第八章:桜園(おうえん)の幻夢
【前回のあらすじ】
空間の理を操る天守・高知 海斗に翻弄される和真。焦りや葛藤から自信を喪失するも、恭子から木札のお守りを受け取り立て直す。自身が”異邦人”であることから海斗攻略の妙案を閃き、7つ目の天守を手に入れることに成功した。
海斗の能力を頼って、次なる遠方の天守のところへ転送されたが…?
高知の天守、海斗によって放り出された先は想像を絶する極寒の世界だった。肌を切り裂くような冷たい風が容赦なく体温を奪っていく。見渡す限りの白、白、白。雪に覆われた大地と鉛色の空。温暖な南国から一転、二人は過酷な自然の脅威に晒されていた。
「さ、寒い…! ちょっと何なのよこの寒さ! あの悪戯小僧、絶対に許さないんだから!」
恭子は自身の体を必死に抱きしめ、歯をガチガチと鳴らした。薄手の旅装束は極北の地においてあまりにも無力だった。
「文句は後だキョウコさん! このままじゃ凍え死んじゃう!とにかく人里を探さないと!」
和真も全身の震えを抑えながら必死で周囲を見渡す。幸運なことに、遠くの雪原の向こうに黒い煙が立ち上っているのが見えた。人家の証だ。
二人は膝まで埋まる雪を掻き分けながら必死で煙を目指した。体感時間は永遠のように長く感じられたが、ようやく辿り着いたのは雪深い山間にひっそりと佇む小さな村だった。突然現れた異様な服装の二人組に村人たちは強い警戒心を示したが、見るからに凍えきっている和真たちの様子を見てすぐに囲炉裏のある家へと招き入れてくれた。
燃え盛る炎の暖かさが凍りついた体に沁み渡る。生き返る心地がした。村人たちから温かい汁物と毛皮を使った厚手の上着を借り受けて一息ついたところで、和真はこの地の状況を尋ねた。
ここが津軽と呼ばれる地方であり、目指す弘前城も馬車を使えば一日ほどの距離にあるという。しかし、村人たちの表情は一様に暗く沈んでいた。
「旅のお方…こんな厳しい時期によくぞお越しになった。今年は一体どうなってしまったのか…」
年老いた村長が深い溜息と共につぶやいた。
「もうとっくに雪解けして桜が咲き始める頃合いだというのに、この通り冬が居座ったままじゃ。雪は止む気配を見せず、日に日に寒さが増していく…」
「畑仕事もできず蓄えも底をつき始めておる。山に入ろうにも森の様子がおかしいんじゃ」
別の村人が不安げに続けた。
「雪の下で春を待つはずの木々が、まるで精気を吸い取られたように枯れていく。冬眠から目覚めた獣たちも食い物がねえせいか、気が立っていて危なくて近寄れん」
「それに…わしら自身もなんだかおかしいんだ」最初に話した老婆が力なく言った。
「体が妙にだるくてやる気が起きねえ。昔はどんなに厳しい冬だって、春を待つ希望があったもんだが…今はなんだか心が凍っちまったみてえで…」
彼らの言葉から伝わってくるのは単なる異常気象による苦境だけではなかった。生命力そのものの衰退、そして人々の精神を蝕む、目に見えない「何か」の存在。テンシュリアを覆い始めた異変は、ここ北国においてはより深刻で、根源的な形で現れているようだった。
「弘前城の桜様が、それはもうご自身の身を削るようにして、わしらに回復の力を分け与えて励ましてくださっておる。じゃが…どうにも今年の冬をもたらしている『何か』の力はあまりにも強大すぎるようで…桜様のお力をもってしても春を呼び戻せずにいるのじゃ…」
「このままでは津軽の地は永遠の冬に閉ざされ、全てが死に絶えてしまうやもしれん…」
村人たちの目には諦めと絶望の色が濃く浮かんでいた。
和真は彼らの苦しみを前に言葉を失った。天守核を集める旅。その果てに待つのが、こんなにも悲しい現実だとしたら? 自分の願いはこの人々のささやかな希望さえも奪い去ろうとしているのではないか? 激しい罪悪感が冷たい氷のように和真の心を締め付けた。
翌日。借り受けた防寒具に身を包み、二人は弘前城へと向かった。雪は依然として降り続いていたが、空は僅かに明るさを取り戻しているように見えた。
厳しい自然の中に凛とした気品を保って佇む弘前城は雪化粧を施され、幻想的な美しさを醸し出していた。城を囲む広大な庭園は無数の桜の木々で埋め尽くされている。今は力なく見える枝々だが、満開の季節にはどれほど見事な光景を作り出すのだろうか。
「あれが、弘前城…」
「うん、綺麗だね…。でもなんだか静かすぎる気がする…」
恭子の言う通り、これほどの規模の城にしては人の気配がほとんど感じられない。異変の影響が城の中枢にまで及んでいるのだろうか。不安を抱えながら、二人は城の追手門へと辿り着いた。
和真たちが門に近づくと衛兵の一人が鋭い声で制止した。
「止まれ! 何者だ!」
槍の穂先が鋭く二人に向けられる。その動きに一切の無駄はなく、厳しい状況下で練度が保たれていることが窺えた。
「この先は弘前城内である。如何なる理由があろうとも、許可なき者の立ち入りは断じて許さん!」
厳しい口調だった。異変の影響で城の警備体制が最大限に引き上げられているのだろう。
「私は犬山城の天守、犬山恭子と申します。こちらは私の連れ、相良和真」
恭子は背筋を伸ばして自身の身分を明かした。
「弘前の天守、桜殿に急ぎお伝えせねばならぬ儀があり、遠路はるばる馳せ参じました。道を開けていただきたい」
「い、犬山城の…天守様!?」
衛兵たちは目を見開いて驚きの声を上げた。恭子の纏う雰囲気には、確かに天守としての威厳が備わっている。彼らは顔を見合わせて戸惑いの色を見せた。
「ま、誠に犬山の天守様で…? しかし、このような折に一体どのような御用向きで…?」
隊長らしき衛兵が困惑しながらも問い返す。
「ご存知かとは思いますが、現在この津軽は未曾有の異変に見舞われております。城内も厳戒態勢にあり、桜様も民のため・この地のために昼夜を問わず祈りを捧げておられます。みだりに外部の者とお会いになる状況では…」
衛兵の言葉は丁寧だが、その奥には明確な拒絶の意思が感じられた。彼らにとって、今は城を守り、主君である桜を守ることが最優先なのだ。
「我々の来訪がただならぬ事態故であることはご理解いただきたい」
恭子はなおも食い下がろうとした。
「この異変について、桜殿と直接お話しなければならぬことが…」
その時だった。
ひらり、と一枚の桜の花びらがどこからともなく風に乗って舞い降りてきた。雪しか降っていないはずの、この真冬の空から。花びらは衛兵隊長の肩にふわりと乗り、淡い光を放った。
「…! これは…桜様の…?」
衛兵たちは驚き、その光景に息を呑む。花びらが放つ光は、まるで意志を持っているかのように瞬き、城内を指し示すかのようにスッと消えた。
「…桜様がお待ちのようです」
信じられないといった表情で隊長が呟くと、姿勢を正して和真と恭子に向き直った。
「大変失礼いたしました。どうぞこちらへ。ご案内いたします」
どうやら城の中にいる桜が和真たちの来訪を察知し、通すようにと指示を出したらしい。その不思議な力に、和真は改めて桜という天守の神秘性を感じた。
案内されたのは城の中心部ではなく、城に隣接する広大な庭園だった。雪に覆われたその庭園を進んでいくと、やがてひときわ大きい古い桜の木の前に辿り着いた。その根元に、村人たちの話にあった通りの、慈愛と憂いに満ちた女性が静かに立っている。
淡い桜色の衣を纏い、雪の中で凛と咲く一輪の花のような女性。弘前城の天守、弘前 桜。彼女はまるで全てを見通しているかのように、穏やかな、しかしどこか寂しげな微笑みを浮かべて和真たちを迎えた。
「…お待ちしておりました。異邦の若者、相良和真殿。そして犬山の天守、恭子殿」
まだ衛兵にしか名乗っていないはずだが、桜は全て見通していたかのように、静かで温かい声で言った。その声は、張り詰めた冬の空気を和らげ、聞く者の心を優しく解きほぐすような不思議な響きを持っていた。
「あなたが、弘前 桜さん…」
「はい。ここに息づく全ての生命に心を寄せて芽吹きを願う、桜と申します」
彼女は深々と、しかし力なく頭を下げた。
「あなた方が多くの困難を乗り越え、天守核を求めてこの北の果てまで旅を続けてこられたこと…そして旅路の中で、多くの迷いや葛藤を抱えておられることも風の囁きが教えてくれました」
桜の言葉はまるで心を直接読まれているかのようで、和真は息を呑んだ。
「桜さん、俺たちは…」天守核のことを切り出す前に、和真は尋ねずにはいられなかった。
「この地の異変は、一体…?」
「…分かりません」桜は痛ましげに首を振った。
「ただ、感じるのです。この世界全体を覆う大きな力の歪みを。それは古く、深く、そして暗い…まるで忘れ去られたはずの怨念が長い眠りから覚め、再び世界を蝕もうとしているかのように…」
彼女は力なく、雪に覆われた桜の枝を見上げた。
「わたくしの力は生命を育み、心を癒す力…ですが、この深く根差した『歪み』の前にはあまりにも非力です。春を呼び、雪を溶かすことすらままならない…」
その横顔には深い無力感と悲しみが滲んでいた。
「あなた方が求める天守核もまた、今のわたくしには以前のような輝きを放つことができずにいます。それでも…もしあなた方が、この状況を打開する何かを求めておられるのなら…」
桜は和真たちに向き直った。その瞳には、憂いの中にも確かな意志の光が灯っている。
「お願いがあります。力や技ではなく、あなた方の『心』そのものをわたくしに見せていただけませんか? あなた方が何を願い、何を憂い、そして何を成そうとしているのか…その真実の想いを」
桜がそう言うと、彼女の足元から淡い桜色の光が波紋のように広がり始めた。それは温かく心地よい光だったが、同時に抗いがたい力で和真と恭子の意識を現実から引き離した。彼女が作り出す幻想的な精神世界へと深く誘われていく。
目を開けると、そこは満開の桜が咲き乱れる夢のような庭園だった。雪も寒さも消え失せて暖かな春の日差しが降り注ぎ、甘い花の香りが鼻腔をくすぐる。無数の花びらが風に乗ってきらきらと舞い踊っていた。
「ここは…すごい…!」
恭子は目を輝かせ、現実では見ることのできない光景に心を奪われている。
「美しいでしょう?」桜の声がすぐそばから聞こえた。
「ここはわたくしの心の一部…そして、あなた方の心を映し出す鏡でもあります」
桜は穏やかな笑みを浮かべて、まず和真の前に立った。
「相良和真さん。あなたの心はまるで嵐の海のよう。故郷へ帰りたいという強い流れと、この世界への責任感という岩礁がぶつかり合い、激しく揺れ動いている。そしてその奥底には…自分たちの行いが世界を壊しているのではないかという、暗く冷たい深淵が広がっている」
桜の言葉は、和真の心の奥底・誰にも見せたことのない部分までをも正確に捉えていた。反論することも誤魔化すこともできない。
「どちらの想いも偽りのないあなたの心。ですが、その激しい葛藤はあなた自身を焼き尽くしかねない炎のよう。その炎を抱えたまま天守核という更なる力を手にすることは、あまりにも危うい…」
桜がそっと和真の額に指を触れる。瞬間、和真の脳裏に鮮烈な、しかし不気味な幻影が流れ込んできた。それは抗うことのできない、過去の奔流。
―――天を衝くかのように聳え立つ、漆黒の巨大な城郭。その姿は他のどの城とも異なり、圧倒的な力と富を誇示するかのように異様な威圧感を放っていた。城主は絶対的なカリスマと、冷酷なまでの野心で世界を支配しようとしていた。彼の前では他の天守たちも霞んで見え、従うか滅びるかの選択しかなかった。彼の『驕り』は留まるところを知らず、多くの血が流れ、多くの涙が大地を濡らした。しかしその絶対的な支配は、内部からの亀裂によって崩壊する。信頼していたはずの部下の裏切り、抑圧されてきた者たちの決死の反抗、そして…全てを飲み込み、天をも焦がすかのような業火。黒い城は断末魔の叫びと共に燃え盛り、崩れ落ちていった。その跡に残ったのは焼け爛れた大地と決して消えることのない強大な力の『残滓』…そして世界に深く刻まれた歪みの記憶…。―――
「うわあああっ!!」
和真は幻影のあまりの生々しさに叫び声を上げ、その場に膝をついた。呼吸が荒くなり、冷や汗が止まらない。
「あれは…何なんですか…!? あの黒い城は…!」
「古にこのテンシュリアに君臨した、驕れる力の象徴…」
桜は悲しげに目を伏せた。
「その城の名を口にすることは今も憚られます。ですが、その存在が多くの悲劇と世界の歪みを生み出したことは紛れもない事実。強大すぎる力は、このように世界そのものを歪ませる恐れもあること…どうかお忘れの無いよう、心に刻んでください。」
桜の視線が、恭子へと移る。
「そして、犬山のお方。あなたの心…この若者を思う強い光と、故郷への深い愛情が見えます。ですが…」
桜は僅かに眉をひそめた。
「その奥に、まるで幾重にも鍵がかけられたような…硬く、冷たい扉がある。強い決意と誰にも見せられない秘密…わたくしの力が届くのを拒んでいるようです」
桜が心の深層に触れようとした瞬間、恭子は反射的に桜の干渉を防いだようだ。恭子の能力は精神攻撃も防げるらしい。
「…あなたにもまた、守るべき譲れない何かがあるのですね」
桜はそれ以上深くを探ろうとはせず、静かに言った。恭子は一瞬動揺を見せたが、すぐに毅然として頷いた。
「はい。私にも命をかけて守りたいものがありますから」
和真は二人のやり取りを呆然と見ていた。恭子の秘密…? だが、今はそれよりも自分自身の問題で頭がいっぱいだった。
「俺は…この先どうすれば…?」消え入りそうな声で和真は再び桜に問うた。
「答えはあなたの中にしかありません」
桜は優しく、しかし諭すように言った。
「力は心を映す鏡。大切なのは力の有無ではなく、その力をどう使うかというあなたの『意志』です。たとえ矛盾を抱えていても、より善き未来を諦めない…その純粋な想いの輝きこそが真の調和をもたらすのかもしれません」
桜は和真の心の弱さも矛盾も全てを受け入れた上で、その可能性を信じているようだった。
(俺の…意志…)
和真は自問自答する。帰りたい。でも、この世界を見捨てられない。天守核を集めることは危険かもしれない。でも、このまま異変が広がるのを見ているだけでは何も変わらない。
(なら…やるしかないじゃないか!)
矛盾したままでいい。葛藤を抱えたままでいい。それでも前に進むしかない。自分の願いと、この世界への責任…その両方から目を逸らさずに。
「俺は…進みます」和真は顔を上げた。
その瞳には、迷いを振り切った強い決意の光が宿っていた。
「元の世界へ帰ることも、この世界の調和を取り戻すことも諦めません。それがどんなに困難で矛盾した道だとしても…俺は、俺にできる全てを懸けて、未来を探します!」
その言葉を聞き、桜は満足そうに微笑みを浮かべた。
「…あなたの心、その輝き、しかと見届けました」
桜がそっと両手を差し伸べると、周囲に咲き誇っていた満開の桜の花びらが意志を持ったかのように一斉に舞い上がり、彼女の手の中に集まっていく。光の粒子がきらめきながら凝縮し、やがて一つの美しい宝珠へと姿を変えた。それは春の息吹そのものを封じ込めたかのような、淡く温かな桜色に輝く弘前城の天守核だった。
「これをあなたに託しましょう」
桜はその天守核を和真に優しく手渡した。
「その力は、あなたの心を映す鏡。決してその輝きを曇らせないでください。その純粋な意志こそが道を照らす灯火となるでしょう」
そして桜は付け加えた。その声には、祈るような響きが籠っている。
「ただし…古の『驕りの影』には、くれぐれも気をつけて。その闇は人の心の弱さや欲望に忍び寄りますから…」
「はい。胸に刻んでおきます」
和真は八つ目の天守核を、託された祈りと共に両手でしっかりと受け取った。
「あなた方の旅が真の調和へと繋がることを信じて、もう一つ、わたくしから道標を」
桜はどこからともなく一枚の古びた羊皮紙を取り出した。植物の繊維で織られたそれは、手に取ると微かに温かく、生命力を感じさせる。
「これは古くからこの地に伝わる、テンシュリア全土の図。わたくしの力で、残る四人の天守の方々の居場所…魂の在り処を記しておきました。これがあれば、迷うことはないはずです」
羊皮紙の地図を広げると、四つのひときわ強く輝く印が浮かび上がる。
「信州・松本。近江・彦根。播磨・姫路。そして出雲・松江…」
和真はその四つの地名を読み上げた瞬間、息を呑んだ。バラバラだったパズルのピースがカチリと音を立てて繋がる感覚があった。
(松本城、彦根城、姫路城、松江城…!? 待てよ、この四つの城って…俺がいた元の世界では、たしか全部…『国宝』に指定されていたはずだ!)
国宝――日本の文化財保護法に基づき、歴史的・芸術的価値が極めて高く、国の宝として指定された建造物。数ある城郭の中でも天守が国宝に指定されているのは極めて稀で、特別な存在だったはずだ。それがこのテンシュリアで最後に残った天守たちの居場所と一致している。これは単なる偶然なのだろうか?
(いや、偶然のはずがない…!)
和真の思考が加速する。
(元の世界で国宝に指定されていた天守は全部で五つ。この四つと…あと一つは……そう、犬山城!)
脳裏に浮かぶのは快活な笑顔で隣に立つ少女の姿、犬山恭子。彼女もまた、国宝五城の一角を担う天守だったのだ。最初に仲間になった彼女と最後に残った四人。この五つの城(天守)には何か特別な意味が込められているに違いない。天守核伝説、世界の異変、そして古の黒い城の影…。全てが、この「国宝五城」というキーワードで繋がっているような気がした。
「カズマ? どうかしたの、難しい顔して」
恭子が不思議そうに和真の顔を覗き込む。和真はハッとして、内心の動揺を悟られまいと慌てて表情を取り繕った。
(キョウコさんに今これを話すべきか…? いや、まだやめておこう。彼女には何か隠していることがあるかもしれない。それに、この事実は俺だけの切り札になる可能性もある…)
「…いや、なんでもないよ!なんだか強敵そうだなぁって思って!」
和真は内心の気づきを隠し、当たり障りのない言葉で返した。
「ふーん? でも私たちならきっと大丈夫でしょ!」
恭子はあっけらかんと答える。
「一番近い天守は…信州の松本、ですね」
和真は改めて地図を確認し、桜に向き直った。
「ええ」桜は頷いた。
「黒き武骨なる城。その守りは堅牢にして、天守は実直な武人であると聞きます。ですが彼の心にもまた、あるいは異変の影が差しているやもしれません…心して臨みなさい」
残るは四天守。その全てが元の世界で「国宝」と呼ばれた城である。旅は最終局面を迎え、その難易度も世界の謎もさらに深まっていくことを、和真は予感していた。
「でも、ここから松本まではかなり距離があるね…」恭子が口にすると、桜は優しく微笑んだ。
「案ずることはありません。わたくしの友である、春を運ぶ南風に頼みましょう。あなた方を暖かな風に乗せて、信州の近くまで送り届けてくれるようにと」
桜が空に向かってそっと息を吹きかけると、周囲に穏やかで、しかし力強い風が巻き起こった。それは単なる大気の流れではなく、明確な意志と温かさを持った、生命力溢れる風だった。風は和真と恭子の体を優しく包み込み、ふわりと宙へと浮かび上がらせる。
「お行きなさい。あなた方の旅路に、桜の祝福と春の息吹があらんことを」
二人の体は風に乗り、南の空へと向かって力強く上昇していく。眼下には雪に覆われた弘前の地がみるみる小さくなっていく。
八つ目の天守核、テンシュリアの過去、新たな決意、残る四つの天守を示す地図…今回の収穫はとても大きなものだった。和真はポケットの中の木札を握りしめ、複雑な想いを抱えながらも顔を上げた。
進むべき道は示された。残るは四人の天守たちとの対峙。和真は恭子と共に、次なる試練の待つ信州の空へと、春一番のような力強い風に乗って突き進んでいくのだった。