〈1章〉第1話 初夜の出来事と悲劇の始まり
部屋の明かりは、この屋敷の主の希望で最小限にされていた。
あるのは足元を照らす為に置かれた数個のランプのみ。灯りがチラチラと揺れ動くのをぼんやりと見つめながら、ベルトラン侯爵家の嫡男であるアルベルトと結婚式を済ませたばかりのカトリーヌは、薄暗い部屋の中で一人、夫を待ち続けていた。
「もう寝ましょう」
枕元に用意されていた布を手に取ると、うっすらと透けた夜着を持ち上げてベッドに座る。この夜の為に用意された夜着は、今のモンフォール伯爵家にとっては高価な物だった。絹の生地に胸元と裾には繊細な刺繍が施され、柔らかいチュールが胸元下からたっぷりと使われている。柔らかな肌触りを感じる度に、カトリーヌは惨めな気持ちになるのだった。
見慣れない自分の姿に躊躇いながらぎこちなく足を開くと、ずっと感じていた陰部の違和感の正体を拭き取ろうと手を伸ばした時だった。
ノックもなしに扉が開き入ってきた者と目が合う。カトリーヌは固まり、入ってきた者もまた固まっているようだった。先に我に返ったカトリーヌはとっさに足を閉じた。
「本日はいらっしゃらないかと……」
そう言いながら急いでベッドから降りて脇にずれる。すると固まっていた者は大股で近づき、ベッドにどかりと座った。暗くても何をしようとしていたかぐらいは分かるはず。弁明しようにも何も言葉が浮かんでこない。ただ口から零れたのは何故か謝罪の言葉と、確かめるように呼んだ名前だけだった。
「あの、アルベルト様? 申し訳ありません」
表情が見えず不安になり手を伸ばしかけた所で、反対にその手首を思い切り掴まれてしまった。
「何をしていたんだ?」
「それは……」
やはりあの格好を見られてしまった。羞恥から言葉が出ないでいると、フッと小さく笑う声が聞こえた。
「まさか俺が来ないから自分で慰めようと?」
「違います! そんなんじゃありません!」
しかしアルベルトはこの話を終わらせる気はないらしい。手首はいまだ強い力で掴まれたままだった。
「その、潤滑油を拭おうとしておりました」
「潤滑油?」
恥ずかしさでおかしくなりそうな言葉をアルベルトが繰り返す。すると掴まれていた腕が引かれてベッドに倒された。カトリーヌは驚いたままアルベルトを見上げた。寝台の中は更に暗く顔は更に見えない。それでも口元が笑っているように見えた瞬間、背筋が震えた。
「アルベルト様、あの、私」
声が上擦ってしまう。恐ろしさで一気に身体が冷えていくのが分かった。
「わざわざ潤滑油を仕込もうとしていたのか?」
「お手を煩わせないようにと、思いまして」
「……そんなに俺に触れられるのが嫌か」
「誤解です!」
その瞬間、一気に大きな身体が伸し掛かってくる。カトリーヌは身動きするのも忘れて固まってしまった。ごつごつした手が一気に夜着を捲くり上げられると冷えた空気に臀部が震えた。
「そちらがその気なら、望み通りに手早く済ませてやる」
言葉の意味が分からず頭が真っ白になった瞬間、押し入るような痛みにカトリーヌは唇を噛み締めた。
身体に力が入らない。カトリーヌは放心したまま横になり、アルベルトの背中を見つめていた。何故か服を整えている様子に違和感を覚えそっと伸ばした指先は、立ち上がったシャツの裾を掠めただけだった。
「一度で懐妊するとは思いにくいが、互いの為にも今晩授かっている事を願っている」
そう言うとあっという間に出て行ってしまった。カトリーヌは呼び止める事も立ち上がる事も出来ないまま、そっと目を閉じた。
三年前
外は二晩降り続いている雨がまだ止む事はなく、空は低くどんよりと曇っていた。
「姉さま、いつになったらお外で遊べるの?」
窓に張り付いていた弟のルイスは、おでこを硝子に貼り付けながら大袈裟な溜息を吐いた。それもそのはず、カトリーヌよりも六つ下のルイスは何より外で遊ぶ事が大好きな子供だった。高台の上にある屋敷から街に降りると同じ年頃の子供達に交じってずっと走り回り、時には泥だらけになって帰ってくる事もしばしばあった。領主の跡取りと領民の子がそんな風に遊ぶ領地が他にあるのかは知らなかったが、父親が叱らない所を見ると、いい顔をしない母親は単に息子が泥だらけになったり小さな傷を作って帰ってくるのが嫌だっただけなのだろうと思った。
「ルークとエレナは何していると思う?」
特に仲良しのパン屋の兄妹の名を口にしたルイスから鼻を啜る音がする。カトリーヌはぼんやりと眺めていた本を閉じると、窓の外を見つめているルイスの肩に触れ、母親譲りの綺麗な金色の髪を撫でた。カトリーヌの容姿は父親譲りだった為、薄い茶色の髪に茶色の瞳をしている。二人の姿が映り込んだ窓には雨が伝って、その姿を歪ませていた。
「きっと二人も同じようにルイスと遊びたいって言っているわよ。明日には止むといいわね」
「止むかな? こんなに降っているのに?」
「でもこんなにずっと雨が降っていたら街が沈んでしまうと思わない? だからきっと明日には止むわ」
「そうだね。街が沈んじゃうもんね」
ルイスは笑うとようやく窓から離れた。
「まだ起きていたの? 子供はもう寝る時間よ」
「お母さま! 一緒に寝るの?」
部屋に入ってきた母親を見たカトリーヌはその姿に違和感を覚えたが、嬉しそうに母の腕に縋り付くルイスを追った。
「お父様はまだ帰らないの?」
数日降り頻る雨で領地に異変が起きていないか見回りに出ていた父親は、外が暗くなってもまだ帰って来てはいないようだった。ルイスをベッドに入れるとその横にカトリーヌも入る。母と一緒に寝たいというルイスを大人しくさせる為に、今日はルイスと共に寝る事にしたのだ。それでも母の腕を引きベッドに引き入れようと駄々をこねるルイスを抱き寄せながら眠りにつくと、ルイスは実は疲れていたのか程なくして寝息を立て始めた。
真夜中に騒がしい音がして目が覚めると、一階から父親の声が聞こえてきていた。
――お父様達だわ。今帰って来たのね。
まだ夜明け前。ようやく帰宅した父親の姿をひと目見ようと、ぐっすりと眠っているルイスを起こさないようにベッドから這い出て、毛布の上に掛けてあったガウンを肩に掛ける。しかし一階からは騒々しい幾つもの足音と話し声と共に母親の短い悲鳴が上がった。いつにない大人達の緊迫した声が途切れ途切れに聞こえてくる。窓の外では小降りになった雨がまだ降り続いていた。
足音を立てないように裸足のまま部屋を出ると、階段まで近づいて下の様子を見ようとゆっくりと顔を出した。とてもじゃないが降りて行ける雰囲気ではない。玄関には外套を着たままびしょ濡れの父と、まだワンピースを着たままの母親の姿が目に飛び込んできた。
就寝前からの違和感の正体。それは夜だというのに母親が寝間着に着替えていない事だった。
「……だから、様子を見てきたら……」
「そんな事……られません! 洪水……なんて」
カトリーヌははっとして口を押さえた。
――洪水?
頭の中にはいつか本で見た描写が蘇る。川が氾濫して起こる災害。広い川でもそれは起こり、川が決壊すると周囲に甚大な被害を与えると知識では知っている。それでもその洪水が起きたとして、この地がどうなるのかまで分からなかった。
「とにかくお前達は雨が止んでも決して外には出ないように」
そう早口で言う声と共に激しく扉が閉まる音がする。すると侍女の悲鳴が上がった。
「奥様! しっかりしてください! 奥様!」
カトリーヌはとっさに階段を駆け下りていた。顔面蒼白の母を侍女のエルザがなんとか支えている。カトリーヌは何も出来ないまま寝室へと連れて行かれる母の後ろを追う事しか出来なかった。
「お母様大丈夫? お母様!」
ソファに倒れるように横になった母の顔を覗き込んだ。
「何でもないから心配いらないわ。それよりも起きてしまったの? うるさかったわよね?」
落ち着いた言葉とは裏腹に、前で組む指先は微かに震えていた。
「大丈夫? どこか痛むの?」
「ありがとうカトリーヌ。それよりルイスはどうしているの? 起きてしまった? あの子は一度目が覚めると寝付きが悪いから心配だわ」
「ルイスならまだ寝ているわ。多分まだまだ起きないと思う」
「随分と夜ふかししていたものね」
にこりと微笑んだまま、やがて母は小さな溜息を吐いた。
「もしかしてあなた、お父様との会話を聞いていた?」
怒られるかもしれないと思い反射的に身体が反応したが、嘘をつく気にはなれなかったし、第一何があったのかを知りたい気持ちの方が強かった。すると母親は怒るでもなく、ポツリポツリと話し始めた。
「この数日雨が続いていたでしょう? その雨のせいで領地で大洪水が起きてしまったみたいなの」
「大洪水?」
「家が流されて、農地もほとんどが駄目になってしまったんですって」
「誰か死んだの?」
「それはまだ分からないわ。今お父様達が確認に行っているから帰りを待ちましょう。あなた達はお父様の許可が降りるまでくれぐれも外には出ないように。どこで地盤が緩んでいるか分からないし、ここは高台だから地すべりがあるかもしれないわ。しばらくは外出禁止よ」
思わず母の細い指を掴むと、その指先は嘘のように冷たくなっていた。その手の上にもう片方の手が重ねられる。二人で無言のまま、重苦しい空気に耐えるように抱き合った。




