■月星暦一五四二年十月⑨〈黒衣のタビス〉
城の正面玄関はこの季節の月の通り道を向くように造られている。
月が昇るのを待って、アトラスはわざわざ騎馬で向かいにある城へ赴いた。
満月に程近い月を背負い、黒衣で黒馬に跨る姿は、強烈に黒衣のタビスを印象付ける。
黒衣の英雄タビス。
その武勇伝は、月星人にとってまだまだ記憶に新しい。
城を護る兵がまともに相手にならないのは明白だった。
タビスとは女神の加護を受けた者――女神の代弁者とされる者である。その行動は女神の意思と刷り込まれている。
月を背負ったアトラスの姿は、正に女神の加護をその身に受けている様に映る。
女神の意志での行動に見えてしまう。
信仰が深い者程、阻む自分の行動に迷いが生じる。
王への忠誠と女神への信仰との間で身動きが取れなくなる。
そうでなくても月星一の剣士と讃えられたことのある人物に、迷いのある剣で立ち向かえようか。
ヴァルムとハイネは、同様に黒一色の装いでフードを目深に被り、アトラスの背後を警戒しつつ後に続く。
神殿から二人、手練れの者が同様の風体で補佐についている為、ヴァルムとハイネには大してやることが無い。牽制として、背後に気を配るのがせいぜいである。
大神官はもっと多くの人数を補佐に付けたかったようだが、アトラスが頑として譲らなかった。
大人数だと『護衛』で通せなくなる。叛意と言われても申し開きが出来ないというのがアトラスの弁である。
実際、しようと思えば出来てしまうのがタビスなのである。
タビスが望みさえすれば、神殿の者は例外なくタビスに付く。
それほど迄の勢力に成り得る。
君主専制国家で王の言葉は絶対のはずだ。
だが、それを揺るがすタビスの姿を目の当たりにして、ハイネは思わず呟く。
「あれが、アトラスなのか……」
「そう。あれが王子アトラス……いや、タビスたるアトラスさ」
応じるヴァルムの声が硬い。
おそらくこの場にて、アトラスの心中を一番正確に理解していたのはヴァルムだっただろう。
味方を期待できない状況で月星人の心理を逆手にとったこの方法が、一番効率良いと判断したのはアトラスだ。
その決断が、彼にとって苦渋の選択だったのをヴァルムは知っている。
以前月星は、二人の王子が王位継承権の正当性を主張して戦乱に至った。
三代の王に渡ったその戦いに終止符を打ったのがアトラスだった。
そのアトラスが、タビスである自分を主張すれば、王たるアウルムとタビスたるアトラスとの間でまた二分してしまう。
ましてや、現王アウルムを除けば一位の王位継承権を持つ人物である。
タビスであるアトラスが王であった方が良いのではないかと、言い出す者は必ずいるのだ。
アウルムの覚えが良くない者などが、アトラスに取り入ってそう仕向けようと働きかけるのは想像に容易い。
タビスを理由に何かを成すことは、アトラスにとって最大の禁忌だった。




