プロローグ(第一章):境界線の消失
全12章(くらい)、約10万字程度で完結する予定のお話になります。
最後まで飽きない内容になるようがんばりますので応援お願いします☺
物語の完結までは毎日更新を目標にしています…!
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相良 和真の日常は、可もなく不可もない色の薄い水彩画のようなものだった。
大学の講義に出て、友人とくだらない話で笑い、夕方からはコンビニでアルバイト。趣味らしい趣味といえば古地図や古い建造物の写真を眺めることくらいか。
特に城郭には妙に惹かれた。その複雑な構造や歴史的背景を調べるのが数少ない「没頭できる」時間だった。
その日も和真はいつものように古びた城郭の写真集を眺めていた。
石垣の緻密な組み方、天守閣の威容、そしてそれらが纏う長い時間の重み。いつか日本に現存する天守を全て巡ってみたい…そんなささやかな夢想に浸っていた時だった。
ぐにゃり、と視界が歪んだ。
「え…?」
地震かと思ったが揺れているのは自分の感覚だけだった。写真集を持つ手が震え、ページの上に焦点が合わなくなる。インクの染みが滲んで広がるように視界の色が混ざり合い、平衡感覚が急速に失われていく。
激しい眩暈と耳鳴り。まるで強力な磁石に引き寄せられる砂鉄のように、意識がどこか一点に吸い寄せられていく感覚。
「うわっ…!?」
抗う間もなく、体がぐっと沈み込むような…あるいは奈落に突き落とされるような浮遊感に襲われる。声にならない悲鳴が喉の奥でくぐもった。最後に見たのは自室の天井の見慣れた木目が奇妙な渦巻き模様を描いている光景だった。
どれくらいの時間が経ったのか。
意識がゆっくりと浮上してくる。最初に感じたのは湿った土とむせ返るような濃い緑の匂いだった。重い瞼をこじ開ける。視界に飛び込んできたのは見たこともないような巨大なシダ植物の群生、それらを覆い尽くさんばかりに伸びた蔓、そして天を衝くように聳える巨木だった。
「……どこだここ?」
掠れた声が自分のものとは思えなかった。体を起こそうとして全身に鈍い痛みが走る。打撲したような痛みだ。幸い、骨が折れているような感覚はない。
周囲を見渡すが見慣れた自室の風景はどこにもなく、ただただ鬱蒼とした森が広がっているだけだった。空を見上げれば、木々の隙間から覗く空の色が日本のそれよりも僅かに紫がかっているように見える。
混乱する頭で状況を整理しようと試みた。気を失う直前の記憶…視界の歪み、眩暈、浮遊感。あれは何だったのか? 誘拐? いや、それにしては状況が突飛すぎる。まるでフィクションの世界に迷い込んだような…。
「……異世界、とか?」
口に出してみてその陳腐な響きに自嘲気味な笑いが漏れた。
しかし目の前に広がる現実離れした光景は、その荒唐無稽な言葉に奇妙な説得力を持たせていた。服装は最後に着ていたパーカーとジーンズのままだ。ポケットを探ると、いつも入れているスマホと財布、そして家の鍵が入っていた。
スマホを取り出してみる。画面は割れていないが当然のように「圏外」の表示。GPSも機能しない。時計表示は……デタラメな数字が高速で明滅しているだけで、全く役に立たなかった。財布の中身は数千円と学生証。異世界(仮)で日本の通貨や身分証が通用するとは思えない。
「完全に詰んでる…?」
途方に暮れてその場に座り込む。自分が今どこにいるのか、どうしてこんな場所に来てしまったのか、そしてどうすれば元の場所に帰れるのか。何も分からない。不安と心細さが冷たい水のように体の芯から這い上がってくる。
だが、いつまでもこうしているわけにはいかない。少なくともここが安全な場所だという保証はないのだ。何か行動を起こさなければ…。
「まずは…水と、安全な場所の確保か…」
サバイバル知識なんて本やネットで齧った程度しかない。それでも、何もしないよりはマシだろう。立ち上がり、服についた土を払いながら周囲を注意深く観察する。幸いにも近くに小川が流れている音が聞こえた。水の確保はなんとかなりそうだ。
問題はどちらへ向かうべきか。太陽の位置から方角を割り出そうとしたが、密集した木々の葉が邪魔で正確な位置が分からない。ひとまず小川に沿って下流へ向かってみることにした。下流に行けば開けた場所や人里のようなものがあるかもしれない、という淡い期待を抱いて。
数時間歩いただろうか。小川に沿って歩く道は想像以上に険しかった。倒木が行く手を阻み、ぬかるみに足を取られ、鬱蒼と茂るシダや蔓を掻き分けながら進まなければならない。体力はどんどん奪われていく。空腹も感じ始めていた。
「くそっ…道なしかよ…」
目の前に現れたのは深い谷だった。小川は滝となって谷底へ流れ落ちている。幅は10メートルほどだろうか。対岸に渡れれば道が続いているようにも見えるが…もちろん橋などかかっていない。迂回しようにも、左右は切り立った崖が続いているように見えた。
「どうすりゃいいんだ…」
谷底を覗き込む。かなりの高さだ。落ちたら助からないだろう。迂回路を探して崖沿いを歩いてみるが、道はますます険しくなるばかりでとても進めそうにない。
万事休すか…と諦めかけたその時だった。
――ピキン、と頭の中で何かが弾けるような感覚があった。
同時に、目の前の光景に淡い光を放つ線や文字のようなものが重なって見えた。
『対象:谷(亀裂深度 約30m、幅 約12m)』
『対岸との最短距離:11.8m』
『周辺素材:古木(強度 中)、巨大蔓(強度 高・伸長性 低)、岩石(脆い頁岩 多し)』
『提案:対岸の巨木(座標 XXX, YYY)と手前の岩盤(座標 AAA, BBB)を支点とした簡易吊り橋の構築』
『必要素材:長尺の蔓(最低15m)×4本、支点固定用楔材(木製)×8個…』
「な、なんだ…これ…?」
幻覚かと思ったがその情報は妙に具体的で、頭の中にすんなりと入ってくる。まるでゲームの攻略情報が表示されているかのようだ。これが「異世界転生」とやらに付き物の「スキル」というやつなのだろうか?
『スキル【解析】が発動しました』
そんな声のようなものが直接脳内に響いた。驚きながらも、和真は表示された情報に意識を集中する。簡易吊り橋…なるほど。対岸には確かに手頃な太さの巨木があり、こちら側の足元には頑丈そうな岩盤がある。問題は素材だ。
『提案:周辺の巨大蔓を収集。長さが足りない場合、複数本を連結。連結方法は…』
【解析】のスキルはご丁寧にも蔓の効率的な収集場所や安全な編み方まで提案してくれた。半信半疑ながらも、和真は表示に従って周囲に自生している太い蔓を探し始めた。スキルが示した場所には十分な太さと長さを持つ蔓が何本も見つかった。
次に楔を作る必要がある。手頃な木の枝を拾い、これも【解析】スキルで構造的な強度を確認しながら、拾った硬い石で削って先端を尖らせていく。
時間はかかったが、なんとか必要な数の楔と十分な長さと強度を持つ蔓のロープを4本用意することができた。問題はどうやってこのロープを対岸に渡すかだ。
『提案:小型の投石器の構築。素材:Y字型の枝、蔓の切れ端、投擲用の石』
「投石器…スリングか」
子供の頃、遊びで作ったことがある。和真は再び指示に従い、手頃な枝と蔓で簡易なスリングを作り上げた。蔓のロープの先端に重しとなる石をしっかりと結びつけてスリングにセットする。
何度か練習し、狙いを定めて…力いっぱいスリングを振り回す。
「いっけぇぇぇっ!!」
放たれた石付きのロープは放物線を描いて対岸へと飛んでいく。一投目は惜しくも巨木の少し手前に落ちたが、何度か試すうちについにロープが対岸の巨木の太い枝に引っかかった。同じ要領でもう一本のロープも対岸に渡すことに成功する。
そこからはまさに「スキル様々」だった。【解析】が示す最適な固定箇所に楔を打ち込み、蔓のロープを巻き付けて固定する。こちら側の岩盤にも同様にロープを固定する。最後に、足場となる太い蔓を横方向に何本か渡して簡易的な吊り橋を形作っていく。
完成した吊り橋は見た目こそ粗末だったが、【解析】によれば「成人男性一人の体重なら十分支持可能」とのことだった。
「…本当にできちまった」
自分の成し遂げたことに和真自身が一番驚いていた。スキルという超常的な力があったとはいえ、知識と工夫で困難を乗り越えたという達成感が疲労困憊の体にじんわりと広がっていく。
慎重に吊り橋に足を乗せる。ギシギシと頼りない音がしたが、スキルを信じて一歩ずつ進む。谷底からの風が体を煽り、足が竦みそうになるのを必死で堪え、なんとか対岸に渡り切ることができた。
「はぁ…はぁ…助かった…」
対岸の地面に座り込み、大きく息をつく。振り返ると自分が架けた粗末な吊り橋が谷間に架かっている。
その時、背後の茂みから”ガサッ…”と小さな物音がした。
「誰だ!?」
和真は咄嗟に身構えた。この世界には何がいるか分からない。警戒しながら音のした方へ視線を向ける。
茂みから現れたのは一人の少女だった。
歳は和真と同じくらいか少し下だろうか。動きやすそうな、それでいてどこか古風なデザインの服――藍色の袴のようなものに白い小袖。そして肩から斜めにかけられた赤い襷を身に着けている。快活そうな大きな瞳が驚いたように和真を見つめていた。腰には短い刀のようなものを差している。
「……すごい」
少女は和真が架けた吊り橋と和真自身を交互に見比べながら、感嘆の声を漏らした。
「あんな深い谷に、たった一人で橋を架けるなんて…!あなた一体何者?」
その口調は警戒というよりも、純粋な好奇心に満ちているように聞こえた。
「俺は相良和真。しがない大学生…だったんだけど、気づいたらこんな森の中にいて…」
警戒しつつも、和真は正直に自分の状況を説明した。異世界転生だのスキルだのといった部分は流石に伏せたが、道に迷い、谷を渡るために即席で橋を架けたことは話した。
少女は興味深そうに和真の話を聞いていた。
「ふーん、カズマ、ね。私はキョウコ。犬山 恭子って言うの」
恭子と名乗る少女は悪びれる様子もなく自己紹介した。
「それにしても大したもんだよ、カズマの知恵と技術は。普通の旅人じゃ、あの谷を見て諦めるのが関の山だ。ましてや蔓と木だけで橋を架けるなんて聞いたこともない」
恭子は屈託なく笑う。その笑顔に和真の警戒心も少しずつ解けていく。少なくとも、敵意は感じられない。
「キョウコ…さんは、この辺りの人なのか? ここがどういう場所か知ってる?」
藁にもすがる思いで尋ねる。
「まあね。ここはテンシュリアよ。見ての通り古い森や山が多いけど、ちゃんと人の住む街もあるよ」
「テンシュリア…」
聞いたことのない名前だ。やはりここは日本ではない、全く別の世界なのだと和真は改めて認識させられた。
「それで、キョウコさんはなんでこんな森の中に?」
「んー? ちょっと探し物をしててね。そしたらカズマがすごいことやってるのを見かけちゃったってわけ」
恭子は悪戯っぽく笑う。そして真剣な表情になると、和真に向き直った。
「ねえ、カズマ。あなた、もしかして『異邦人』なんじゃない?」
「いほうじん…?」
聞き慣れない言葉に和真は首を傾げる。
「うん。ごく稀に、カズマみたいにテンシュリアじゃない世界から迷い込んでくる人がいるって言い伝えがあるんだ。そういう人たちは、私たちにはない知識や不思議な力を持ってるって…さっきのカズマの橋架け、普通の人間業じゃないよ。もしかして何か特別な『力』を持ってるんじゃない?」
核心を突くような恭子の言葉に和真はドキリとした。スキル【解析】と【構築】のことだ。この少女には、何か見抜く力があるのだろうか。
「…特別な力、と言えるかは分からないけど…。確かに、少しだけ変わったことができるみたいだ」
隠しても仕方がないかもしれない。和真は正直に、物を分析したり簡単なものを作り出したりする力があることを打ち明けた。ただし、それがスキルであることや現代知識との合わせ技であることは伏せて。
「やっぱり!」恭子は目を輝かせた。「すごいじゃない、カズマ! その力があれば…!」
何かに気づいたように恭子は言葉を切った。そして少し考えるような素振りを見せた後、再び口を開いた。
「ねえ、カズマ。あなたに、お願いがあるんだけど」
「お願い?」
「うん。このテンシュリアには古い伝説があるんだ。『天守核』っていう宝珠を12個集めると、どんな願いも叶うって」
天守核…? 初めて聞く単語だ。
「それは各地にいる『天守』と呼ばれる人たちが代々守り継いでる特別な珠なんだ。一つ一つが強い力を持ってるんだけど、12個全てが集まったとき願いが叶うって言われてる」
恭子の声には熱がこもっていた。
「願いが、叶う…?」
和真の心臓がどくりと跳ねた。もしそれが本当なら「元の世界に帰る」という願いも叶えられるかもしれない。
「うん。どんな願いも、だよ。もちろん天守核は簡単に手に入らないけどね。天守たちは、その核を命みたいに大切にしてるから。でも…」
恭子は和真の目をじっと見つめた。
「カズマのその不思議な知恵と力があれば、きっと天守たちを説得したり試練を乗り越えたりできるはずだよ。私だけじゃとても無理だったけど…カズマとなら!」
恭子の提案はあまりにも突飛で、都合が良すぎるように聞こえた。まるで、出来すぎた物語の導入のようだ。罠かもしれない、という疑念も頭をもたげる。
しかし、今の和真には他に頼るアテも元の世界に帰るための具体的な方法もなかった。この「天守核」という伝説が唯一の手がかりになるかもしれないのだ。
「…キョウコさんにも叶えたい願いがあるのか?」
和真が尋ねると恭子は一瞬、遠い目をした。その表情は今までの快活さとは違う、何か影のようなものが差したように見えた。
「うん…。私には、どうしても叶えたい大切な願いがあるの」
その声は先ほどまでとは打って変わって、切実な響きを帯びていた。具体的な内容は語られなかったが、彼女が何か強い想いを抱えていることだけは伝わってきた。
(この子も何かを背負ってるのか…?)
その真剣な眼差しに、和真は少しだけ彼女を信じてみようかという気持ちになった。
「でも、もし12個集められたとしても願い事は一つだけなんだろ? キョウコさんの願いか、俺の願いか…」
和真が最も懸念していた点を口にする。元の世界に帰るという願いは誰にも譲れない。
すると、恭子は先ほどの翳った表情が嘘のようにニパッと笑った。
「なーんだ、そんなこと? 簡単だよ!」
「え?」
「『願い事を二つにする』って願えばいいじゃない!」
あっけらかんとした恭子の答えに和真は拍子抜けした。
「そ、そんなのアリなのか…?」
「アリかナシかはやってみなきゃわかんないでしょ? 少なくとも試してみる価値はあると思うな!」
恭子は自信満々に胸を張る。その根拠のない楽観主義は清々しいほどだった。
(…まあ確かに。それに、いざとなったらドタンバで俺の願いを優先すれば…)
少し後ろめたい考えが頭をよぎったが、今はそれしか方法がないように思えた。この世界で生きていくアテもないのだ。元の世界に帰るチャンスがあるなら、それに賭けるしかない。
「…分かった。キョウコさんを信じるよ。一緒にその天守核ってやつを集めてみよう」
和真が決意を告げると恭子の顔がぱあっと明るくなった。
「本当!? やったー! ありがとうカズマ!」
恭子は満面の笑みで和真の手に自分の手を伸ばしてきた。
「これからよろしくね! 相棒!」
差し出された手は少し小さくて温かかった。和真はその手を、少し戸惑いながらも強く握り返した。その瞬間、二人の間に奇妙な連帯感が生まれたような気がした。
「あ!それでね、言っておかなきゃいけないことがあるんだけど…」
握った手を離すと恭子は思い出したように言った。
「え?」
「私もね、実は『天守』の一人なんだ」
「ええっ!?」
予想外の告白に和真は素っ頓狂な声を上げた。目の前の快活な少女が、伝説に語られる特別な存在だというのか?
恭子は少し照れたように笑いながら懐に手を入れた。
そしてゆっくりと取り出したのは、雞の卵より一回り小さいくらいの、淡い乳白色の光を放つ宝珠だった。表面は滑らかで、内部には複雑な模様のようなものが揺らめいて見える。ただの宝石ではない。不思議なエネルギーを秘めていることは素人の和真にも感じ取れた。
「これが私の『天守核』。犬山城の天守核だよ」
恭子はそれを大切そうに両手で包み込み、和真に見せる。
「これが天守核…。綺麗だな」
和真は思わず息を呑んだ。これが、願いを叶えるという伝説のアイテムの一つ。そして、目の前の少女はその正当な所有者なのだ。
「うん。私たち天守にとって、これは命みたいなものだからね」と恭子は言い、名残惜しそうに天守核を再び懐へと仕舞った。
「だから、私一人じゃどうしようもなかったんだ。他の11個を集めるなんて夢のまた夢だった。でも、カズマがいれば…あなたのその不思議な力があれば、きっと可能になるって思ったの!」
恭子の言葉には先ほどまでの個人的な願いとは別に、天守としての使命感のようなものも含まれているように聞こえた。
(なるほど…だから俺に声をかけてきたのか。彼女自身が天守で、この核を持っているなら伝説の信憑性も少しは上がるか…?)
和真はまだ半信半疑ながらも、恭子がただの案内人ではないことを知り、これから始まる旅の重要性と困難さを改めて認識した。
「私の核とこれから集める11個の核。全部で12個。それが揃ったとき、きっと私たちの願いは叶うよ! 絶対に!」
恭子は力強く拳を握り、決意を新たにするように言った。その瞳には、強い光が宿っていた。和真にはそれが希望の光なのか、あるいは別の何かなのか、まだ判断がつかなかった。
こうして異世界テンシュリアに迷い込んだ大学生・相良和真と、犬山城の天守にして最初の天守核の所有者である少女・犬山恭子の12の、天守核を巡る前途多難な旅が正式に幕を開けた。
和真はまだ知らない。この旅が彼自身とテンシュリア世界の運命を、そして目の前で希望を語る少女の秘めたる想いを、大きく揺り動かしていくことになるということを。
次のお話もお楽しみに!