豊川の翁
僅か一分後である。
何だかもう馬鹿馬鹿しいし面倒臭いので隆生は関わることを止めて、そのまま蚊帳の外に居ることにした。
狐の突撃をあまねは受け止めた。
というか、抱きとめた。
「もぉぉぉ、流石だよあまねぇぇ、やっぱりお前様の毒舌と天狗風は相変わらずだぁ!」
「そんなことないよ。叶も今回はいい線いってたぞ。でもまだ詰めが甘い」
「次こそは僕が勝つからね!」
「いつでもかかってこい!」
そして天狗と狐は友情を称えるようにガッチリ抱き合った。
呆然とする隆生に気がつくと、あまねが寄ってきて両手で狐を差し出した。
「隆生、紹介するよ、この子は叶だ。友達だ!」
「え? 初めて来たんじゃないのか、ここ」
「初めてだよ。でもこの叶は豊川の使いで高尾にたまに来るのだよ」
ねっ、と叶稲荷が首を回してあまねにっこり笑った。
「隆生君といったかな、驚かせてしまったね。これは僕とあまねの挨拶のようなものなのさ。残念ながら僕はまだ一度も勝てていないのだけどね。兼ねてより僕は豊川の使いで高尾の福徳に出向くことが多くてね、寺社稲荷の繋がりとか色々あるんだ。まぁとにかく僕らは友達だから安心してくれ、よろしく」
「はぁ…」
差し出された小さな前足を握って返す。勝手にしてくれと思ったが口に出すのは止めておいた。肉球は柔らかいが足の感じは猫よりは犬っぽい。
あまねの手から離れた叶稲荷狐が石畳にちょこんと座った。
「それにしてもお前様が高尾の山から出るなんて一体どうしたのだい? 用向きがあると言っていたが、お前様が出向かなければならないようなことか? それに」
狐は一瞬隆生を見たがすぐにあまねの方を向いた。
あまねは「実はな」と困り顔をした。
「高尾の秋季大祭が近いだろ。手が足りないんだけどお祖父ちゃんは天狗を雇うなんてダメだと言うものでね。豊川の例大祭は確か九月だったろう? だから管を少し借りられないかと相談にやってきたのだ」
狐は首をかしげた。
「管ねぇ、それは多分大丈夫だけど、それだけ? それだけでお前様が出てくるとは不思議なのだが。そもそも天狗は一人前に認められないと結界を……まさか!」
にんまりとあまねは笑った。
「実はそのまさかなんだ!」
「はぅあ、おめでとう!」
狐とあまねはまたも抱き合った。はしゃぐ一人(?)と一匹がやいのやいのするのを隆生は遠巻きに生温かく見守っていた。
「なんだろうねぇ、さっきからやけに騒がしいけれど」
すぐ側で聞こえた声に驚いて足もとを見ると、そこにはまた一匹ふっくらとした顔の狐が隣に並ぶように座っていた。当然ながら返答もできずに、ただ驚きながら狐を見た。狐は隆生を見上げて、あんたなかなかイケメンだね、と言った。
「やあ良い所にきたね融通、この娘が高尾山の十郎坊あまねだよ。ほら、前に話しただろう? 十郎坊翁のお孫さんだ」
叶が足もとの狐に話しかける。足下の狐は「あぁ、あの」と何度か頷いた。
「あなたがねぇ、叶は高尾に使いに出た後はいつもあんたの話ばかりなんだよぅ。一緒に団子を食ったとか天狗焼きを食ったとか、そんなのばっかりだけどねぇ」
「なんだよ、いいじゃないか、お土産だってちゃんと買ってきてるだろ。あ、紹介しておこう、このおばさんは融通稲荷。お金を融通してくれる稲荷として有名なんだ」
「よろしくねぇ。お金に困ったら拝みにおいで、特別に色つけて融通したげるよ。特にお兄さんはイケメンだしねぇ」
融通稲荷は隆生を見上げて口許に前足を当てて笑った。
「それはどうも……」
狐が話をしているだけでもおかしな状況である。にも関わらずあまりに普通に繰り広げられているやり取りに飲まれている自分に気付くと隆生は混乱してきた。
「ところであまね、君は一体なんなんだ? 彼らはなんだ? この状況はなんだ? 分からなくなってきた。説明してもらえるか?」
あまねは呆れたように腰に手を当てた。
「今更何だ? 君はわたしの話を聞いていなかったのか? 何度も言っているじゃないか、わたしは天狗だって。それから彼らはこの豊川稲荷に住まう神使の稲荷狐だよ。なんだその顔は、間が抜けているぞ」
余計なお世話である。
「君は経験したものしか信じられないタイプなのだな。人間の知る世界というのは総じた世界の中の一部でしかないのだぞ。知らぬもの、理解できないものに理屈を付けようなどとするから混乱するんだ。ありのままをそのまま受け入れなければ本質は見えないぞ。君の知る狐は話したりしないのだろ? だが彼らは話が出来る。彼らはただの動物ではなく神使だからだ。そしてわたしは天狗。わかった?」
理解には遠い。だが事実そこにいる狐達は先ほどから嫌というほど饒舌に話している。夢や幻覚の類でもない。ありのまま全てを納得した訳ではないけれど隆生は頷いた。もうそうするしかなかったというのが正直なところである。
「分かればよろしい」
あまねは満足そうに頷くと叶に尋ねた。
「ところで話は戻るが、こちらの主神使殿にお会いしたいのだけど何処にいらっしゃるのかな?」
「翁? 何言ってるのさ、さっきからほらずっとそこにいるよ。翁、そういうことらしいけどどうです?」
叶がそう言って上に振り返った。
本殿の屋根の上である。
とんでもなく巨大な狐の頭がそこにあった。
まるで屋根の上に晒された生首のようである。巨大な白狐の頭が億劫そうに屋根の上から我々を見下ろしていた。
「あぁ、聞いていたぜ。十郎坊の孫か。玄耶はどうしている?」
「はい、父は息災にしております。くれぐれも宜しく伝えるようにと託って参りました」
あまねの言葉に巨大な頭は小さく鼻で微笑うようにした。
「そうか、あれには世話になったからな。息災なら何よりだ」
翁と言うくらいだからヨボヨボの爺さんを想像していたのだが、頭だけにしか見えない狐は爺さんどころかぶっきらぼうな兄さんのような軽い話しぶりである。声のドスだけは異常に効いてはいるのだが翁と呼ばれるほどの年齢は感じない。
そんな思考を読んだかのように翁は隆生を静かに睨んだ。
「それにしてもけったいなもんを引き連れてきやがったな。そこのお前、名は?」
巨大な狐の値踏みするような視線に戸惑いながら隆生は名乗った。
「お、小田切隆生です」
「隆生なぁ、お前はなんでここに居る?」
半ば無理矢理ここにいるのに何でも何もあったものではない。出来ることならさっさと普通の生活に戻って履歴書の一枚でも書きたいところだ。
「なんでと言われても、彼女をここまで案内してきただけです。自分でも何でこんな所にいるのか、お邪魔なら帰ります」
むしろ帰りたい。
ふぅんと翁は目を細める。
「まぁ構わねぇよ。お前さんが居たって何も困るこたぁねぇからな。それにここは人間も多い場所だ。いちいち気にしてもしょうがねぇ」
クイと翁は顎を動かした。山門の方から二人の年配女性がやってくる。この辺りの会社の人だろうと思われる制服姿だった。この状況を見たら驚いて大騒ぎになるのではないかと思ったが、その二人はまったく気にすることもなく、御水屋で手を洗い本殿で拝むと茶屋のある方へと歩き去った。あまねとすれ違った一人は小さく微笑んでお辞儀をしていたが、あまね以外の姿は見えていないらしい。
「全然気が付かない、見えていない? じゃあ何で俺には皆が見えているんだ?」
これまで幽霊なんてものも一度だって見たこともないのだから、霊感なんてある訳が無い。しかし、隆生には狐たちが見えている。
「まぁ普通は見えねぇんだがな、普通は」
そう言って翁はあまねの方を見た。彼女は小さく微笑んだ。
「ところで翁、あまねは管を借りたいようなんですが、どうします?」
叶が尻尾をぶんぶんしながら尋ねた。
それなんだがなぁ、と翁は困ったように呟く。
「実はつい先日珍しく太郎坊のとこの栄術が来てな。そん時に――」
「ちょっ、ちょっと待って翁。太郎坊の栄術様ですって? なんですかそれ、僕それ聞いてない! いつどこで、何でそうなるっ! 説明して下さい!」
栄術という名を聞いた途端、只でさえ白い白狐の顔は更に蒼白になった。
「そう騒ぐな。お前がどこぞに出かけて留守だったんだから仕方ねぇだろ」
「どこぞって、翁が本部召集に応じないから、わざわざ僕が愛知くんだりまで代理として行ってきたんじゃないないですか! それをなんという言い草! 自分には関係ないみたいな言い方しちゃって!」
ありえない! と叶は振り返って融通稲荷を睨む。
「ちょっと、知っていたなら教えてよ融通もさ」
「だって訊かれなかったしねぇ。それにほら栄術様なんて恐れ多いだろ?」
融通稲荷はのほほんと答える。
「恐れ多いからじゃないか。ちゃんとおもてなしもしないで、ご挨拶状だって出さないといけないじゃないか。それに――」
「なぁ叶よぉ。ちっと真面目すぎやしねぇか? 挨拶状なんざ別にいいじゃねぇか、そもそもあいつが勝手にふらっとやって来やがったんだ。ちゃんと俺様が相手もしてやったんだから失礼もなにもねぇだろうが」
しかしですねぇ、と叶はまだ納得していないようだった。
隆生には彼らの話がとんと分からなかったので、小声で尋ねた。
「なぁあまね。さっきから話してるエイジュツ? って偉い狐か何かなのか?」
問いかけに、あまねは違う違うとぶんぶん手を振った。
「太郎坊というのは狐ではなく天狗だよ。しかも英術様と言うのは天狗の中でも八大天狗に数えられる太郎坊家の長の名前だ。天狗の中でも絶大な力を持つ方なのだよ。ウチの十郎坊というのは初代・太郎坊様の弟子の一人である初代十郎坊の流れを汲んでいる。言うなれば太郎坊家は天狗のエリートの家系だな。神使とはいえ稲荷狐とは雲泥の霊格だから叶はそれで驚いているのだ。そうだなぁ、人間だったらどうなんだろうなぁ、あえて例えるならロイヤルファミリーがふらっとお店にやってきたようなものか?」
「ロイヤルファミリー…」
日本で言うならば天皇家みたいなものだろうか?
何にしてもとんでもない。
そんなのがいきなりやってくるのを考えると叶稲荷の様子にも頷ける。にも関わらず動じないどころか対等らしい発言をしている翁は相当な傑物なのだろう。
そして意外だったが、あまねは思いの他現代の知識について明るいようだ。そう言うと「テレビがあるからな」と得意げだった。どうやら単にテレビっ子のようである。
「それでだ。全国の愛宕社回りをしているとかなんとか言ってふらっとやってきてな。恐らくすぐそこの愛宕山に寄ったんだろうさ、どこだか忘れたが、東北土産の地酒を持参したから飲みましょうと言うもんだから、そりゃ飲むだろ。ところが叶はいねぇし、融通は出て来やしねぇ。他の連中も出てこねぇから給仕代わりに管を使ったんだが、栄術が妙に気に入って持ってっちまったんだよな」
「持ってったですって? 管を? 聞いてませんよそんな話!」
「今言ったんだからそうだろうな」
翁は目を背けてあさっての方を向いて言った。
「だから今ここに管は無ぇ」
すまねぇな玄耶の娘、と翁は目を閉じた。あまねではなく叶がそれに反応した。
「管は無ぇって、なんです?」
「そのまんまの意味だろうが」
「まさか全部ってことはないですよね?」
「全部、だな」
何事でもない風の翁の態度に呆気にとられた叶が、わなわなと震えだし、叫んだ。
「お、翁ぁぁぁぁぁ、一体なにしてるんですか!」
叶はどこからか取り出した巻物をずららっと広げてびしびし叩いた。
「十郎坊に貸すとかそれ以前の問題じゃないですか! 例大祭が終わったからといってまだ処理中でしょう、十月頭とはいえ他にも七五三祈祷会、おこもり会、仏舎利供養本山参拝と行事はいくらでもあるし、これから更に年末に向けてやることは多いのはお分かりでしょうが。年末年始の芸能人の初詣なんかはこのところファンの混雑のせいで無くなったりしてますが、それでも参拝客が膨大な数になったでしょうに。処理に二月半ばまでかかったのは覚えていらっしゃいますよね? 管が居てあれなんですよ。一匹二匹ならまだ分かりますが二十匹はいたでしょ、二十匹は! あなたは一体何してくれてるんですか!」
「ガミガミうるせぇなぁ。仕方ねぇだろうが、俺も久々でかなり呑んじまったんだからよぉ。そりゃ気も大きくなるってもんだろうが」
「なんですかその見栄っ張りのダメ人間のような体たらくは! いいですか翁、あなたはまがりなりにも豊川ダキニ眞天様に通づる偉大な大稲荷狐なのですよ! 今日という今日は無礼を承知で言わせて頂きますけどね、そもそも翁は自覚というものが足りないのですよ。いや、足りないのではなく薄れておいでだ! この間だって剣神社の水木稲荷が土産に持って来てくれた『竹田の油揚げ』をこっそり全部食べちゃいましたよね。翁が我々より遥かに永く偉大な狐として重要なお役目をなさっていらっしゃるのは承知してはおりますが、盗み食いだなんだと、あまりにもみみっちい!」
「分ぁかった分かった、そう喚くな、頭に響く。そんなに怒るなよ、七五三は分かるが以前より数も減ってるし、おこもり会は人間が勝手にやってるんだ、やらせときゃいいだろ。仏舎利供養にしたって本来は本山がやるこったろう。そんなに目くじら立てなくてもいいじゃねぇか。しかも油揚げについてはもう済んだだろうが、散々説教垂れただろうがよ。そもそも管なら年末までに何とか増えるだろ」
「そういう問題ではないでしょう! 世間じゃ管は勝手にわらわら増えると思っているみたいですけどね、増えりゃいいってもんじゃないでしょ! 特に神使のお使いには教育時間だってかかるんですよ、どっかからものをかっぱらってくる訳じゃないんですから!」
これまでの鬱憤が炸裂してしまったらしい説教は止まることを知らない。
しかし、そんな叶を尻目に翁は口を半開きで聞き流している。しばらく怒涛の説教が続き、馬の耳に念仏状態の翁の様子に諦めた叶はへたり込んだ。
大あくびを一つして漸く翁は本題へと戻ってきた。
「というわけでな、今ここには管がねぇから貸しようがねぇ。他に扱ってるといやぁ千葉の鹿野山神野寺か飯綱寺、栃木の日光山輪王寺、あとは本家長野の飯綱山だが、時期が時期だから何処もしぶるかもしれねぇ」
それではお手上げである。思いの外、あまねは黙って聞いている。翁は話を続けた。
「とはいえ折角玄耶の娘が来たんだ、無下にもしたくねぇ。それで思い出したんだがな。夏前だったか飯縄を二つ三つ貸したとこがある。ここからそう遠い場所でもない。そこに行って受け取ってくりゃ、そのままそいつをお前さんに貸してやろう。そんなら大した手間でもねぇだろ、どうだ?」
実際にものが無いなら選択肢はないだろう。
当のあまねはそれほど困った様子も見せていない。
むしろ楽しそうに見えるくらいだ。
「分かりました、ではそちらに伺うことにする。どこですかそれは」
「王子稲荷だ」
そう翁は言った。