場所。
だが、学校であることだけは一目で分かる。
回道「どこ……ここ」
十神が肩をすくめる。
十神「禍津学園や」
回道「……禍津、学園?」
その名前を口の中で転がすが、記憶には引っかからない。
回道「聞いたことないんすけど」
十神「そりゃそうや。
普通の人間は、存在すら知らん学校やからな」
回道は校庭を見渡しながら、喉を鳴らした。
回道「……また、ヤバいとこ来た感じですか」
十神「正解や。
ここからが、本題やで」
回道は無意識に拳を握りしめる。
十神がふと視線を校舎の方へ向ける。
夕焼けに染まった校舎の玄関、その奥から一人の影がゆっくりと歩いてきていた。
足音は地面を叩いているはずなのに、不思議と軽い。
近づくにつれ、回道は違和感の正体に気づく。
――足が、ほんのわずかに地面から浮いている。
回道「……浮いて、ますよね」
十神「お、よく気づいたな」
影は校庭の端まで来ると、ふわりと地面から数十センチ浮いたまま静止した。
まるでそこに「立っている」かのような自然さだ。
十神は親指でその人物を指す。
十神「紹介や。
こいつは飛鷹 梶尾。浮遊能力の持ち主や」
梶尾は宙に浮いたまま、軽く手を挙げる。
飛鷹「どーも。
君が十神の新しい弟子?」
回道は一瞬、言葉を失う。
目の前で堂々と空に留まる存在――
漫画で何度も見た光景が、現実としてそこにあった。
回道「……初めまして。回道 丞です」
飛鷹「へぇ、礼儀正しいな」
十神がニヤリと笑う。
十神「こいつに会わせた理由、もう分かるやろ?」
回道は視線を梶尾の足元――いや、足元の“何もない空間”に向け、ゆっくりとうなずいた。
回道「……はい。
浮遊、ですね」
胸の奥が、期待でじわりと熱を帯びる。
次に手に入れる力が、すぐそこにある――
そんな予感が、確かにしていた。
十神は数歩前へ歩き、立ち止まると、くるりと振り返った。
その顔には、悪戯が成功する直前のような笑みが浮かんでいる。
十神「さぁ飛鷹、ボコしてやれ」
回道「え!?」
一瞬、何を言われたのか理解できず、回道の思考が止まる。
飛鷹「お任せを!!!」
やけに良い返事と同時に、飛鷹の身体がふわりと宙へ浮かび上がる。
高度はせいぜい一メートルほどだが、その余裕のある姿勢が余計に恐ろしい。
回道「待って待って待って!!
なんでそうなるんですか!?」
慌てて手を振り、後ずさる回道。
しかし十神は動じる様子もなく、腕を組んだまま当然のように言い放つ。
十神「こういうのはな、極限の時に能力が開花するもんやろ?」
回道「いや極限ってレベルじゃ――」
十神「それにな」
十神はちらりと回道を見る。
その視線は、どこか試すようで、同時に期待も含んでいた。
十神「未来視を手に入れたお前の実力、ちゃんと見ときたいんや」
回道は息を呑む。
未来視――自分でもまだ掴みきれていない力を、いきなり実戦で試せというのか。
飛鷹は空中で肩を回しながら、楽しそうに口角を上げる。
飛鷹「安心しぃ。殺しはせんから」
回道「そこが一番安心できないんですけど!?」
飛鷹の足が、さらに高く浮かび上がる。
影だけが地面に落ち、じわじわと距離が詰まっていく。
回道は唾を飲み込み、無意識に拳を握った。
回道(まただ……この感じ)
逃げたいはずなのに、胸の奥が高鳴っている。
強敵との遭遇、未知の能力、師匠の無茶振り。
――まるで物語の中盤、能力覚醒イベント直前の展開だ。
回道(浮遊……コピーできるなら、今しかない)
そう思った瞬間、飛鷹が空中で体勢を低くした。
飛鷹「ほな、いくで」
十神「遠慮すんな、飛鷹」
その言葉を合図に、空気が張り詰める。
回道は深く息を吸い、視線を飛鷹から逸らさず、静かに構えた。
飛鷹の姿が、ふっと空気に溶けるように揺れた次の瞬間だった。
回道の視界に、三秒先の未来が流れ込む。
――右斜め上から蹴り。
回道は反射的に身を沈める。
未来視どおり、風を切る音とともに飛鷹の足が頭上を掠めた。
回道(見えてる……!)
確かに見えている。
攻撃の軌道、角度、速度。すべて理解できている。
なのに。
飛鷹「ほう」
飛鷹は空中で体をひねり、着地することなく次の動作へ移る。
回道が未来で見た「隙」は、実際には存在しなかった。
回道が拳を振る。
未来では、確かに当たっていた。
しかし現実では、拳は空を切る。
飛鷹は重力を無視したまま、半歩――いや、半メートル分、上へ逃げていた。
回道「っ……!」
三秒先の未来が、ズレている。
いや、ズレているのは回道の方だ。
飛鷹「未来見えてるんやろ?」
軽い口調とは裏腹に、飛鷹の目は鋭い。
飛鷹「でもな、浮いてる相手に、地面の感覚で合わせたら無理や」
その瞬間、回道の腹部に衝撃が走る。
見えていたはずの攻撃だった。
だが、空中から落とされるような角度は、身体が反応しきれなかった。
回道「ぐっ……!」
後退る回道を追い越すように、飛鷹が頭上を旋回する。
上下左右、常に位置が変わる。
回道は必死に「浮遊」を意識する。
あの感覚を、あの動きを、コピーしようとする。
だが――何も起きない。
回道(なんでだ……!)
妖力を集めようとしても、像が結ばれない。
浮く、という概念は理解できているのに、身体がそれを拒む。
飛鷹「無理無理」
飛鷹は宙に胡座をかき、見下ろす。
飛鷹「浮遊はな、形あるもんやない。
身体そのものの“在り方”を変えとる能力や」
次の瞬間、踵が回道の肩に落ちた。
未来視で見えていた。
だが、避けるための足場が、地面にしか存在しない。
回道は膝をつき、息を荒くする。
未来は見える。
だが、見えるだけだ。
飛鷹は静かに地上へ降り立ち、距離を詰める。
飛鷹「今のお前じゃ、手も足も出ぇへん」
回道は歯を食いしばり、俯いたまま拳を握る。
回道
主人公気取りでいるには、現実はあまりにも高かった。
飛鷹は構えを解き、教え子に語りかけるような口調で言った。
飛鷹「浮遊はな、空気に“乗る”イメージや」
回道は荒い息のまま顔を上げる。
飛鷹「空気を蹴るとか、無理やり浮くとかやない。
自分の身体を、空気と同じ存在やと思うんや」
回道「……同じ、存在」
飛鷹「そう。重さを感じとる限り、身体は地面を選び続ける。
せやからお前は、未来が見えても追いつかれへん」
飛鷹はふわりと一歩、宙へ上がる。
まるで階段がそこにあるかのように、自然な動きだった。
飛鷹「浮遊は技術やない。感覚や。
地面を信用せんことから始まる」
回道は無意識に足元を見る。
そこには、確かな地面がある。
回道(信用、するな……?)
コピーしようとする癖が、邪魔をしている。
形も動きも追えているのに、決定的な“何か”が足りない。
飛鷹「今のお前はな、見て盗もうとしすぎや」
飛鷹は指で回道の胸を軽く叩く。
飛鷹「浮遊は、頭やない。
身体が『落ちなくていい』って理解せな、発動せえへん」
回道は唇を噛みしめる。
未来視、コピー、どれも「見る」能力だ。
だが、浮遊は――感じる能力。
回道(……だから、コピーできない)
初めて、自分の能力が通じない理由を理解した瞬間だった。
飛鷹「今日はここまでや」
飛鷹はくるりと背を向ける。
飛鷹「地面から離れたいなら、まず“地面に縛られてる自分”を疑え」
回道は歯を食いしばり、叫ぶ。
回道「――まだっ!!」
飛鷹の背中を捉え、奇襲の形で地面を蹴った。
跳躍。
ただのジャンプのはずだった。
その瞬間、頭の奥に――
ザッ、とノイズが走る。
回道(……また、これか)
視界が一瞬だけ歪む。
音が遠のき、時間が引き伸ばされる感覚。
未来視が、勝手に発動しかけている。
だが、いつもと違う。
回道(違う……未来じゃない)
身体が、ふっと軽くなる。
回道自身が一番驚いていた。
落ちる感覚が、ない。
飛鷹が振り返る。
飛鷹「――あ?」
回道は空中にいた。
跳んだ頂点を過ぎても、身体が沈まない。
ほんの一瞬。
たったコンマ数秒。
それでも確かに、止まっていた。
回道「……っ!」
意識した瞬間、恐怖が追いつく。
重さを思い出した途端、身体は言うことを聞かなくなる。
回道はそのまま前のめりに落下し、地面を転がった。
飛鷹は目を細める。
飛鷹「今の……」
十神が低く息を吐く。
十神「……乗りかけたな、空気に」
回道は地面に手をついたまま、呆然としていた。
失敗だ。
だが、確かな手応えがあった。
頭で理解するより先に、身体が“わかった”。
飛鷹「……こいつ、マジか。おい十神!!
こいつ、本気で能力盗めるやつやろ!!」
驚きを隠そうともせず、飛鷹は回道を指さす。
さっきまで余裕だった表情は消え、興奮と困惑が入り混じっていた。
十神は顎に手を当て、じっと回道を見つめる。
十神「言うとった俺もな、正直半信半疑やったわ」
回道は息を整えながら立ち上がる。
回道「……俺、自分でもよく分かってないです」
十神は小さく笑い、だが目は真剣だった。
十神「せやろな。せやけど――」
一拍置く。
十神「回道、お前の能力は“コピー”で間違いないやろ」
その言葉が、静かに、しかし決定的に場に落ちた。
一通りの実験と確認が終わると、三人は校庭の端に腰を下ろしていた。
夜風が少し冷たく、昼間の熱をゆっくり奪っていく。
飛鷹「いやぁ……今日は久々に面白いもん見たわ」
十神「軽いノリで言うな。こっちは心臓に悪い」
十神はため息をつきつつ、回道の方を見る。
回道は地面に座ったまま、今日一日の出来事を頭の中で反芻していた。
回道「……未来視に、浮遊の一部、ですか」
十神「“一部”ってのがミソやな。完全コピーじゃない。
けど、条件揃えば奪える可能性は十分ある」
飛鷹「普通はさ、能力って“生まれ持ったもん”やろ?
それを後天的に、しかも他人から持ってくるって……反則やで」
回道「反則、ですか」
飛鷹「ああ。羨ましいって意味でな」
飛鷹は立ち上がる。
飛鷹「今日はここまでや。これ以上やると、俺の方が色々暴露しそうやし」
十神「それは困るな」
飛鷹「回道、また来い。次会う時は、もう少し飛べるようになっとけ」
回道「……努力します」
軽く頭を下げる回道を見て、飛鷹は満足そうに頷いた。
飛鷹「ほんま、いい拾い物したな十神」
十神「拾い物言うな」
飛鷹は笑いながら手を振り、校舎の影へと消えていく。
静かになった校庭で、十神は改めて回道に向き直った。
十神「今日は帰れ。頭も身体も、もう限界や」
回道「はい」
十神「能力はな、強いほど扱いが難しい。
調子乗ると、足元すくわれる」
回道「……気をつけます」
十神「よし。今日はそれでええ」
十神は回道の頭を軽く叩き、踵を返す。
十神「また明日や、回道」
回道「……はい、師匠」
その言葉に、十神は一瞬だけ立ち止まり、何も言わずに手を振った。
夜の道を一人歩きながら、回道は胸の奥が妙に熱いことに気づく。
怖さも、不安もある。
だがそれ以上に——確かに今、自分は“物語の中”に足を踏み入れたのだと。
そう確信しながら、回道は家路を急いだ。
朝、目を覚ました瞬間、回道は違和感を覚えた。
妙に部屋が静かで、外から聞こえるはずの通学の足音がない。
嫌な予感がして、枕元の時計を見る。
――八時十分。
回道「……あ」
一瞬、思考が止まったあと、勢いよく布団を跳ね飛ばす。
回道「遅刻やん!!」
昨日の疲労が抜けきらず、完全に寝過ごしていたらしい。
未来視だの能力だのと浮かれていた自分を呪いながら、制服をひっつかみ、歯もろくに磨かず玄関へ向かう。
靴を履きながら、心臓がどくどくと鳴る。
回道(主人公補正とか、こういうとこには効かへんのな……)
そんなことを考えつつ、鞄を肩にかけて家を飛び出した。
いつもより騒がしく感じる朝の街が、今日はやけに遠く感じられた。
回道は走りながら、ふと考えた。
回道(これ……飛べたら一瞬で着くんじゃね?)
だが、その思考はすぐに切り捨てる。
自分が飛べるわけがない。昨日はたまたま浮いたように見えただけだ。そう結論づけ、回道はひたすら足を動かし続けた。
息は荒く、視界の端で景色が流れていく。
――そのはずだった。
違和感が、じわりと広がる。
地面が、近くない。
アスファルトを蹴っている感覚はある。
だが、視界に映る電柱や看板の位置が、明らかにおかしい。さっきより、少し低い。
回道(……あれ?)
走っているはずなのに、景色が段々と下にずれていく。
いや、違う。
自分が、上がっている。
回道「……ん?」
足は動いている。
だが、影が地面から離れ始めているのがはっきり分かった。
一瞬、心臓が跳ねた。
回道(え、ちょ、待て待て待て)
意識した途端、身体がふわりと軽くなる。
風が、足元をすり抜けた。
回道は、走ったまま――いや、走っている“つもり”のまま、わずかに宙へ浮いていた。
回道「……うそやろ」
遅刻の焦りよりも先に、理解が追いつかない現実が目の前にあった。
本人はまだ気づいていない。
それが「浮遊」だということにも。
もう少し上がろう、と。
ただそれだけを考えた瞬間だった。
身体が、勢いよく跳ね上がった。
回道「うわぁぁぁぁぁ!!!」
叫び声が、下に置き去りにされる。
地面が一気に遠ざかり、視界がひっくり返るような感覚に、思考が真っ白になる。
回道(待て待て待て!!上がりすぎだろ!!)
足を動かしているのに、何も踏んでいない。
風だけが全身に叩きつけられ、制服の裾が激しくはためく。
視界の端に、屋根。
さらにその向こうに、通学路。
回道「いや無理無理無理!!」
バランスを取ろうとした瞬間、身体がぐらりと傾き、今度は横に流れそうになる。
回道(落ちたら普通に死ぬって!!)
必死に力を抜くと、ふっと浮力が弱まり、身体が少しだけ下降する。
まるで――空気に掴まれているような、不思議な感覚。
回道は、息を詰めたまま理解した。
回道(……これ、昨日の)
頭の奥で、あのノイズが微かに走る。
回道(浮遊……コピー、した……?)
そう考えた途端、身体がぴたりと空中で静止した。
下を見れば、いつもの通学路。
回道は、震える声で呟く。
回道「……俺、飛んでる……」
段々と、掴めてきた感覚があった。
足の裏に、確かな“反発”を感じる。
回道は恐る恐る、空気を蹴るように足を動かす。
すると――
身体が、前へと滑るように進んだ。
回道「はぇぇぇぇ!!」
思わず声が漏れる。
視界が流れ、風が頬を叩き、心臓がうるさく跳ねる。
怖い。
けれど――
回道(……悪くない)
恐怖よりも先に、胸の奥から込み上げてくるものがあった。
身体が軽い。
地面に縛られていない。
ぎこちない動きながらも、回道は空中で体勢を立て直す。
進むたび、空気の“蹴り方”が少しずつ分かっていく。
回道(浮遊……じゃないな、これ)
落ちないよう必死だったはずなのに、
いつの間にか、口元が緩んでいた。
回道は空を進みながら、確信する。
回道(……気持ちいい)
ギリギリで学校に滑り込んだ回道は、息を整えながら校舎を見上げた。
遅刻は免れた。その事実だけで、胸の奥がやけに軽い。
授業中も、ノートは取っている。
だが、意識の半分は完全に別の場所にあった。
回道(……放課後)
窓の外を見るたび、今朝の感覚が蘇る。
足裏に残る、空気を踏みしめたあの反発。
思い出すだけで、心臓が勝手に跳ねた。
教師の声が遠くに聞こえる。
チャイムが鳴るたび、時間が前に進む。
回道(もう一回やれる……今日は、ちゃんと飛べる気がする)
机の下で、拳をぎゅっと握る。
にやけそうになる口元を、必死に引き締めた。
回道は、誰にも気づかれないように息を吐く。
回道(放課後が……楽しみすぎるだろ)
その表情は、完全に“何かを掴んだ人間”のそれだった。
学校が終わるや否や、回道は鞄を掴んで教室を飛び出した。
廊下、人混み、校門前――流れに逆らうように身体を滑り込ませ、人の気配が薄れる裏道へと入る。
立ち止まり、深く息を吸う。
回道(空気に……包まれる感じ……)
そう想像した瞬間、足元がふわりと軽くなった。
重力が、仕事を忘れたみたいに緩む。
回道「……ふぅぅぅ!」
浮いた。
確実に、はっきりと。
最初は恐る恐るだったが、すぐにコツを掴む。
空気を蹴るように足を動かすと、身体が前へ進んだ。
回道「ははっ……!」
笑いが漏れる。
高く、低く、旋回して、加速して。
ビルの影を縫い、屋根の上をなぞり、風を切る。
回道(やべぇ……これ、最高だろ)
だが、ふと脳裏に約束がよぎる。
回道「……あ」
勢いを落とし、着地。
時計を見ると、すでに待ち合わせの時間を少し過ぎていた。
回道「やっべ」
もう一度浮かび空を飛びながらカフェへと向かう
店外。
腕を組み、不機嫌そうに立ってる男。
十神「おせぇなぁ」
その瞬間。
上から、声が落ちてきた。
回道「ごめん!」
十神「……は?」
視線を上げた十神の目に映ったのは、
ふわふわと浮いている回道だった。
十神「……お前」
回道「成功した」
にやり、と笑う。
十神「……」
数秒の沈黙のあと、十神は深くため息をついた。
十神「……ほんと、とんでもねぇ弟子拾ったな俺は」
禍津学園の校庭。
夕方の光が校舎の影を長く伸ばす中、回道は何の躊躇もなく空を泳いでいた。
跳ぶ、止まる、旋回する。
高度を変え、速度を変え、まるで何年も前から空に慣れ親しんでいたかのような動きだ。
空気を踏み、風を掴み、重力を無視するその姿は、もはや「浮いている」ではなく「飛んでいる」と言う方が正しかった。
校庭の端で、それを見上げる男がひとり。
飛鷹は、文字通り目をひん剥いていた。
瞬きすら忘れ、口がわずかに開いたまま固まっている。
飛鷹「……は?」
信じられない、という感情が声にすらならない。
昨日まで、浮遊を「イメージが甘い」と指摘していた相手だ。
未来視を使ってもなお、空中戦では手も足も出なかった“地上の人間”だ。
それが今。
飛鷹「……おい、十神」
震える声で隣を見る。
十神は腕を組み、空を飛ぶ回道を見上げながら、どこか遠い目をしていた。
十神「あぁ……」
飛鷹「なんやあれ」
十神「順応が早いとか、才能があるとか、そういう次元ちゃうな」
回道はくるりと宙返りし、そのままふわりと二人の前に降りてくる。
着地は音もなく、無駄な力も一切ない。
回道「こんな感じで合ってる?」
飛鷹は、しばらく黙ったまま回道の顔を見つめ――
飛鷹「……合ってるどころか、完成形や」
ぽつりと呟いた。
飛鷹「俺が何年もかけて掴んだ感覚を、なんで一日で……」
十神が肩をすくめる。
十神「だから言うたやろ。こいつ、コピーや」
回道は首を傾げる。
回道「コピーって言われても、正直まだ実感ないんだけど」
飛鷹は乾いた笑いを漏らし、額を押さえた。
飛鷹「……あかんわ」
そして、はっきりと告げる。
飛鷹「こいつは、俺の知ってる“能力者”の枠に収まる人間やない」
空を見上げる。
そこには、さっきまで回道が自由に飛び回っていた、何の変哲もない空。
飛鷹「――ほんまもんの化け物や」
回道は、その言葉の意味をまだ正確には理解していなかった。
ただ、胸の奥が少しだけ熱くなるのを感じながら、もう一度、空を見上げていた。
回道は拳を握りしめ、満面の笑みで叫ぶ。
回道「未来視に続いて――浮遊、ゲットだぜ!!!」
空中で一度くるりと回り、得意げに親指を立てる。
その下で、十神と飛鷹は同時にため息をついていた。
十神「……軽いなぁ」
飛鷹「軽すぎるわ。能力の重みを知れ」
夜。回道の自室。
布団に潜り込み、スマホの画面を顔のすぐ近くまで持ち上げて漫画を読んでいる。
ページの中では、主人公が夜空を背景に、当たり前のように空中を滑っていた。
重力なんて存在しないみたいな顔で、自由に、好き勝手に。
回道「……ひひっ、ひひっ」
喉の奥から、抑えきれない笑いが漏れる。
布団の中で、足をばたばたと動かし、完全に子どもみたいな反応をしていた。
(飛んでる……当たり前みたいに……)
漫画のコマと、今日の自分の感覚が、頭の中で重なっていく。
空気に包まれる感触。
蹴ったはずのない地面。
それでも前に進んだ、あの感覚。
(俺も、もう……)
回道は漫画を閉じ、天井を見上げる。
布団の中なのに、体がふわっと軽くなった気がして、思わず力を抜いた。
回道「……明日も、飛ぼ」
小さく呟き、不敵な笑みを浮かべる。
主人公に憧れていた側の人間は、もうそこにいない。
足をもう一度ばたつかせてから、回道は布団を被り直した。
胸の奥で高鳴る鼓動が、なかなか静まらなかった。
鈴虫の声が、規則正しく夜気を震わせている。
禍津学園――校長室。照明は落とされ、月明かりだけが重厚な机を照らしていた。
ギィ、と椅子がわずかに軋む音。
???「十神、最近、目にかけている子がいるようですね」
低く、底の読めない声が室内に広がる。
続いて、もう一人。
???「その子にかまけて、教師としての責務を疎かにしないでくださいよ」
静かで冷えた声。感情の揺れが一切混じらない。
低い声の主が、再び口を開く。
???「さて……天城、十神」
その名を呼ばれ、立っていた男が一歩前に出る。
天城 朔夜――
禍津学園・現二年生担任。
同時に、癖の強い教師陣をまとめ上げる調整役でもある。
天城「三十名ほどは、すでに集めております」
事務的で、隙のない報告。
その隣で、椅子にだらしなく座っていた男が、親指で自分を指す。
十神「俺はぁ……ふたり!」
天城「……は?」
思わず素の声が漏れる。
空気が、一瞬だけ止まった。
???「まぁ、落ち着きなさい、天城」
天城「ですが、百目鬼校長。数の差が――」
百目鬼 白哉――
禍津学園校長。
そして、学園の内外で“化け物”と囁かれる実力者。
百目鬼「数ではありませんよ。質です」
その一言で、天城は口を閉ざす。
百目鬼は、ゆっくりと十神に視線を向けた。
百目鬼「十神。その二人とは?」
十神「俺が目ぇかけてるガキです」
百目鬼「……名前を」
十神「回道と、扇。その二人です」
校長室に、再び鈴虫の声だけが満ちる。
天城は眉をひそめたまま、十神を見る。
天城「回道……最近、夕方あなたが連れてきてる子ですね」
十神「そうそう。あと扇は――まぁ、血筋が血筋や」
百目鬼は、わずかに口角を上げた。
百目鬼「なるほど……あなたが“二人で足りる”と言うなら、それなりの理由があるのでしょう」
十神「ありますよ。そいつら――」
一拍置いて。
十神「ちゃんと、化けます」
夜の校長室に、鈴虫の声が一段と大きく響いた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、回道という主人公が「最強」へ向かう物語の中でも、物語の裏側――大人たち、教師たち、そして学園そのものが静かに動き出す瞬間を描いた章になります。
回道本人は、能力を手に入れて浮かれたり、漫画を読んでニヤついたりと、まだまだ等身大の少年です。
しかしその一方で、禍津学園という舞台では、彼の存在がすでに“無視できない異物”として認識され始めています。
十神が「二人で足りる」と言い切った理由。
百目鬼校長がそれを咎めず、むしろ面白がるような反応を見せた理由。
天城が感じている違和感。
それらはすべて、これから回道が踏み込んでいく世界の“前兆”です。
この物語は、最強能力を手に入れて無双する話であると同時に、
「最強になりたい」と願った少年が、どこまで行ってしまうのか――
その過程を描く話でもあります。
次章からは、回道自身がまだ理解しきれていない能力の正体、
そして禍津学園という場所が持つ本当の顔が、少しずつ表に出てきます。




