10話:最強だからこそ選ぶ道
最強とは、ただ力がある者の称号ではない。
圧倒し、ねじ伏せ、すべてを破壊できる存在――それだけなら、歴史の中に幾らでも埋もれてきた。
本当に恐れられるのは、
「それでもなお、使わない」という選択ができる者だ。
力を振るえば勝てる。
一線を越えれば終わらせられる。
誰よりも近く、誰よりも深く、その結末を理解しているからこそ、
踏み出さない道がある。
あの日、あの場で、
確かに“最強”は証明された。
だが同時に、誰も気づかぬところで、
もう一つの分岐が静かに生まれていた。
それは英雄の道か。
それとも、敵と呼ばれる未来か。
選ぶのは、力を持たぬ者ではない。
選ぶのは――
最強だからこそ、立ち止まれる者だけだ。
薄く、白い天井が最初に視界へ入ってきた。
焦点が合うまでに少し時間がかかり、回道はゆっくりと瞬きをする。
回道「……ここ……」
喉がひどく渇いていて、声は思った以上にかすれていた。
身体を動かそうとして、全身に走る鈍い痛みに眉をひそめる。
天城「起きたか」
低く落ち着いた声が、すぐ近くから聞こえた。
視線を向けると、腕を組んで立つ天城の姿がある。
その横には、椅子に座った剛堂。
背もたれに肘をかけ、いつもの無骨な表情だが、視線は真剣だった。
剛堂「……目、覚めたな」
回道がさらに視線を動かすと、ベッドの反対側に思条と文月がいた。
思条は腕を組んだまま、表情を崩さずにこちらを見ている。
文月は安堵したように、胸をなで下ろしていた。
文月「……よかった。ほんとに」
回道は天井を見上げたまま、息を吐く。
回道「……生きてる、か」
思条「その言い方、縁起でもねぇな」
淡々とした声だが、どこか力が抜けている。
回道は小さく笑おうとして、うまく笑えなかった。
剛堂「無茶しすぎだ。……正直、目ぇ覚まさねぇかと思った」
回道「そっか……悪い」
天城が一歩近づき、ベッド脇に立つ。
天城「四日だ。眠っていたのは」
回道「……そんなに?」
文月「ええ。治療は順調だけど、しばらくは安静」
回道はゆっくりと目を閉じ、また開く。
頭の奥に、断片的な記憶が浮かんでは消えていく。
炎、神の影、扇の顔――そして、自分の中で何かが壊れかけた感覚。
回道は天井を見つめたまま静かに呼吸を整える。
騒がしいはずの心は、不思議と落ち着いていた。
回道「……十神先生は?」
かすれた声でそう聞くと、部屋の空気が一瞬だけ重くなった。
天城は視線を逸らさず、淡々と答える。
天城「音沙汰なしだ。千里眼で追ってるが、死んではいない。交戦中でもないみたいだな」
回道はその言葉を聞いて、ほっと息を吐く……ことはしなかった。
ゆっくりと視線を落とし、シーツを握りしめる。
回道「……扇は、大丈夫?」
名前を口に出した瞬間、胸の奥がちくりと痛んだ。
あの時の表情、あの距離、あの殺気が脳裏をよぎる。
剛堂「元気だぞ」
即答だった。
剛堂「もう全回復してる。ついでに言うと、めちゃくちゃ反省してた」
回道は小さく鼻で笑う。
回道「……そっか」
思条「正直、あいつの方が精神的にはダメージでかいかもな」
文月「回道が倒れた後、ずっと動けなかったもの。放心状態ってああいうのを言うんだなって思った」
回道は何も言わず、天井を見上げる。
あの戦いを思い返すと、勝ったとか負けたとか、もうどうでもよかった。
剛堂「なぁ、回道」
回道「ん?」
剛堂「……お前、どこまで行くつもりだ?」
その問いは、責めるものでも試すものでもなかった。
ただ、純粋な疑問だった。
回道は少しだけ考えてから、口を開く。
回道「……分かんねぇよ」
思条「即答じゃねぇのかよ」
回道「最強になるとか、主人公になるとか……前はそればっか考えてたけどさ」
ゆっくりと拳を握る。
回道「今回で分かった。最強って、ただ強いだけじゃ足りねぇ」
文月が静かに頷く。
文月「……選ばされる立場になる、ってこと?」
回道「ああ。守るか、見捨てるか、止めるか、壊すか」
一度、言葉を切る。
回道「扇も、十神先生も……多分、同じとこに立ってる」
天城が目を細める。
天城「だからこそ、お前を止めなかった」
回道が天城を見る。
回道「……後悔してる?」
天城「してない。あれは必要な戦いだった」
即答だった。
天城「そして、お前は戻ってきた。それが答えだ」
回道は目を閉じ、深く息を吸う。
胸の奥に、まだ黒いものは残っている。
だが、完全に飲み込まれてはいなかった。
剛堂「安心しろ」
回道「?」
剛堂「お前が道踏み外しそうになったら、俺が殴って止める」
思条「俺もな」
文月「私も……止める側でいるつもり」
回道は少しだけ目を見開き、そして笑った。
回道「……頼もしいな」
ゆっくりと身体を起こし、窓の外を見る。
差し込む光は、やけに穏やかだった。
戦いは終わった。
だが、最強だからこそ選ばされる道は――これから、いくらでも現れる。
回道はそれを、もう分かっていた。
退院前日。
回道はベッドに腰掛け、片手でスマホを弄りながら、もう片手で点滴の管を避けるようにだらけていた。
回道(暇すぎだろ……)
そんなことを考えていると、控えめなノック音が響く。
コン、コン。
回道「はいよー」
ドアが開く。
そこに立っていたのは――扇だった。
一瞬、空気が止まる。
扇「……回道」
その声は、あの日の荒々しさとはまるで違っていた。
回道「ずっと待ってたんだぞ! お見舞い来てくれなくて寂しかったわ!」
満面の笑み。
あまりにも軽い。
扇は目を見開き、言葉を失う。
扇(……え?)
責められる覚悟はできていた。
殴られるかもしれない、罵られるかもしれない。
それなのに返ってきたのは、拍子抜けするほどの冗談だった。
扇「……お前……」
回道「なんだよその顔。俺が『殺す気だったろ』とか言うと思った?」
扇は視線を逸らし、拳を強く握る。
扇「……言われても、仕方ねぇ」
回道「だろうな」
回道は肩をすくめる。
回道「でもさ、もう終わっただろ。あの時の俺も、お前も」
扇「……」
沈黙が落ちる。
扇はゆっくりとベッドの横まで歩み寄り、頭を下げた。
扇「……悪かった」
短く、重い一言だった。
扇「殺すなんて言った。……本気じゃなかったとか、言い訳もしねぇ」
回道はその姿をじっと見つめ、そして小さく笑う。
扇が顔を上げる。
回道「本気で戦える奴がいるから強くなれる」
胸に手を当てる。
回道「強くなればなるほど、簡単に踏み越えそうになる線がある」
扇「……」
回道「それを踏み越えなかった。お前も、俺も」
少しだけ真剣な目になる。
回道「それで十分だろ」
扇はしばらく黙っていたが、やがて苦笑した。
扇「……ほんと、気持ち悪ぃくらい主人公だなお前」
回道「今さら?」
扇「いや……」
扇は小さく息を吐く。
扇「助かった。……なんか、軽くなった気がするよ」
回道「おう」
間が空く。
回道「で?」
扇「?」
回道「見舞いの品は?」
扇「……そこかよ!」
扇は持っていた袋を乱暴に差し出す。
扇「果物。猪野手さんに怒られねぇやつだ」
回道「お、分かってんじゃん」
袋を受け取り、満足そうに頷く。
回道「なぁ、扇」
扇「ん?」
回道「またやろうぜ。今度は――殺し合いじゃなくな」
扇は一瞬だけ目を細め、そしてはっきりと言った。
扇「あぁ。次は、負けねぇ」
回道「〝絶対〟な!」
二人の間に、妙な緊張はもうなかった。
残っていたのは、同じ場所に立ってしまった者同士の、静かな理解だけだった。
回道はベッドから降りると、そのまま榅の方へ向き直った。
回道「ありがとうございます!」
そう言って、両腕をぶんぶんと振ってみせる。
包帯だらけではあるが、動きは驚くほど軽い。
榅「……もう来んなよ」
投げやりな声だったが、そこに棘はなかった。
治療のため三徹。
目の下には濃い隈、肩は重そうに落ちている。
回道が病室を出ていくのを確認すると、榅は限界だったかのようにその場で方向転換し、ソファへ倒れ込む。
ドサッ。
榅「やっと……寝れる……」
そう呟いて、すぐに目を閉じた。
だがその表情は、疲労で歪みながらもどこか穏やかだった。
医者として、やるべきことをやり切った者だけが浮かべる顔。
壱岐はその様子を一瞬だけ見て、小さく息を吐いた。
壱岐「……ほんと、無茶な事するやつばっかだな」
眠りに落ちた榅の横で、病室には静かな時間が流れていた。
暗い、暗い真夜中。
回道たちが眠りについた頃――。
どこかの施設の奥で、硬い床を叩く足音が走った。
静寂を切り裂くような、焦りを孕んだ音。
――タッ、タッ、タッ。
やがてその足音は急停止し、男は物陰へと滑り込む。
背中を壁に押し付け、膝に手をつき、息を殺す。
はぁ……はっ……。
喉が鳴るのを必死に堪え、口元を押さえる。
呼吸は荒く、途切れ途切れだ。
全身が悲鳴を上げているのが、自分でも分かる。
額から流れ落ちる汗が顎を伝い、床に落ちそうになるのを寸前で止める。
耳を澄ませる。
――遠い。
だが、確実に近づいている。
金属が擦れるような音。
何かを引きずる気配。
そして、人ではない“何か”の存在感。
男は歯を食いしばった。
(まだだ……まだ、捕まるわけにはいかない)
逃げなければならない理由がある。
ここで終わるわけにはいかない。
男は震える脚に力を込め、再び走り出す準備をする。
次に足音を立てた瞬間、命運が決まることを理解しながら。
闇の奥で、何かが確かに嗤った。
――バリッ。
雷鳴と同時に、施設内が一瞬だけ白く染まった。
闇に沈んでいた廊下が、写真のフラッシュのように切り取られる。
その刹那――
男の顔が、はっきりと映し出される。
痕辿 楼。
濡れた前髪が額に張り付き、目は見開かれ、焦点が定まっていない。
追跡を生業とする者の顔ではない。
それは、狩る側ではなく“狩られる側”の表情だった。
肩で息をしながら、歯を噛み締める。
追跡能力で数多の修羅場を越えてきた痕辿が、
今は何かから――確実に“逃げている”。
(……十神先生は、どうなった?)
その疑問が頭をよぎるが、考える余裕はない。
背後から伝わってくる圧が、それを許さなかった。
雷光が消え、再び闇。
だが、闇の中でも“それ”の気配だけは消えない。
距離が縮まっているのが、能力を使わずとも分かる。
痕辿は歯を食いしばり、再び走り出した。
追跡者が逃走者になる。
その異常事態こそが、この先に待つ“最悪”を雄弁に物語っていた。
朝。
回道が勢いよく飛び起きる。
回道「遅刻!?」
慌てて枕元の時計を掴み、表示を睨む。
――まだ、三十分前。
回道「……なんだよ」
肩の力が抜け、ベッドに腰を下ろす。
回道「ふぅ。前もこんなことあったな……」
嫌な夢の残滓が、胸の奥にうっすら残っている。
だが、深く考える前に頭を振り、回道は部屋を出た。
廊下に出ると、ちょうど向こうから思条と剛堂が歩いてくる。
明らかに目的地は同じだ。
思条「おはよ。今から朝飯、一緒に行こ?」
回道「うん、おはよ!……あ、ちょっと待って!」
そう言うなり、回道は踵を返す。
剛堂「? どうした」
返事をする間もなく、回道は部屋へ引き返した。
――数秒後。
扉が勢いよく開き、回道が中へ入る。
ベッドの上では、扇が気持ちよさそうに眠っていた。
回道「おい、扇、起きろ」
扇「……んぁ……」
反応が薄い。
回道「朝だぞ、飯だ」
扇「……五分……」
回道「却下」
回道は容赦なく扇の腕を掴み、そのまま引きずる。
扇「ちょ、な、なに……!? ここどこだよ……」
完全に寝ぼけたまま、目も半分しか開いていない。
回道「食堂いくぞ」
扇「意味わかんねぇ……」
そうこうしているうちに、剛堂と思条の2人と合流し、そのまま食堂へ。
――数分後。
扇は椅子に座らされ、トレイを前にしてようやく現実を理解した。
扇「……朝?」
回道「朝」
思条「おはよう、扇」
剛堂「目ぇ死んでるぞ」
扇はしばらく黙り込み、やがて深く息を吐いた。
扇「……最悪な目覚めだ」
回道は笑いながらトレイを持ち上げる。
回道「そのうち慣れるって。ほら、食え食え」
騒がしくも、どこか穏やかな朝。
だが回道の胸の奥では、先ほどの“嫌な目覚め”が、まだ小さく燻っていた。
数埜が遅れて食堂に入ってくる。
数埜「おー、早いな」
視線の先には、まだ眠そうに箸を持つ扇。
数埜「……昨日の敵は今日の友、ってやつ?」
文月「昨日じゃないですけどね」
数埜「細かいなぁ〜」
扇はぼんやりした目で数埜を見る。
扇「……朝からうるさいな」
回道「気にすんな、ただの挨拶みたいなもんだろ」
剛堂「そうそう。飯の前に揉めるな」
思条「今は食べる方が大事だぞ」
その一言で、場の空気がふっと緩む。
数埜は空いた席に腰を下ろす。
数埜「まぁ、こうして同じ飯食ってる時点で問題ないか」
扇「……だな」
短い返事だったが、拒絶はない。
回道はその様子を見て、少しだけ安心したように笑う。
食堂には、朝の気怠さがまだ残っていた。
食器の触れ合う音と、誰かの欠伸が混じる、いつもと変わらない光景――そのはずだった。
断隙がふと顔を上げる。
断隙「……十神先生の報告、まだか?」
その一言に、思条が箸を止める。
思条「そういえば……遅いよね」
言葉が空気に溶けきる前だった。
寮の扉が、叩き壊すかのような勢いで開く音が響いた。
――ドンッ!
空気が一瞬で張り詰める。
飛鷹「回道ォ! 扇ッ! どこにいる!」
食堂の奥から、回道が反射的に声を張る。
回道「食堂です!」
直後、食堂の扉が乱暴に開かれ、飛鷹がずかずかと踏み込んでくる。
肩で息をし、顔色は悪い。いつもの軽口は影も形もなかった。
飛鷹「……落ち着いて聞け」
その声音だけで、全員が察してしまう。
“悪い報せ”だと。
飛鷹「十神先生が――死んだ」
時間が、止まった。
回道「……は?」
扇「……え?」
言葉にならない声が、床に落ちる。
誰も、次の音を発することができない。
飛鷹「今、痕辿の捜索に当たってる。詳細はまだだ」
だが、その説明は誰の耳にも届いていなかった。
理解が、拒絶されている。
回道の脳裏には、十神の声が蘇る。
厳しくて、面倒くさくて、それでも確かに“導いてくれた”声。
扇は、唇を震わせたまま動かない。
兄の名を呼ぶことすら、できなかった。
その場にいた全員が同じだった。
理解していないのではない。
理解してしまうのが、あまりにも恐ろしかった。
食堂の空気が凍りついた。
箸が止まり、椅子が軋む音すらやけに大きく聞こえる。
断隙「……は?」
思条「ちょ、ちょっと待って……今、なんて……?」
飛鷹は息を荒げたまま、机に両手をつく。
飛鷹「だから!十神先生の――死亡が確認された!」
文月「……嘘、ですよね?」
声が震えているのに、自分でも分かるほど現実味がない。
誰もが、どこかで「聞き間違いだ」と思おうとしていた。
剛堂「……ふざけんな」
低く、抑えた声。怒りというより、拒絶に近い。
数埜「……死んだって、戦闘中じゃねぇって話じゃ」
飛鷹「詳細はまだだ!だから痕辿の捜索が最優先になってる!」
その名前が出た瞬間、回道の背中に冷たいものが走る。
回道「……痕辿が、生きてる前提で探してるんだよな?」
飛鷹「あぁ。だが、単独で行動してた痕跡が見つかってる」
回道は何も言わず、視線を落とす。
扇「……兄ちゃんが……死んだ?」
声が掠れ、言葉にならない。
理解が追いつかず、現実だけが一方的に押し寄せてくる。
剛堂は、胸の奥がひやりと冷えるのを感じた。
――まずい。
宇未と宮闈の時が、脳裏をよぎる。
あのときも、感情が臨界を越えた瞬間、回道は止まらなかった。
もし――
もし今、回道が暴れ出したら。
この場で、誰が止められる?
剛堂は反射的に回道のほうを向いた。
だが、そこにいた回道は、剛堂の想像とは違っていた。
怒りに震えているわけでも、拳を握りしめているわけでもない。
――妙に、落ち着いている。
それどころか。
回道と扇が、黙ったまま視線を交わしていた。
言葉はない。
だが、何かを確かめ合っているような、危うい沈黙。
剛堂の背筋を、嫌な予感が走る。
もし、もしもだ。
この二人が「行く」と言い出したら。
復讐だとか、助けに行くだとか、そんな言葉を口にしたら――
この場の誰にも、止める術はない。
回道は最強だ。
扇は、最強に最も近い。
その二人が並んでしまえば、それはもう「戦力」じゃない。
災厄だ。
剛堂は、喉の奥で息を呑んだ。
頼むから――
今は、何も言うな。
だが、静かすぎる沈黙ほど、恐ろしいものはなかった。
回道が、口を開こうとした――
その、ほんの一瞬だった。
食堂の扉が、音もなく開く。
空気が変わった。
入ってきたのは天城だった。
いつもの冷静な歩調だが、その表情には明確な緊張が滲んでいる。
天城「お前ら、避難だ」
一言で、場が凍りついた。
思条「……え?」
間の抜けた声が漏れる。
だが天城は一切取り合わない。
天城「十神を殺った集団に、記憶を読む能力者がいた可能性が高い」
その言葉に、全員の背筋が一斉に強張る。
天城「いま、こっちに向かってきてる。位置はまだ確定していないが、時間の問題だ」
回道と扇が、同時に天城を見る。
さっきまで向き合っていた視線が、静かに切り替わる。
天城「ここで戦闘はリスクがでかい。一般人もいる。校舎も、寮も、守る対象が多すぎる」
一拍置いて、低く言い切る。
天城「身を潜める。戦う場所じゃない」
剛堂が歯を食いしばる。
剛堂「……逃げるってことですか」
天城「生き残るってことだ」
感情を一切交えない、合理的な答えだった。
数埜が唇を噛み、文月は無言で拳を握る。
誰も反論できない。反論できるほど、状況は軽くない。
回道は俯いたまま、静かに息を吐いた。
さっきまで、胸の奥で渦巻いていた衝動が、強制的に押し込められる。
今は――暴れる場面じゃない。
扇が一歩、回道の横に並ぶ。
扇「……わかった」
短い返事。
だが、その声には覚悟が混じっていた。
天城は全員を見渡し、最後に言う。
天城「いいか。これは敗走じゃない。次に繋げるための撤退だ」
その言葉を合図に、食堂の空気が動き出した。
嵐の前の、静かな避難。
そして誰もが理解していた。
――敵は、もうすぐそこまで来ている。
避難は迅速だった。
天城の指示のもと、生徒たちは地下に設けられた避難所へと移動する。
校舎の喧騒は嘘のように消え、厚い扉の向こうでは外界の音すら遮断されていた。
避難所にはすでに教師陣が集結していた。
結界、索敵、通信遮断――あらゆる対処が同時進行で進められている。
百目鬼校長が腕を組み、状況を一瞥する。
百目鬼「……ほんと想定外な事ばかり起きる。」
天城「向こうに記憶読取がいる以上、時間をかけるほど不利になる」
厓山が舌打ちする。
厓山「チッ、弔ってやりたいのに時間が許してくれねぇってか?」
百目鬼は短く頷いた。
百目鬼「だからこそ、我々が動きます」
三人は視線を交わし、無言で合意する。
天城「俺と百目鬼校長、厓山で偵察に出る。敵の数、能力構成、接近経路を確認する」
厓山「万一ぶつかっても、引き際は分かってる。安心しろ」
そう言い残し、三人は避難所を出ていった。
扉が閉まる音が、やけに重く響く。
その直後、場の指揮を引き継いだのは――榅と飛鷹だった。
榅が前に出る。
白衣のまま、目の下には濃い隈。だが声ははっきりしている。
榅「いいか、ここからは俺と飛鷹で指揮を執る」
飛鷹が腕を組み、鋭い目で生徒たちを見渡す。
飛鷹「能力の使用は禁止。勝手な行動も禁止だ。破ったやつは俺が縛る」
その言葉に、数人が息を呑む。
榅「怪我人が出たら即俺のところに来い。無茶したら治さねぇからな」
冗談めかした口調だが、目は本気だった。
回道は壁にもたれ、静かに天井を見上げていた。
胸の奥がざわつく。
敵が来る――それは分かっている。
だが、今回はまだ、戦えない。
隣に立つ扇が、低く呟く。
扇「……静かすぎるな」
回道「嵐の前ってやつだろ」
二人の視線が、閉ざされた扉へと向かう。
この避難所が守り切れるのか。
それとも――ここが戦場になるのか。
半日が経過した。
正確な時間は分からない。
だが、体感としてはそれくらいだった。
天城からの通信は、途絶えたまま戻らない。
飛鷹が通信端末を強く握りしめる。
飛鷹「……くそっ、繋がれよッ!」
何度呼びかけても、返ってくるのは無音だけだ。
雑音すらない、完全な沈黙。
その事実が、避難所の空気を一段重くした。
主戦力。
天城、百目鬼、厓山。
その三人の行方が、同時に分からなくなった。
誰も口に出さない。
だが、全員が同じことを考えていた。
――死ぬのか。
このまま、何も分からないまま。
敵の正体も、位置も掴めず。
守るべき場所に閉じ込められたまま。
回道は拳を握る。
力を入れすぎて、爪が食い込む。
扇も、唇を噛みしめていた。
さっきまでの苛立ちも、焦りも、すべて飲み込んだ顔だ。
榅が低く言う。
榅「……最悪を想定するぞ」
その言葉が、決定打だった。
避難所にいる全員が理解する。
これはもう「待機」ではない。
生き残れるかどうかの局面に、突入したのだ。
誰かが喉を鳴らす音が聞こえた。
誰かの呼吸が、やけに大きく感じられた。
それでも――
泣く者はいなかった。
叫ぶ者もいない。
ただ、静かに覚悟だけが積み上がっていく。
その中心で、回道は目を閉じる。
心の奥で、何かが確実に動き始めていた。
静寂を切り裂くように、控えめなノック音が響いた。
避難所の空気が、一瞬で張り詰める。
扉の向こうから、聞き慣れた声がした。
天城「開けてください。百目鬼と厓山とはぐれてしまいました。体制を立て直して、再度探しに行きます」
その声を聞いた瞬間、飛鷹の表情が一気に明るくなる。
飛鷹「天城……!」
安堵に息を吐き、反射的に扉へ駆け寄ろうとした。
だが――
回道と扇が、ほぼ同時に飛鷹の前へ出て、手を突き出した。
飛鷹「え?」
回道「……しっ」
低く、短い制止。
飛鷹が戸惑いながら立ち止まる。
扇は一歩前に出ず、扉をじっと見据えたまま口を開いた。
扇「天城先生。ひとつ聞きます」
扉の向こうの気配が、わずかに揺れる。
天城「どうしました?」
扇「飛鷹の名前は?」
一瞬の間。
それから、扉越しに即答が返ってきた。
天城「どうしたんですか、急に。名前? 飛鷹梶尾だろ?」
飛鷹「……合ってる」
そう、飛鷹自身が小さく呟く。
扉の向こうの“天城”は、少しだけ声色を変えた。
天城「飛鷹さん、早く開けてくださいよ」
その瞬間だった。
回道の中で、何かが完全に噛み合った。
胸の奥で鳴った、嫌な確信。
回道はゆっくりと扇を見る。
扇もまた、同じ結論に辿り着いた目をしていた。
二人は、無言で頷き合う。
――これは、天城じゃない。
回道「お前、誰だ?」
低く、はっきりとした声が避難所に落ちる。
扉の向こうで、わずかな沈黙が生まれたあと、困ったような調子の声が返ってきた。
天城「嫌だなぁ。天城 朔夜だよ。開けてくれよ」
その声を聞いても、回道の表情は一切変わらなかった。
回道「天城は、飛鷹先生に“さん”付けしないんだよ」
空気が凍る。
扉の向こうから、息を吸う音がかすかに聞こえた。
天城「……」
回道「あとさ」
回道は一歩前に出る。視線は扉から一瞬も逸らさない。
回道「馬鹿だよな、お前。俺の能力すら、知らないらしい」
その言葉に、はっきりとした苛立ちが滲んだ。
天城「……くそっ」
吐き捨てるような声。
そうだ...
回道は《ステータス可視化》を持っている。
最初に扉の向こうに立つ“天城”を対象にした瞬間、すべてが分かった。
数値も、反応も、存在の質そのものが――天城 朔夜ではあり得なかった。
覗いた時点で、もう終わっていたのだ。
ここにいるのは、天城の姿をした“何か”。
十神を殺した集団の一員。
記憶を読む能力を持つ敵。
回道は静かに拳を握る。
もう迷いはなかった。
こいつを、ここから突き放さないと何をするか分からない。
天城を含め、百目鬼、厓山の安否も不明。
今この場で、誰かがこの“偽物”を相手にしなければならない。
それは、言葉にしなくとも全員が共有している認識だった。
榅が無言で腕まくりをする。
飛鷹が首を鳴らし、一歩前に出た。
飛鷹「ほんとありがとうな、二人とも。危うく馬鹿晒すとこだった」
榅「医者だが、ある程度の戦闘はできる。後は教師に任せろ」
二人が並んで扉へ向かおうとした、その瞬間。
回道が、前に出た。
飛鷹「……え?」
呆気に取られた声。
榅は一瞬だけ回道の顔を見て、すぐに理解したように息を吐く。
榅「そういう事かぁ……」
小さく笑って、飛鷹に向き直る。
榅「飛鷹。俺たちより強い“俺”が行くってよ」
回道自身は、何も言っていない。
だが、その表情が全てを語っていた。
迷いも、恐怖もない。
“行く”と決め切った顔。
回道「扇」
扇が即座に顔を上げる。
回道「ここは頼んだぞ。俺の後ろを任せられるの、お前しかいないからな」
扇「……ふん。任せとけ」
次の瞬間、回道が扉に手をかける。
開いた――その刹那。
扉の向こうにいた“天城”が反応するよりも早く、回道は踏み込んだ。
顔面を鷲掴みにし、そのまま全力で走る。
地下を駆け抜け、空気を引き裂く速度。
抵抗する暇すら与えない。
扉が閉まる。
地下は、再び静寂に包まれた。
天城?「がぁぁぁぁぁ!!」
叫び声は、風圧に潰され、言葉にならない。
校庭に飛び出した瞬間、回道はそのまま相手を地面に叩きつけた。
鈍い衝撃音が響く。
その時。
屋上にいた、別の人影たちが動揺する。
???「え!? 今、地下から出てきた?」
???「いや……出てきた感じ、しなかったぞ」
???「……まさかだが、俺たちが観測できない速度で?」
校庭には、顔を地面に埋め、気を失った“天城”が転がっている。
回道は、それを一瞥しただけで、視線を屋上へ向けた。
その瞬間。
屋上にいた三人は理解した。
自分たちは、狩る側ではない。
――狩られる側だ、と。
???「――気づかれた!?」
屋上が、一気に騒がしくなる。
???「誰だよ!? 見つかるようなことしたやつ!」
???「待て、誰も霊力も妖力も使ってねぇぞ!」
???「じゃあなんで気づくんだよ!?」
声が重なり、足音が乱れる。
さっきまでの余裕は消え、完全に浮き足立っていた。
その様子を、校庭の下から回道は見上げている。
額を一筋、汗が伝った。
回道「……あれ?」
自分でも少し拍子抜けする。
気づかれた、というより――相手が勝手に混乱している。
(霊力も妖力も使ってない)
(視線も、殺気も、向けてない)
なのに、見られていると“理解した”。
回道は無意識に口角を上げそうになり、慌てて真顔に戻す。
回道(……取り乱しすぎだろ)
屋上ではまだ言い争いが続いている。
誰が悪い、何が原因だ、と責任を押し付け合う。
屋上の男たちの耳元で、無線が短くノイズを走らせた。
???「……どうした? やけに騒がしいな」
低く、苛立ちを含んだ声。
それを聞いた瞬間、屋上の空気が一段引き締まる。
???「た、隊長! 緊急事態です!一人やられました!」
一拍の沈黙。
隊長「……は?」
無線越しの声が露骨に不機嫌になる。
隊長「主戦力の教師陣三人は隔離したんだろ?何を甘えたこと言ってんだ。ちゃんと仕事しろよ」
???「それが――!」
そう言いかけた瞬間、無線がブツリと切れた。
??る「……くそっ! 切りやがった!」
男の一人が舌打ちする。その直後だった。
背後――ほんの数歩後ろに、音もなく“それ”は立っていた。
???「――――」
振り向いた男たちは、まるで幽霊を見たかのように硬直する。
目を見開き、喉がひくりと鳴る。
???「な……」
言葉にならない声。
そこにいるはずのない存在が、当たり前のように立っている。
回道だ。
一人の男が咄嗟に地面へ手を突いた。
???「……転送!」
その瞬間、回道の体が淡く光を帯びる。
回道「え!?」
驚きの声を上げる暇すらなかった。
視界が歪み、空間が引き剥がされる感覚。次の瞬間――
回道の姿は、屋上から消えていた。
残された男たちは、荒い息を吐きながらその場に立ち尽くす。
???「……成功、したのか?」
――教師陣三人も、きっと同じ手口で連れていかれたのだろう。
そう確信せざるを得ないほど、その“転送”は一瞬で、抗いようのないものだった。
この章では、「戦闘」そのものよりも、
最強が戦場に立ったとき、周囲の常識や前提が一気に崩れていく感覚を強く意識して描きました。
回道はまだ状況を完全に把握していません。
敵の全貌も、教師陣がどうなっているのかも分からない。
それでも彼は“考える前に動いてしまう段階”をすでに越えています。
――理解の外側にある存在を前にしたとき、人は戦う前に壊れ始める。
この感覚が、今回のラストの核でした。
そして最後の「転送」。
これは回道にとって初めての完全な強制排除です。
自分の力が通じない形で、盤面から外される。
この先、回道はさらに強くなります。
ただし同時に、守れないものも増えていく。
引き続き、お付き合いいただければ幸いです。




