求めてしまうから
「俺と結婚して欲しい」
そういうと一瞬驚いた後、彼女は小さく笑った。
「それは無理だよね。分かってるでしょ、区切りを付けたかったの?」
そうかもしれないし、そういうことでもない。本当に彼女を好きだったし、結婚して彼女と一生過ごしたいと思う気持ちは本物だった。もちろん半端な気持ちで言った言葉ではない。全てを賭ける気持ちだった。その反面、彼女は受け入れてはくれないだろうとも思っていた。
この言葉で何かが変わってくれないだろうか、そんな儚い願いでもあった。
願い。
そう言ってしまうことが既に区切りをつけるということだったのかもしれない。そしてそれこそが半端な想いなのかも知れなかった。
彼女とはそれを最後に会ってはいない。
滑稽な話だと思う。なぜなら俺は彼女と付き合っていたわけではないのだ。
付き合ってもいない男からの求婚に応える女性など限りなくゼロに近いことだろう。
無謀だと笑われても仕方がないことも重々承知している。
彼女は同じ会社の同僚だった。
自分の方が少し先輩にあたる。部署は違ったからそう話す機会があったわけじゃない。それでも共通の知人の送別会で話す機会があって話をするようになった。
気にはなっていたものの最初はそれほど好きだったわけでもなかったが、二人で食事に行くようになって話を重ねるうちにいつしか心は惹かれていた。
彼女と話すのがたまらなく楽しかった。彼女が笑うのを見たかった。
去年のクリスマスの前にプレゼントを探しにいった。
イヤリングだ。彼女はピアスができないからとイヤリングをしていて、ピアスと比べると可愛いものが少ないと言っていた。だから彼女に似合いそうなイヤリングを探して何時間もあちこちの店を回った。
販売員から「彼女さんにプレゼントですか?」そう声を掛けられる度に、複雑な気持ちで「はい」と答えた。しかし素材の違いはあれデザインの似通ったものが多くて、中々決まらなかった。
ようやく良さそうなデザインの置いている店を見つけ、イヤリングを選び始める。落ち着いた印象の方が良いのか、ポップなデザインのものが良いのか、中々決めきれなかった。あれやこれやと店員さんと話しながら、長い時間をかけて選んだ。店員さん側からすれば、さぞかし優柔不断な男に見えたことだろう。やっとのことで一つを選び出し購入した。
「喜んでもらえるといいですね」そう言ってくれた店員さんに小さくお辞儀した。
イヤリングの入った紙袋を手にして尚、不安に心が疼いた。
彼女は喜んでくれるだろうか? 彼女に似合うだろうか? どんな顔をするだろうか?
そんなことを幾度も繰り返し考えながら、彼女に渡すその日を待った。
クリスマスイブ当日は休日だった。
無人の会社に出社して、彼女の席にプレゼントを置いた。都合もあって直接は会えなかったが、せめてその日に用意した気持ちは伝えたかった。
彼女からのお礼のメールは来たのだが、顔も見られなかったので本当に喜んでくれていたのかどうかは、実際のところ分からなかった。
結局、彼女とはすれ違うばかりでそのまま年を越え、三月になったある日、食事に誘った。
そして無謀なプロポーズをした。
分かっている。彼女には俺に対しての気持ちなど無かった。
勝手な片思いに過ぎないことは分かりきっていたのだ。彼女にしてみれば、ただ単によい先輩後輩としての関係性だったことくらい分かっている。それでも、彼女のことが好きだった。自分の想いを伝えたかった。それが自己満足でしかないと分かっていてもだ。
結局、友人としての彼女さえ失った。
せめてイヤリングを付けた姿くらいは見たかった。
そして間もなく、彼女が別の男と付き合いはじめたと噂で聞いた。
空虚だった。
もしかしたら彼女は他の人間とは違って、自分を理解してくれる女性かもしれない、そんな独りよがりな期待を押し付けていただけだ。彼女を憎むことも、恨むことも、嫌うことも筋違いだと理解はしている。
それでも、ただ、ただ、全身に広がる魂を引き裂かれるような苦痛、孤独と絶望感、そして訪れる虚無感。
心が吐き出しかける悲鳴を必死で歯を食いしばり耐えた。
苦しいのに、辛いのに、結局はたった一人で耐えようとする。
否、耐える事しか知らないのだ。
苦しみを吐き出して、全部打ち捨てて、かなぐり捨てて、彼女を憎んで、嫌って、気に入らないもの全部ぶち壊してしまえばいい。
だってそうだろう、自分を受け入れてくれる場所などどこにも無い。
どんなに規律正しくとも、真面目であろうと、誰かの為を思おうと、誰も俺など必要だとは言ってくれない。
憐れ、惨め、滑稽、嘲笑、誰とも知れない影たちの囁きが耳朶を打つ。
自分は何故生きている?
居ても居なくても、この世界は何も変わらないのではないか?
いっその事、俺を受け入れない全てを壊してしまえばいいじゃないか。
誰もがどうせ上っ面で接している。
心配する振りをして本音では見下し、嘲り、罵っている。
嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘
嘘で塗り固められた全部砕けて泣き喚け、泣き叫べ、死んでしまえ。
死んでしまえ。
この世界に傷跡を残せたなら、どんな形であれ自分にも価値があるのではないのか?
誰もが忘れることの出来ない傷を残せたら、それが例え恨みや憎しみでも、自分の方を見てくれるのではないのだろうか?
気付いてくれるのではないだろうか?
そうすることが出来たなら、もっと楽なのかもしれないのに。
実際には、僅かにでもそういう考えの過ぎる自分は、愚かで下らない下卑た生き物のように思えた。
涙が止まらない。
痛みが、苦しさが止まらない。
自分が嫌だ。汚らしい。汚らわしい。
これまで誰より高潔に生きてきたつもりだったのに、反して心が腐っていく。
高潔を気取らない人間のほうが輝いている。
なんだこれは?
なんで俺はこんなところに居る。
なんで俺は生きている。
何もかも伽藍堂に思えて色々なものの意味を感じられなくなると、全部がどうでもよくなった。
彼女とのことは自分の中にある闇をただ深くし、引き裂き広げた。
振り返れば初めから何も無いことに気付く。
何も無かったのだ。
彼女にとって自分など価値のない人間の一人でしかなかった。
実際は、己の世界には何ら変化も起きていないのに、さも変化が起きているように感じ浮かれていただけだ。
己の全てが過ちだったのだ。
全てが錯覚でしかなかったのだ。
幻想に溺れて現実を見失った。
何もかもが嘘と偽り。
自分も嘘、誰も彼も嘘。
自分を取り巻く全部が嘘。
夢を見ていたに過ぎない。
それだけの事だ。
最初から誰も俺のことなど必要としていない。
最初から誰も俺のことなど見ていない。
最初から誰も俺のことなど知らない。
ただ、それだけのことに過ぎないのに。
きっと
何かを求めてしまうから
生きていることが辛くなるのだ。