たこ杉
夏も終わりに差しかかった頃だった。
蝉の鳴き声は衰えることを知らず、御山全体に響いていた。
『たこ杉』という杉が高尾山にはある。
樹齢は凡そ四百五十年、その樹高は三十七メートル、目通り幹周囲約六メートルの大木である。
現在は人々に開運のご利益があるとして人気があり、たこ杉にかけて『開運引っ張りだこ』なる像まで置かれている。赤いタコの形をした像は観光客へのマスコット的役割もあるが、実際にはご利益を求めて人々が杉の根に直接触れてしまうことを防ぐ、いわゆる保護の役割もある。
開運の逸話は次のようなものだ。
昔、飯縄大権現参詣の人々のために高尾の天狗衆が参道を整備していた。ところが、四方に根を張った大杉に至ると、整備も困難だということになった。天狗衆らは思案の末、翌朝にこれを引き抜こうということになった。それを知った大杉は、やれ一大事だと一夜にして根をくるくると縮めた。その根の形がたこの足に似ていたことから『たこ杉』と命名されたという。
また別の話もある。高尾山薬王院に、中興の祖とされる俊源大徳という高僧がいた。ある時、水行を終えた俊源大徳が、高尾山に登る道に大きな霊杉が根を張って通行の邪魔をしているのを見た。そこで、俊源大徳は数珠を取り出すと般若心経を唱えた。すると杉は根を丸めて道を開いたのだという。以来道を開いたことに因み、開運の杉とされたという話だ。
しかし、本来は少々違う。
嘗ての参道は整備もされておらず、参拝は困難を極めていた。片や大きな根を持つたこ杉からしても、行く人来る人にその根を踏まれ続ける日々を過ごしていた。
ある時、祖父がたこ杉の霊に相談を受け、それは難儀と手助けを約束した。そして祖父は、その根を参道から離れるように曲げたのだった。
そのうち参道に人の手が入り、道が整備されると、たこ杉はその形状の妙から神聖視されて御神木として祀られた。それ以降はたこ杉も大事にされて現在に至る。
「たこ爺、こんにちは!」
「やぁあまねちゃんかい。元気だねぇ。今日もウメちゃんのところかね?」
霊体である小さなたこ爺は、背を丸めて根っこにちょこんと座っていた。たこ爺は木霊の類である。禿頭に長い白髭を蓄えて茶色の襤褸を纏い、開いているのか閉じているのか分からないつぶらな瞳で、多くのものごとを見てきた高尾の歴史の生き字引でもある。
「うん、テレビは面白いんだ。たこ爺にも見せてあげたいな」
わたしはたこ爺の横にしゃがんだ。するとふぉふぉとたこ爺は笑った。
「わしは動けるわけではないし、人の世のことはようわからんから構わぬよ。こうして時の移り行きに身をゆだねているのも良いものじゃよ。人間は何故あんなにも慌しいのじゃろうなぁ、あれでは世の有様など何も分からないじゃろうに。だけども歌と言ったかな、あれはいい。音というのは実に心地のよいものじゃ。ちいさな人間がよく口にするあれじゃ」
「そうか、じゃあわたしも歌ってあげるよ」
しばらくわたしはそこで歌を歌った。最近テレビで覚えた流行りのバラードである。たこ爺は気持ち良さそうにゆらゆら揺れていた。
そうしていると参道を上がってくる人影が見えた。朝早くから参拝に訪れる人も少なくないので、普段は穏行術で身を隠すのが常なのだが、その時は何となく忘れていて気がついた時には遅かった。
やってきたのは男性だった。リュックを背負って額から流れる汗もそのままである。きっと一号路を登ってきたのだろう、その汗の割に表情に変化は無い。苦しそうにするでも景色に感激するでもなく、無表情にただただ道を進んでいる。
不思議に思い眺めているとその男と目が合った。刹那、氷のように冷たいものが背筋を奔った。
真っ暗だった。
色が無くなってしまったかのような黒である。
そんな目をした人間がやってくることが時折ある。
人生に絶望して彷徨う人々が、最後の救いを求めるように御山にやってくる。
しかし、似てはいるのだが男の目はそれとも少し違って見えた。なにがどうとは答えられないのだけど。
男は目が合うと小さく頭を下げた。立ち止まってたこ杉に手を合わせ、横にある引っ張りだこの像に少しだけ触れると、そのまま参道を登っていった。
「たこ爺、今の人なにか変じゃなかった?」
「そうかのう? 違うか? 人間というのは個を重んじると聞くが、わしにはどれもみな同じに見えるしのう。見目に多少の違いはあるのだろうが、やっとることは凡そ同じではないのかと思うぞ」
「そうかなぁ?」
「どうかのう? わしがそう思うだけのことじゃ。あまねちゃんは自分の感じるものを信じたらいいじゃろ。なにせ天狗様なのじゃ。お前の爺様もまた好き勝手にやっとったぞ、今でこそあの様じゃが、その好き勝手がなければ、わしもこうしていられなかったのじゃからな。何が良く、何が悪いなぞ後にならねば分からんものじゃ」
たこ爺はふぉふぉふぉと笑った。
なんとなく男の様子が気にかかった。それはきっと彼の目を見たときに悲しい気持ちになったからだ。どうして人間は皆あんなに悲しそうなのだろう。
あまねは七十年ほど昔、第二次世界大戦というのを経験した。
山から東京が赤くなるのを見た。高尾にやって来た多くの者たちを見た。
当時の人々の悲しみは深く、激しい痛みと慟哭に充ちていた。あの頃の参拝は戦勝祈願で訪れる者、家族の無事を願う者がほとんどだった。
今は亡くなった祖母が、いつも哀しそうにしていたその横顔を覚えている。
祖母もまた、自分には一体何ができるのか悩んでいたのだと思う。
そんな戦時中の悲惨さを思えば、今は遥かに平穏な日常のはずである。
その頃と比べれば現代の願いは多く他愛もないのだろうが、そういう願いが多い方が良いことなのだと思う。
だからと言って、悲痛な思いを抱く人々がいなくなる訳ではないのも本当だ。テレビを見ると世の中には色々あるのも分かるから、きっとあの頃とは苦しみや悲しみの質が違っているのだろうと思うようになった。
天狗として自分にできることはなんだろうと思う。
そして何かしたいとも思うのだ。
「あまねちゃん、もう行くのかい?」
「うん、たこ爺またね!」
その場所から跳ねて木の上に出ると山頂へ向って跳んだ。
ウメちゃんには後で謝ろうと思いながら、わたしはその男の後を追った。




