第十一章:白鷺(しらさぎ)の城と心の迷宮
【前回のあらすじ】
彦根の天守・彦根 桔梗は恭子と旧知の仲であった。桔梗の罠に翻弄されながらも試練を突破して天守核を入手する。桔梗との問答の中で、和真はようやく「願いの内容」が固まったようだが…?
彦根城の天守・桔梗との知恵比べに勝利し、十個目の天守核を手に入れた和真と恭子。二人は桔梗が手配してくれた船で広大な琵琶湖を渡った。湖上から振り返る彦根城は朝日を浴びて美しく輝いていたが、その雅やかさの裏に隠された数々の仕掛けと食えない城主の顔を思い出し、和真は少しだけ苦笑した。
船を降り、再び陸路で西へと向かう。目指すは播磨・姫路。白鷺城の異名を持つ、日本で最も美しいと言われる城だ。姫路城は松本・彦根に続く国宝五城の一角であり、最強クラスの天守の一人が待ち構えているのだろう。残る核は二つ。ようやく旅の終わりが現実的なものとして見え始めていた。
しかしその期待とは裏腹に、旅路を覆う世界の異変はもはや無視できないほど深刻さを増していた。
街道沿いの景色は以前にも増して荒涼としている。大地は生気を失い、作物は枯れ、川の水は淀み、空には常に鉛色の雲が重く垂れ込めている。立ち寄る村々では、原因不明の病に苦しむ人々の姿や虚ろな目で日々を過ごす人々の姿が目についた。まるで世界全体がゆっくりと毒に侵されて生命力が枯渇していくような、静かで、しかし根源的な崩壊が進行しているように感じられた。
「ひどい…空気が、重い…。なんだか、息をするのも苦しい感じがする…」
恭子が顔をしかめて呟く。彼女もまた、この淀んだ空気の中に漂う「負のエネルギー」のようなものを感じ取っているのだろう。
「ああ…異変は確実に悪化している。まるで世界全体が病気にかかっているみたいだ…」
和真は重い声で答えた。
(俺たちが天守核を集めていることがこの『病』を広げているんだとしたら…俺は希望を失いかけている人々の命を、間接的に奪っているのと同じじゃないか…?)
激しい罪悪感が和真の心を締め付ける。桔梗の前で宣言した「世界を救う」という決意。それは本心だ。だが、そのために行っている天守核集めそのものが世界を破滅へと導いているかもしれないという、逃れようのない矛盾。
和真は自身の手を見つめた。この手で残り二つの核を集めなければならない。それが、どんな結果を招くとしても。
「カズマ、あまり思い詰めないで」
和真の内心を見透かしたかのように、恭子はそっと肩に手を置いた。
「私たちが今できるのは、信じて前に進むことだけだよ。天守から核を譲り受けて…そうすれば、きっと…」
恭子の言葉は力強い。だが、その声には僅かな揺らぎがあるようにも聞こえた。
数日後、二人はついに播磨国・姫路の地に到着した。城下町は、他の地域に比べれば驚くほど清浄な空気を保っていた。異変の影響が全くないわけではないのだろうが、町の中心に聳える白鷺城から放たれる清らかなオーラのようなものが、町の荒廃を食い止めているかのようだ。
人々は不安を抱えながらも、どこか凛とした気高い雰囲気を漂わせている。それはこの地を守る天守・姫路 玲奈への深い信頼と敬愛の念の表れなのかもしれない。
「玲奈様は我ら播磨の民の誇りであり、光そのものじゃ」
「天女様のように美しく、慈愛に満ちたお方だ。この地を脅かす悪意が現れれば、その力でいかなる穢れも浄化されるという」
「お城には『不戦の聖域』と呼ばれる、それはそれは強力な結界が張られておってな。争う心を持つ者はその中では力を失い、自然と心が清められてしまうそうじゃ。故に、姫路城は一度も戦火に見舞われたことがないのだと」
「だが近頃の異変はさすがの玲奈様にとっても尋常ではないらしくてな…城に籠られ、昼夜を問わず祈りを捧げ、結界の力を高めてこの地を守ってくださっておる。我々には、ただただ玲奈様の御身を案じて無事を祈ることしかできん…」
玲奈は力で異変に対抗するのではなく、その清浄な力で「守り」そして「浄化」することでこの危機を乗り越えようとしているらしい。その在り方は、武の剛・策の桔梗とは全く異なる、独自の強さを示していた。
和真たちは白鷺城へと向かった。丘の上に聳え立つその城は、まさに「白鷺」の名にふさわしい純白の輝きを放っていた。幾重にも優美に重なり合う屋根、複雑かつ精緻に組み上げられた連立式の天守閣、そして白漆喰で塗り固められた美しい壁。日本の城郭建築の粋を集めたかのような、完璧なまでの造形美。
その息を呑むほどの美しさは同時に、近寄りがたいほどの神聖さと侵入者を拒む絶対的な守護の意志をも感じさせた。城全体が強力で清浄なエネルギーの結界に覆われているのだ。その結界に触れるだけで心の中の雑念や悪意が洗い流され、少しでもこの聖域を汚そうとする意志があれば瞬時に弾き返されてしまいそうな、厳かな圧力を感じる。
城門の前には白い清浄な衣を纏った巫女たちが武器を持たずに立っていた。彼女たちの表情は穏やかだが、その瞳には城と主を守るという揺るぎない決意が宿っている。
「止まりなさい」
先頭に立つ巫女が、透き通るような声で言った。
「ここは玲奈様が守りし聖域。その清浄を乱すおつもりならば、お引き取りを。如何なる理由があろうとも、玲奈様のお許しなくこの結界を越えることは叶いませぬ」
物理的な威圧感はない。だが、その言葉には絶対的な拒絶の響きがあった。恭子が犬山城の天守であることを告げても、彼女たちの態度は変わらない。
「犬山の天守様であっても、我らが主のお考えが変わることはございません。玲奈様は今、世界の歪みを正すため全霊を込めて祈りを捧げておられます。どうかその妨げとなりませんよう…」
力ずくでの突破は不可能。かといって、説得も通用しそうにない。どうすれば…。
和真は考えた。玲奈は「不戦」を重んじる。ならば敵意や要求ではなく、自分たちの内なる「想い」そのものを伝えるしかないのではないか? 世界を救いたい、異変を止めたいという、純粋な願いを。
和真は一歩前に出ると、目を閉じて意識を集中させた。【解析】スキルで城を覆う巨大な結界の構造、その清浄なエネルギーの流れ、そしてその根源にある玲奈の「守りたい」という強い意志を感じ取る。それはどこまでも清らかで力強く、しかし世界の異変に対する深い悲しみを帯びた守護のエネルギーだった。
(凄い力だ…清浄すぎて、俺なんかが触れたら弾き飛ばされそうだ…でも、完全に閉ざされているわけじゃない。心の奥底で助けを求めているような、微かな揺らぎも感じる…)
和真は次に【構築】スキルを発動した。だが、それは物質を作り出すためではない。自身の心の中にある、「世界を救いたい」「異変を止めたい」という切実な願い、これまでの旅で託された天守たちの想い、そして目の前の玲奈の悲しみに寄り添いたいという共感…それら全ての純粋な感情を一つの祈りの波長として練り上げ、結界へと向けてそっと放った。それは攻撃ではなく、共鳴を求める呼びかけだった。
和真が放った祈りの波長が白鷺城の結界に触れた瞬間、奇跡が起こった。結界全体が柔らかな虹色の光を放ち、心地よい鈴の音のような響きを発したのだ。そして、まるで夜明けの空が白むように目の前の結界の一部がゆっくりと薄れ、城へと続く光り輝く道が現れた。
「…! 結界が…自ら道を…?」
巫女たちが驚きと畏敬の念が入り混じった表情でその光景を見つめている。
「…玲奈様があなた方の想いを受け入れられたようです。どうぞお進みください。わたくしたちには、もう止める権利はございません」
先頭の巫女が恭しく道を譲った。和真の純粋な祈りが玲奈の心に届き、聖域への扉を開いたのだ。二人は清浄な光と空気に満ちた結界の中へと、厳かな気持ちで足を踏み入れた。
結界の中は外の世界とは隔絶されたかのように、清浄で穏やかな空気に満ちていた。穢れを知らぬ草花が咲き、小鳥たちがさえずる。光の道に案内されるままに進むと、白い玉砂利が敷き詰められた静謐な庭園へと辿り着いた。庭園の中央には水晶のように澄み切った水を湛える池があり、その水面は鏡のように空を映している。その池のほとりに、彼女は静かに座っていた。
白く光沢のある柔らかな衣は、まるで天女の羽衣のようだ。風にそよぐ銀色の長い髪は、月光を編み込んだかのように神秘的な輝きを放っている。透き通るように白い肌、深く澄んだ慈愛に満ちた瞳。人間とは思えないほどの神々しいまでの美しさがそこにあった。だが、それは決して近寄りがたい冷たさではない。むしろ万物を包み込むような、温かく、そしてどこか儚げな優しさを感じさせる。しかし同時に、その穏やかな表情の奥には世界の歪みを憂い、守るべきものを断固として守り抜くという鋼のように強い意志の光も宿っていた。姫路城の天守、姫路玲奈だ。
「ようこそおいでくださいました。異邦の若者、相良和真殿。そして犬山の天守、恭子殿」
玲奈はゆっくりと立ち上がると優雅に一礼した。その声は清らかな鈴の音のように心地よく響く。
「わたくしの結界を越えられたこと、見事です。あなた方の心の内にある純粋な願いと、世界を憂う誠実な想いの響き…それがわたくしの守りに届きました」
玲奈の言葉は、和真が結界に放った「祈り」が確かに届いていたことを示していた。
「あなたが、姫路玲奈さん…」
「はい。この白鷺城と播磨の地を守る玲奈と申します」玲奈は穏やかに微笑んだ。
「あなた方が天守核を求めて、長く、厳しい旅を続けてこられたこと…そしてその過程で多くの葛藤を抱え、それでもなお世界の調和を願う心を失っていないこと…わたくしには手に取るように分かります」
全てを見通しているかのような玲奈の言葉に、和真は息を呑んだ。この人の前ではどんな嘘も通用しないのかもしれない。
「ですが」
玲奈はその澄んだ瞳で和真の心の奥底を見つめるように言った。
「わたくしの核もまた、この地を、そして苦しむ人々を守るための最後の砦。特に世界の歪みがこれほどまでに深まっている今この力を手放すことは、この聖域を無防備に晒すことに他なりません」
その言葉はやんわりと、しかし明確に核の譲渡を拒否しているように聞こえた。
「それでもあなた方が核を求めると言うのなら…」
玲奈の表情が、穏やかながらも厳しさを帯びる。
「あなた方の魂が真に世界を救う覚悟と輝きを持っているのかどうか…この『心の迷宮』で試させていただきましょう」
玲奈がそっと手をかざすと、周囲の景色が再び歪み始めた。美しい庭園が掻き消え、代わりに複雑に入り組んだ回廊のような空間が現れた。壁も床も天井も、まるで磨かれた鏡のように自分たちの姿を映し出している。
「ここはあなた方の心の奥底を映す場所。目を背けてきた迷い、恐れ、偽り…その全てと向き合っていただきます」
玲奈の声が空間全体から響いてくる。
「わたくしの力は『守護』と『浄化』。この迷宮もまた、あなた方を害するものではありません。ただ真実の己を見つめ、その先にある光…あるいは闇と対峙していただくだけ。さあ、お進みなさい。心の旅の果てに、あなた方が何を見出すのか…見届けさせていただきますわ」
玲奈の声が遠ざかっていく。気づけば隣に恭子の姿はなく、和真は一人でどこまでも続く鏡の回廊に立っていた。壁、床、天井、全てが鏡。そこに映るのは過去、現在、そしてあるいは未来の自分自身の姿。それは玲奈の言う通り、己の心と向き合うための空間だった。
『本当に、お前に世界を救う資格があるのか?』
鏡の中の自分が嘲るように問いかけてくる。
『お前が天守核を集めるから世界は壊れていくのだぞ? お前のその手は、穢れている!』
別の鏡からは、異変に苦しむ人々の姿と共に非難する声が響く。枯れた大地、病に倒れる人々、絶望した顔、顔、顔…。目を背けたくなるような光景が和真の罪悪感を抉る。
『帰りたいのだろう? 全てを捨てて楽になればいい。お前の故郷はここではない。この世界の痛みなど、お前には関係のないことだ』
元の世界での、暖かく平凡で、しかし何よりも代えがたい日常の風景が映し出される。友人とのくだらない会話、家族との食卓、自分の部屋のベッド…。甘美な誘惑の声が、心の隙間に囁きかける。
和真は耳を塞ぎ、目を閉じたくなるのを必死で堪えた。これは試練だ。玲奈は俺の心の弱さを見抜いている。これに打ち勝たなければ、先へは進めない。
回廊の最も奥に、ひときわ大きく歪んだ鏡が現れた。そこに映し出されたのは、弘前で見た幻影よりもさらに鮮明で禍々しい光景だった。
天を焦がす業火の中、漆黒の巨大な城郭が断末魔の叫びと共に崩れ落ちていく。燃え盛る天守閣の上には逆光の中に立つ、巨大な影。それは破壊と支配の権化のようだった。
『…まだ足掻くか、小僧』
何者かの声が、冷徹な響きを持って和真の思考に直接響く。鏡の中には、瞳の奥に底知れぬ闇を宿した男の姿が映っていた。
『お前の葛藤、迷い、全て見えているぞ。所詮お前はどちらも選べぬ半端者よ。ならば我に全てを委ねるがいい。お前の願い、全て叶えてやろう。故郷への帰還も、この世界の新たな秩序もな。必要なのは、ほんの少しの『力』への渇望と我への忠誠だけだ』
その男の言葉は悪魔の囁きのように甘く、そして抗いがたい。自分はテンシュリアを救うことなどできず、結局は全てを失うのかもしれない…。心が絶望の淵へと引きずり込まれそうになる。
(違う…!違う!!)
和真は心の底から叫んだ。ポケットの中の木札を強く握りしめる。恭子の顔が、声が、そしてこれまでの旅で出会った全ての人々の顔が、次々と脳裏に浮かんだ。
(俺は半端者かもしれない! 迷ってばかりかもしれない! でも、それでも! 俺は諦めない!)
そうだ、俺は決めたんだ。元の世界へ帰ることも、この世界を救うことも、どちらも諦めないと。たとえそれがどれほど困難で、矛盾した道だとしても。
(俺は俺の信じる道を行く! お前の甘い言葉には惑わされないぞ!!)
和真の魂からの叫びが迷宮全体に響き渡った。握りしめた木札が力強い光を放つ。その光は和真の迷いを振り払い、謎の男を打ち砕くように広がっていく。鏡の中の男は忌々しげに顔を歪め、そして砂のように掻き消えていった。
荒い息をつきながら和真は顔を上げた。心はまだ震えていたが、瞳には迷いを振り払った確かな決意の光が宿っていた。
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一方、恭子も鏡の回廊を彷徨っていた。彼女の心を映し出す鏡には緑豊かな犬山城の風景と、今はもういない家族や家臣たちの笑顔が映し出された。故郷への愛着と失われたものへの郷愁が胸を締め付ける。
(私が守りたかったもの…そして、これから取り戻すべきもの…)
その感傷を打ち破るかのように、次の鏡に映し出されたのは全く異なる光景だった。力によって統一され、完全な秩序の下に人々が暮らす、壮麗で揺るぎない理想国家の姿。その中心には天守閣が雲を衝くかのようにそびえ立つ、巨大な城のシルエットが見える。
そう、あの城こそが…。
(ああ…! あなた様が目指されたのはこのような輝かしい世界だったのですね…! この異変に満ちたテンシュリアを救済し、絶対的な秩序をもたらす…それこそが真の救い…!)
恭子の心はその理想の輝きに陶酔する。そうだ、これこそが私が人生を賭して成し遂げるべき大義なのだ。この目的のためならばどんな手段も厭わない。たとえそれが誰かを欺き、利用することになったとしても。
『そのためには、あの異邦人の若者は都合の良い駒であろう?』
幻影の中から囁き声が聞こえる。それは恭子の敬愛する先祖の声だった。
(ええ、そうです…)
恭子は心の中で強く頷いた。
(カズマは…あの素直さと異質な力は、使える。彼を上手く手懐けて導きさえすれば、我らの悲願は成就する…!)
これまでの和真との旅の日々が鏡に次々と映し出される。共に笑い、共に戦い、そして恭子が和真に木札を渡した、あの瞬間も。
和真への情など、目的達成のためには切り捨てなければならない。彼はあくまで「駒」。それ以上ではないのだ、と。
『そうだ恭子。それで良い』
先祖の幻影が、厳しくも肯定するように囁く。
『大義のためには非情になる覚悟が必要だ。その若者への僅かな情けなど、お前の偉大なる使命の前には塵芥に等しい』
(分かっています。 我ら一族のため、何があってもこの意志は揺るがない…!)
和真への複雑な感情も、芽生え始めた絆も、全てはこの大義の前では些末なこと。
彼女を取り巻いていた迷いの霧が晴れ、行く手に迷宮の出口を示す強い光が見え始めた。恭子はその光に向かって、迷いなく歩き出した。
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迷宮の出口と思わしき強い光が満ちる場所で、和真と恭子は再会した。和真の表情には苦悩を乗り越えた清々しさが、恭子の表情には何かを振り切ったような硬質な決意の色が浮かんでいた。
「カズマ!」
「キョウコさん! よかった、無事だったんだな!」
二人は互いの無事を確認し合い、安堵の息をついた。心の迷宮での体験は二人を精神的に大きく成長させ、二人の関係性により複雑な陰影をもたらしたようだった。
光が完全に収まり、気づけば二人は再び姫路玲奈がいる清浄な庭園へと戻っていた。玲奈は変わらぬ穏やかな表情で、しかしその瞳には二人の魂の軌跡を深く見つめたかのような、静かで強い光を湛えて二人を見つめている。
「…お帰りなさい。あなた方の心の旅路、しかと見届けさせていただきました」
玲奈の声は穏やかだったが、その視線は恭子に向けられた際、ほんの一瞬だけ憂いを帯びたように見えた。
(犬山の姫君…あなたの心には確かに強い光がある。この若者を思う気持ち、守りたいと願う心…それは真実。けれどその奥底に、あまりにも固く冷たく閉ざされた扉がある。そしてその扉の向こうから漏れ聞こえるのは…古の驕りの影に連なるような、激しく危うい意志の響き…)
玲奈は、恭子の心の深層までは読み取れなかった。彼女の力は他者の秘密を暴くためのものではないからだ。だが恭子の魂が抱える「異質さ」、その目的のためには手段を選ばないかのような強烈な意志の「影」には確かに気づいていた。それは玲奈が最も警戒する、かつて世界を歪めた「驕りの力」と同質の匂いを発していた。
(この娘に核を託すのはあまりにも危険かもしれない…)
一瞬、玲奈の心に強い躊躇いがよぎる。しかし彼女は同時に、恭子の心の中に見えたもう一つの側面…和真に向けられた、戸惑いながらも確かに存在する温かな光や…彼女自身は気づいていないかもしれない、心の葛藤そのものも見ていた。
(光と影は誰の心にも存在する。影があるからこそ、光はより強く輝こうとするのかもしれない。そしてこの異邦の若者の存在が、あるいは彼女の中の光を増して影を打ち消す力となるやもしれぬ…)
玲奈は賭けることにした。恭子の危うさを認識した上で、それでも彼女の中に残る善性や和真との絆がもたらすかもしれない「変化」という可能性に。
玲奈は内心の逡巡を表に出すことなく、再び穏やかな表情に戻ると和真と恭子に向き直った。
「迷い、弱さ、そして内に秘めたる強い意志…それら全てを抱え、それでもなお前へと進もうとする。その複雑さこそが人の魂の輝きなのでしょう」
「あなた方ならば、この歪んだ世界に新たな調和の道を示すことができるのかもしれませんね」
玲奈は祈るように目を閉じて両手を胸の前で合わせた。清浄な白銀の光が溢れ出し、その中心に純白の天守核…姫路城の核が現れる。
「この白鷺の核をあなた方に託します」
玲奈はその核を和真へと差し出した。
「この核は『守護』と『浄化』の至高の力を宿します。ですがその真価を発揮できるのは、常に内なる声に耳を傾け、清らかな心を保ち続ける者だけ」
玲奈の視線が再び恭子に向けられる。その瞳には慈愛と共に、鋭い警告の色が宿っていた。
「どうかその心の輝きを…たとえそれが今は複雑な色をしていたとしても、決して見失わないでくださいまし。その強い意志が真に世界を照らす光となりますように…」
最後の言葉には明らかに重い含みが込められていた。それは恭子の心の「影」を知る者からの切なる祈りであり、道を違えれば容赦しないという無言の牽制でもあった。恭子はその視線を受け止め一瞬だけ表情を硬くしたが、すぐにいつもの笑顔で頷いた。
「ありがとうございます、玲奈さん」
和真は玲奈の言葉の真意までは読み取れなかったが、十一個目の天守核を恭しく受け取った。残る核はあと一つ。
「残るは…出雲・松江ですわね」玲奈は和真が持つ地図に目をやった。
「かの地の天守、松江 志摩殿…彼女は古き水の守り手。その力は水の流れのように捉えどころがありません。そして水鏡のように人の心の最も深い場所…真実も偽りも、善も悪も、等しく映し出すと言われています」
玲奈の言葉は詩的で、どこか予言めいていた。
「あなた方が最後に訪れるにふさわしい相手かもしれませんわね。そこであなた方はこの旅の真の意味と、ご自身の魂が真に求めるものを改めて知ることになるでしょう。…そして、あるいは隠された真実も、その水鏡にはっきりと映し出されるやもしれません」
最後の言葉は再び恭子に向けられたようにも聞こえた。
「さあ、お行きなさい」玲奈は優しく微笑んだ。
「わたくしはこの地に留まり、白鷺の翼で異変の力がこれ以上広がらないように結界を守り続けます。あなた方が真の調和への道を見つけ出すことを心から信じ…そして、見守っておりますわ」
玲奈に見送られ、和真と恭子は清浄な空気に満ちた姫路城を後にした。
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遥か古より、異世界テンシュリアには一つの伝説が語り継がれてきた。
各地に点在する十二人の「天守」が守り継ぐという、神秘的な宝珠「天守核」。その十二個すべてを一箇所に集めた時、所有者のあらゆる願いが叶う、と…。
異世界に迷い込み、故郷への帰還を願う者にとってそれは唯一無二の希望の光。あるいは、叶えたい悲願を持つ者にとっては最後の切り札。多くの者がその伝説を信じ、核を求めようとしてきた。
しかし―――
その伝説は、全くの虚構である。
否、より正確には、ある存在の復活を願う者たちが、気の遠くなるような永い歳月をかけて周到に、そして巧妙に世に流布させてきた甘美なる罠なのだ。
「天守核」と呼ばれる宝珠。それは願いを叶える奇跡の石などではない。
その正体は、かつてこのテンシュリアを力と恐怖で支配しようとし、他の全ての天守たちの祖先によって打ち砕かれた第六天魔王・安土――その強大すぎる力の断片そのもの。
古の英雄たちは安土を完全に滅ぼすことができなかった。彼らは安土の魂と力を十二に分割し、それぞれを核の形に封じ込め、最も信頼のおける十二の家系(後の十二天守)に託したのだ。核を守護し、決して一箇所に集めることのないように、と。
天守たちは核を代々受け継ぎ、自身の守りの力としてきた。だが核の真の由来、その忌まわしい出自とそれが再び一つになった時にもたらされる本当の災厄については、長い年月の間に記憶は風化し、あるいは真実を知る者たちによって意図的に歴史の闇に葬り去られてきた。
故に、誰も気づかない。
十二の天守核が一箇所に集う時、それは願いが叶う奇跡の瞬間などではないことを。
分割された安土の力が再び共鳴し合い、古の封印を内側から破壊し、かの驕れる魔王を、その怨念と共にこの現世に再び呼び覚ますための――禁断の復活の儀式が成就する瞬間であることを。
そして今、その儀式は最終段階を迎えようとしている。
一人は元の世界への帰還という純粋な願いと、この世界を救いたいという誠実な想いの間で葛藤しながらも知らず知らずのうちに破滅への道を開く、心優しき異邦人。
もう一人は古き主への絶対的な忠誠を胸に秘め、巧みに異邦人を導いて着実に計画を遂行する、犬山の娘。
彼女の心に巣食う真の闇の深さに、異邦人の若者はまだ気づいていない。
彼女の笑顔の裏にある冷徹な計算も、その瞳の奥に燃える狂信的なまでの忠誠心も。
残る核は、あと一つ。最後の封印が解かれる時、テンシュリアは真の絶望を知ることになるだろう。
伝説を信じて希望を胸に最後の目的地へと向かう二人の旅は、皮肉にも世界を救うどころか最大の災厄をその手で解き放つための、最終楽章に他ならなかったのである。
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崩壊が加速する世界の中で、西へと向かう和真と恭子の足取りはこれまでのどの時よりも重かった。だが、二人は足を止めなかった。残る天守は出雲・松江の松江志摩ただ一人。そこで最後の核を手に入れれば全てが終わる…あるいは、全てが始まるのだ。
目指すは西の果て、水と幻が支配するという神秘の地。最後の試練が二人を待ち受けていた。




