◼️□月星暦一五四二年七月⑰〈白状〉
■アトラス→□ハイネ
【■アトラス→□ハイネ】
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解散後、アトラスはハイネに呼び止められた。
振り返って見たハイネの目は思いのほか真摯だった。
「……飲むか?」
「いいですね」
二人は中庭の一角にある東屋に場所を移した。
アトラスが杯に葡萄酒を注ぐ。
顔を合わせて四半刻の間は、終始無言でただ酒を酌み交わしていた。
※
「……どうして、僕なんかを助けたんだ?」
先に口を開いたハイネの言葉は、問いかけというよりは呟きに近い。
「分かっているのだろう?」
「格好悪いからね」
ハイネは戯けたように、答えてみせた。
「……アトラス、僕はレイナが好きだった」
「ああ」
ハイネが過去形を使ったことには気づいたが、アトラスは黙っていた。
「一番近くに居たし、歳も一番近かった。ブライトの者だし、大人になったら僕のものになると信じて疑わなかった」
「そうか」
「うん。だから、捕えられていた期間――いつ終わるとも知れない中で、言葉を交わすのも操られているのか、怯えてか知らないけど人形の様に機械的な女官だけの、ただ祖父が寄越した本で知識を詰め込むことしかできない日々を狂わずに耐えられたのは、レイナが帰るのを信じていたからだった。レイナだけが支えだった」
酔いが回ったのか、ハイネは饒舌に続ける。
「だけど、やっと帰ってきたレイナは――レオニスの呪縛から自我を取り戻したレイナは、変わり果てた兄よりも、床に倒れた君の姿に取り乱していたね。僕のことは、認識はしていたけど眼中に無かったみたいだった。思えばあの瞬間に僕の中には昏い感情が生まれていたのかも知れない。レオニスから剥がされた魔物は、だから僕を選び、潜んで力を蓄えたのだろうか……」
レオニスが形を喪ったその瞬間に居合わせた者達が抱いた感情は、驚愕と歓喜と安堵がほとんどを占めて居たはずだ。
逃げ込める隙――負の感情を持つ者は限られていただろう。魔物は通常、長く寄生していられず、宿主の負の感情を拡張し、喰らい、力を付けては別の人間へと渡り歩くはずだ。
もし、一年もの間憑かれ続けていたとしたら、それはそれですごいことである。
「レイナにとって、僕は過去だった。幼年期の懐かしい想い出でしかない」
淡々と、ハイネは言葉を紡いだ。
「君は、別に目立とうとか思っているわけではないんだね。その瞬間、自分がすべきと思うことをしただけにすぎないんだ。いつだって」
結果、最善の方法で助けられたのだとハイネは認めた。
かつて『レオニス』と名乗り、この国を陥れた魔物に憑かれたというハイネの失態を、アトラスは雄志に転じたのだと。
元はといえば、ハイネのアトラスへの負の感情がもたらした事態だが、アトラス当人は気にしていない。
素直に魔物を廃せたことを喜び、ハイネに笑いかける。
ハイネもまた、自分の面目を保てたことへの感謝を素直に口にした。
「魔物に憑かれる気分はどうよ?」
秋の空の色に似た、穏やかな瞳が問い返す。
「一種の開放感。麻薬の様なものなんじゃないかな。そのまま溺れていたくなる者が出るのも分かるよ。人格と良識に押し込められた部分を惑うことなく引き出させられる感じだ」
「……お前なら一時の激情がおさまりさえすれば、自らの意志で追い出せただろうけどな」
五年も孤独に耐えてきたのだ。その精神力は決して柔なものであるはずがない。
「褒めていただいて恐縮ですね」
何かを振り払う様にハイネは頭を振った。
「アトラス、僕は何故だかさっきのやりとりが芝居だと、知っている」
ハイネは、静かに切り出した。
「多分、君が『誰』なのかも分かっているんだと思う」
ハイネの微妙な言い回しに、アトラスは片眉を上げるだけで疑問を表した。
「つまり、知るはずもない事を知っているんだ。調べたことも、聞いたこともないのに……」
歯切れの悪いハイネ。自身も、どう言って良いのかよく分からないらしい。
「きっと僕に憑いていたあいつが、忘れていった情報だ」
「そうか……」
アトラスは、大して意外には思わなかった。
魔物は宿主の思考を悪用していた。
憑いた人間の思考を読むことが出来るのなら、その逆も然りである。
「そうかって……、知られたらまずいのだろう?」
「お前は、言いふらすのか?月星の第二王子の秘密をさ」
ハイネが言い淀んでいた事柄を自ら口にし、悪戯っぽく見返すアトラス。
ハイネは、半ばむきになって言い返した。
「しないよ。する訳がない。する理由なんて無い!」
「ならば、問題ない。そうだろう?」
杯を一気に空にして、ハイネは肩で息をついた。
「君が、あの芝居に乗ったのはレイナの為。自分の保身なんて、これっぽっちも考えちゃいないんだ」
「月星は、そのつもりで提示したのだろうけどな」
正しくは、アウルムは。
不在だった期間に理由を付け、アトラスが帰りやすい環境を整えた。
いつでも帰ってこいと、手をさしのべている。
しかし、レイナの為という口実がなければ、アトラスはまだその手を取ることが出来ない。
「でもアトラス。僕は君が、『君』で良かった。君のことを、知ることが出来てよかったと思う」
「なんだよ、いきなり気持ち悪い」
「君が、王女の思い描くような完璧な『英雄』でなくて、痛みも悩みも抱えながら生きている『人間』で良かったと思うからだよ」
そんなアトラスにならば、自分が負けていてもいいとハイネは語る。
「お前は、負けてなんかいないさ」
顔を反らして葡萄酒を仰ぐアトラスの素振りは、照れ隠しだった。
「お前は一度も負けてない。逃げずに前を見据えていられたんだから」
だからハイネのことを、アトラスは買っていた。
□□□
ハイネは首を振った。
アトラスに向けた眼差しには感謝と尊敬があった。
何故だか、今日は飾らずに話せる。
素直に相手を認めることができる。
満月期に入った月の魔力のせいかもしれない。
あるいは、件の剣は魔物だけでなく、ハイネの心の醜い部分をも拭い去ったのかもしれない。
「月星には、お前も行くのだろう?」
「そのつもりだよ」
同行者を選ぶのは女王だ。だが、ハイネは進言すると心に決めていた。
「月星という、君の故郷を見てみたいと、今は切に思うよ」
月に照らされた横顔を見ながら、ハイネはそっと呟いた。
※※※
翌朝、早くにアリアンナは発った。
アリアンナはヴァルムに代わって月星王への報告を持っている。また、アトラスにいくつか『仕込み』を託されていた。
一方ヴァルムは、月の大祭に竜護星国主を案内するという名目で月星まで同行する為、それまでこの国に滞在することになった。
月星は今、初夏。
大祭まで三ヶ月しかない。
第二章 【王女来訪編】 完
第二章 王女来訪編 完
※この国ではハイネは飲酒可能年齢に達しています




