人は噓もつくからな
「隆生! これ、おいしい!」
自称・天狗のあまねは隆生の後ろについて歩きながら、駅前で配られていた新商品の黒蜜抹茶豆乳(くずもち入り)を飲んでいる。見た目の年齢とはどうも比例していないようなはしゃぎ方は、本当に都会を知らずにいる純朴な娘か、はたまた只の幼児にさえ見えないでもない。
「そりゃあよかったです」
本人曰く、新宿には出てきたばかりで地元の高尾山周辺しか知らない、のだそうだ。
今時少し離れているとはいえ、高尾ほどの距離で都心部に出てこない人など居るとは思えなかった。きっと彼女の脳内設定なのだろうと思うことにしたが、それにしたって辺りをキョロキョロ見てはいちいち興味を惹かれるのか、あれは何だ、これは何だと質問だらけだ。しかも、彼女の一喜一憂には演技のようには見え難い部分もある。これで演技ならかなり役者の素質があるように思えた。
彼女はそうやってふらふらと動き回るから、気を抜けば人ごみに紛れて見失いそうになる。それならそれでも良いし、いっそそのまま逃げ出そうか、と思うどころか実際に何度か試したのだが、驚くべきことにあっという間に捕まった。彼女は恐ろしいほど足が速いのだ。最初の時の瞬間移動にさえ見えた動きも彼女の俊足の成せる業なのかもしれなかった。
半ばどうにでもなれといった諦観があった。どうせ逃げられない。なまじ時間はあるというのが隆生には恨めしかった。
とりあえずは彼女を刺激することなくやり過ごそうという結論に達し、彼女の目的地そこまで行けば開放されるはずだ、と腹をくくった。
「ちょっと隆生、待ってよ。君はわたしの道案内なのだから置いていっては困るのだぞ」
「はいはい」と立ち止まって彼女を待った。どうせ逃げても追いつかれるというのにだ。
「そうそう、それでいい」
彼女は満足そうだった。
「それで、天狗様は何しに豊川稲荷に?」
「あまねでいいぞ」
先刻、道案内にあたって行く先を訊くと豊川稲荷に行きたいのだと言った。豊川稲荷といえば赤坂にある有名な稲荷である。確か愛知に本院があるのだとか、実際に行ったことはなかったがテレビで観た記憶があった。
「管を借りに行くのだよ」
「くだ?」
「そう、管狐といって、これくらいの筒に入った小さな狐の眷属のことだ」
あまねは両手の人差し指で二十センチほどの幅を示した。これについては隆生も知っていた。
竹筒に入った小さな狐のようなものである。
主人の命令に従って様々な物を取ってくるので、管狐を使う家は栄えるが、管狐は大食いの上にみるみる増えるのだそうで、結局その家は増えた管狐に食い潰されてしまうらしい。
使役する家は『くだもち』とか『くだ屋』とか呼ばれて忌み嫌われた、という話もある。
そんな物騒なものを取りに行くのかと訊いた。
「管狐自体に物騒なことは何もないよ、ようは使い方次第ということだ。彼らはよく働いてくれるからとても助かるのだぞ。実は、高尾の秋季大祭が間近なのだが手が足りなくてね。本当なら、神通力の使える天狗をどこかの山から雇ったほうが色々と効率がよいのだが、祖父が一向に首を縦に振らない」
天狗って雇えるのか……。現代に馴染んでいるらしい妖怪変化のイメージのギャップに、隆生は驚きとも残念ともいえる気持ちになった。
「それにしても、稲荷社と言えばそれこそどこにでもありますよね? なんで豊川稲荷までわざわざ」
「近場の稲荷は大祭の時期が近い。それに高尾にある福徳社は寺社稲荷なのだよ。まぁ根本は神社と同じなのだが、祭神が違っていたりと毛色がやや違っていてね。高尾の薬王院は稲綱大権現をお祀りしていて管狐を使役するのだが、関東は多くオサキを使役することが多いのだ。神奈川、千葉の南部くらいかな、管を使うのは。王子の稲荷がオサキを好まないということもあって豊川も管を使っているのだよ。借りようと思うと、規模も含めて豊川稲荷が一番都合がいいのだ」
「オサキってなんです?」
「オサキは同じく狐の眷属だよ。凡そ管狐と同じだけど筒には入っていない。尾が二股に分かれているので尾裂というんだ。管狐と比べると言うことを聞き難くてね、まぁ単にやんちゃということなのだが、少なくともウチの山では使ってない。む、あそこは!」
何かに気が付いたあまねは、話を放っぽりだして急に駆けた。そこは新宿東口、かのアルタ前である。
「ここテレビで見たことがあるぞ!」
びしっとアルタビジョンを指差し、あまねは目をキラキラさせている。
「見たことあるんですか? 天狗なのに?」
「なにを言っている、テレビはあるぞ。近所のウメちゃん(御歳八十)とよく観るんだ! ここがあの有名な!」
わくわくの止まらない彼女を周囲は好奇の目で見ていた。
それはそうだ、奇抜な人間も多い新宿とはいえ目立つものは目立つ。只でさえ目を惹く天狗コス、その上これだけ元気に大声ではしゃげば、どうしたって好奇の的だ。辺りを見回すとチャラそうなお兄さん方が動き出しそうな気配があるが、あまねの格好を見て躊躇しているようだった。実際のところ黙ってさえいれば、あまねは美人といえる。彼らが声をかけてくるのも時間の問題だろう。からまれて面倒なことになるのも嫌なので、早々にここから立ち去りたかった。
「もういいですか? 豊川稲荷に行くんでしょ? だったら丸の内線に乗りますから」
豊川稲荷の最寄りが赤坂見附であるのは覚えていた。
「おぉそうだった。名残惜しいが止むを得ん」
そうして、あまねを引っ張るように地下へ降りたのだが、降りてからがまた大変だった。地下街のあれこれに反応し、あまねは縦横無尽に駆け回った。いっそそのまま迷子にでもなってくれれば話は早いのだが、不思議とちゃんと戻ってくる。まるで帰巣本能の強い犬のようだ。
「東京は地面の下にも街があるのだなぁ、本当に驚きだ。こんなに美味しいものもあるし。まぁ名物・高尾まんじゅうも負けてはいないけどな」
あまねは隆生の知らないうちにクリームどら焼きを購入して、美味そうに食べていた。
「もういいですか…。いきますよ」
よくやく丸の内線に乗ったのは、地下に入ってたっぷり20分は過ぎてのことだった。切符を買ったあまねに付いて改札を通り抜けると、丁度やってきた東京方面へと向かう電車に乗りこんだ。天狗も切符を買うのだなと思った。先刻も普通に買いものをしているところを見ると、ちゃんとお金は持っているようだった。
「天狗なのにお金、持ってるんですね?」
「はぁ? 何を言っているんだ隆生。当たり前じゃないか、現代社会は資本主義経済で成り立ってるのだ。お金がないと何もできないんだぞ。金の切れ目は縁の切れ目とも言うじゃないか」
まさかの正論である。
いやいや、天狗コスとはいえ天狗のわけがないのだから、それは当然だろう。僅かにでも天狗を前提とした考えを持ってしまった自分が変だ、と隆生は苦笑した。
その上でふざけ半分に訊いてみる。
「天狗はどうやって収入を得ているんです?」
「そんなの決まってるじゃないか。お賽銭だ!」
それって賽銭泥棒と一緒じゃないのだろうか? というか、寺か神社か知らないが、お賽銭は管理されているだろうに。隆生はあえて突っ込むのを止めた。
席は空いていなかった。赤坂見附までの距離もそう遠くは無いのでドアの脇に陣取った。
ほんの短い時間だったが、隆生は地下鉄に揺られながら少しだけうつらとした。なんだか妙な倦怠感が全身に広がっていたのだ。昨日は良く寝たはずなのにと思う。
その刹那、ふっと頭の中を女の顔が過ぎった。
泣いている?――誰だっけ?
「都会の電車はみな地面の中を走るのか?」
問われたはずみに意識がハッキリした。あまねはドア窓に張り付くようにしている。
「これは地下鉄ですし。もちろん外を走っているのも沢山ありますよ。まぁ都内は土地もないから地下鉄が多いのも事実ですけど」
ふぅんと窓の外を見るあまねの横顔はやたら綺麗だった。天狗だなんていうぶっ飛んだ発言と服装さえ何とかすれば、本当に目を見張る美人なのだ。
キメの細かな肌は透き通ってさえ見えるし、黒髪の艶も毛先の痛みとは無縁に思える。周囲の人々があまねを遠巻きに見るのは奇抜な服装も一因だが、それ以上に容姿そのものも影響しているだろう。中には何かの撮影かと周囲を見回す人もいる。それくらい目を惹く何かがある。その証拠に誰も自分のことなど気がつかないようにあまねを見ている。目が離せないというのが本当のところなのだろう。
突然あまねが隆生を振り返った。珠のような目に考えを読まれた気がして戸惑う。
「なんだか窮屈だなぁ。真っ暗でなにも見えないし。まぁ高尾もケーブルカーが出来て参拝客が増えた背景もあるから、それぞれに理由もあるんだろうが」
「そうですね」
都会に溢れる施設やインフラは便利で、社会生活に必要なのは理解している。
だが、あまねの言う窮屈もよく分かる。
そんな窮屈が蔓延するこの街の閉塞感は、知らず知らずの内に、人の心にも侵食しているのではないかと思うことがある。だから人は開放感を求め、癒しだなんだと言うのだろう。自分だってそうなのだと隆生は思った。
「あ、ここが隆生の言っていた赤坂見附だな。ほら、降りよう」
窮屈だと言った割に彼女は楽しんでいるようだった。誰よりも先に飛び出していく。
案内図を見て外への出口を探す。どうやらBの出口から出るのが豊川稲荷に近そうだったのでそこを目指す。しばらく地下通路を歩いて外に出た。豊川稲荷は通りに沿って青山方面へと緩い坂を登った先にある。
「都会はどこにでも大きな建物があるんだな」
あまねは腕組みしながら上の方を眺めて歩いていた。そんな姿を見ているだけでも隆生は首が疲れてきそうだった。十分も上を見ていると、首に血栓が出来て危ないと聞いたことがあるなぁと思った。
「あんまり上ばかり向いていると首痛めますよ」
あまねが眉毛を妙に曲げて不機嫌そうにした。
「怒らないでくださいよ。無理にやめろとは言いませんけどね、ただ後で痛いって言っても知りませんよ」
「なぁ隆生さぁ」
「はい?」
「そのなんだ、丁寧語? 敬語? っての嫌いだ」
「はぁ」
「わたしは高尾山の由緒正しき天狗ではあるが、その、ここは高尾山ではないし、君は狐の眷属でもないし、案内役を頼んだのはわたしだからな」
不機嫌だったかと思えば今度は急にしおらしい。詰まるところ、変に気を使わず普通にしろということなのだろう。天狗だなんだと大仰に振舞ってはいるが、案外繊細な奴なのかもしれない。この不思議な娘の妄言に付き合ってみるのも一興かと隆生は考えた。
「分かったよ。丁寧語はやめる、これでいいんだな?」
「あぁ、いいぞ!」
今度は楽しそうに坂を駆け出した。そんな無邪気な姿を見ているとなんだか妙に懐かしい気持ちになった。幼い頃は自分もそうして駆け回っていた気がする。
いつからこれはダメあれはダメ、こうした方がいい、ああすべきだ、そうすべきだ、すべきだすべきだとそんな『つまらない大人』になってしまったのだろう、と隆生は少し淋しく思った。
「なぁ、隆生はいつもなにをしてたんだ?」
振り返ったあまねが訊いてきた。正直に答えるのはいまいちバツが悪かったが、嘘をついたところで然程の意味も無い。
「無職だよ。何もしてない」
「なんで?」
「なんでって。会社を辞めたからだよ」
「なんで辞めたんだ?」
「あそこはさ、俺がいなくたって関係ないからさ」
「そうなのか?」
「そういうもんなの。別にいいじゃないか。色々あるんだよ」
「色々ねぇ。隆生は寂しくないのか?」
「別に、寂しくなんかないさ。むしろ清々してるよ。面倒な客や大して尊敬も出来ない上司に振り回されることもないし、上辺だけの人間関係もない、不規則な生活もなくなった。好きなときに好きなことが出来るからな今は。ゴミを全部捨てた気分だよ。断捨離ってやつさ、スッキリこそすれ寂しいなんてあるはずないさ」
何故こんなことを話しているのか分からなくなった。まるで言い訳である。どうせ何も分からない。適当にのらりくらりと受け流してればいいだけだというのに。
「隆生に家族はいるのか?」
「両親は幼い時に亡くなった。兄弟もいない。まぁ育ての親はいるけどな。遠くにいるしもう大分連絡を取ってないな。だからって別にどうということもない」
そうだ、俺には何もない。だから――
「そっか」
あまねがそう言って小さく微笑んだ。少し淋しそうに見えた。隆生はそれが何だか嫌だった。
「変な同情なんてやめてくれ、別に俺は何も感じちゃいない。その辺の幸せボケした連中よりよっぽどまともに生きてきたし、これからもだ。今は単に少し休憩しているだけなんだからな」
「同情などしないさ、わたしは天狗だからね。人の言葉は聞くが同情などしないよ、それに――」
人は嘘もつくからな
とあまねは小さく笑って見えてきた山門に小走りで駆けた。
「一体なんだってんだ」
隆生は小さく呟いた。