■月星暦1⑨一五四二年七月〈妹〉
夕方、訪ねてきたアリアンナの顔をみて、心配ごとが杞憂で終わらなかったことを知った。
「その様子だと、お茶会は楽しかったみたいだな」
「ええ。面白いお話を沢山聞かせていただいたわ」
「そうか……」
アトラスは溜息をついて、妹を部屋に招き入れた。
王城内ーーとはいえ本宮とは別棟に設けられたアトラスの部屋は、迎賓棟の一部屋である。
アリアンナが滞在している所とは向かい合わせのように建っており、しつらいも見晴らしも悪くはないが、人が住んでいる匂いがしない。
「……戻ってきたばかりなんだよ」
「お兄様は、竜護星には《《戻って》》こられるのね」
アリアンナは嫌味の一つも言いたくなると、溜息をつく。
「何もかも、洗いざらい話してもらうわよ。お兄様」
アリアンナはそう言うと、長椅子に腰をかけ、アトラスと向かい合った。
しかし、先に疑問を投げかけたのはアトラスの方だった。
「どうして、ここに来たのがお前だったんだ?てっきりネウルスの手の者が来ると思っていた」
そして、もう少し時間は稼げると思っていた。
「あら。堅物のネウルスと一緒にしないでいただきたいものだわ」
二人の従兄弟にあたるネウルス・ノワ・クザンの指揮するアトラス再捜索の動きを察知したアリアンナは、独自に調査に動き出したという。
「調べているうちに、暴君の支配下にあった国で月星の青年に連れてこられた王女が革命を起こしたという情報を得たの。私は小さな情報も見逃さないのよ」
その情報を手がかりに、該当する国の見当をつけたのだと、アリアンナは話す。
アトラスは素直に感心した。
「ところで、何故、城を……月星を出たの?」
「……俺のすることは終わったと思ったから」
「何を言って……。お兄様は、アウルム兄様の――陛下の片腕になるべく人でしょうが」
アトラスが出奔したのは、彼らの父、アセルスが亡くなり、アウルムが王位を継承したばかりの大変な時期だった。
王の弟に仕事が無いわけがない。
「この国の人たちに身分を伏せていたのは何故?」
「言わなかったのは、言う必要がなかったから」
「知られると、月星に帰らなきゃならないから」
「訂正できるほどの回答を持っているなら、いちいち訊ねるな!」
無表情を試みるアトラスの顔に刹那浮かんだのは怒り。
アリアンナは狼狽えること無く、アトラスを見つめ返した。
「いろいろ聞いたわ。お兄様の活躍なしで、暴君を倒すことはかなわなかったこと。この国の復興に一役買ったこと。そして、重傷を負ったこと」
「重傷って程じゃないさ。誰が言ったんだ、そんな与太話」
「ええ。大した怪我では無かったと皆さんは思っている様だったわ。でも、判るのよ。タビスは倒れていられないもの。怪我をしていないふりなんでお手のものよね。そのお兄様が数日動けなかったというなら、重傷だったに決まっているわ」
さすがだと、アトラスは内心舌を巻く。
「誰を庇っているの?」
「どうして、そうなるんだ? タビスは倒れていられないと自分で言ったんじゃないか」
しかし、アリアンナは譲らない。
「ここは月星ではないのだもの。タビスの意味も分からない相手の前で取り繕っても意味はないわ。なら、誰かを庇っていると考えた方が自然でしょ」
押し黙るアトラス。
アリアンナはじっと見つめ、やがて口を開いた。
「……解ったわ、レイナを庇っているのね。その傷もレイナの手によるのね?」
「……」
「だって、考えられないもの。お兄様がそんなことで傷を負うこと自体、あり得ないもの。でも、全てレイナの為だったら……」
結局、アリアンナは一人で結論を出してしまった。
「……あいつには、助けられた。恩がある」
「逆でしょう? お兄様が彼女を助け、この国まで連れてきた……」
「……」
アトラスはまた、黙り込む。
アリアンナは溜息をつき、話題を変えた。
「何にしても、今一番気にくわないのは、お兄様が着ているその服よ」
昨夜の様に正装で無くとも、アトラスの装いは黒一色だった。
「黒という色がお兄様にとって何を意味しているか、知らないとでも思っているの?」
『黒衣の剣士』。それは、先の内戦においては月星のタビスと同じ意味で使われる。
つまり、アトラスのことをさす。
「お兄様にとって、黒は戦いの為の色。一体何と戦っているの? 私とか言わないでよ?」
返答はなかった。
ただ、アトラスの口端に薄い笑みが浮かぶ。
「アリアンナ、月星に帰れ」
「いやよ。そう言って、また逃げるのでしょ?」
絶対に連れて帰ると言い張るアリアンナを、アトラスは鋭く睨ねめつける。
「俺は逃げやしない。ただ、竜護星国王の言うようにするさ」
「月星王の要請は、見つけ次第身柄は月星に送れ、だったはずよ」
「だが、今は竜護星に厄介になっている身なんでね」
努めて送る冷たい視線。だがその裏で良心が痛む。
アトラスはそれを振り切るように言った。
「月星に戻れ、命令だ」
「みんな、心配しているのよ。お母様だって、芳しくないのよ。お兄様が見つかったって聞けば、良くなるかもしれないのに」
母である王太后アリアはここのところ伏せ気味であまり表には出てこないという。
アトラスの顔から、鉄面皮が剥がれた。
「原因は?」
「分からないわ。精神的なものだろうと医者は言っているけれど」
アリアンナは、アトラスの記憶に残る母アリアに似てきていた。
「精神的、か。では、俺のせいかも知れないな」
頭を一つ振って、装うのをやめた。
「兄上はお元気か?」
当たり前の会話。
だが、本当はアトラスが一番聞きたかったことである。
「多大な迷惑をかけてしまったことは、解っているんだ」
アリアンナは笑った。手の上で鞠を転がすような笑みをほころばす。
「普通、そういうことは会って最初に聞くものよ」
「そう、だな」
アトラスの形の良い唇に浮かぶ、照れたような笑み。その顔を見たアリアンナにやっと安堵の気配が浮かぶ。
「気になるのなら帰ってくればいいのよ」
アリアンナの空色の瞳は静かにアトラスを見つめる。
「でもね、私も少し解ったの。なぜお兄様がこの国にいたいのかってことが」
「へえ。なんで?」
理由はアトラスにもよく解っていない。だから、聞いてみた。
しかし、アリアンナは教えてくれない。
「アウルム兄様は元気よ」
悪戯っぽい笑みを伴って、いきなり話題を変えるアリアンナ。
「アンブル様や始祖ネートル様に劣らない統治者だって讃えられているわ」
月星王アウルム・ロア・ボレアデス・アンブルは現在二十六歳。
未だ身を固めようとせず、多々いる花嫁候補の父親どもが、取り入られようと躍起になっている状態が続いていた。
やはり、アリアンナは真実を知らない。今の言動からアトラスは確信する。
そして、気がかりがまた一つ増えた。
アトラスの生存の知らせに、王太后アリアは更に気に病むかもしれない。
「アリアンナ、俺は月星に戻りたくない訳じゃないんだ」
不意に、真摯な眼差しを向けられ、アリアンナは戸惑いを見せた。
「判っているわ?」
「そして、一度ちゃんと戻らなきゃいけないのも解っている」
もし、アリアが病んでいる原因がアトラスなのだとしたら、きちんと誤解を解かなければならない。
アウルムにも謝らなければいけない。
そして、次に魔物が現れるとしたら、それは月星。
レオニスも言っていた。
同類が戦場という負の念が染みついた地に在る、と。
「お兄様?」
黙り込んだアトラスを怪訝に見つめる空色の瞳があった。
「無理しなくていいのよ?」
「何を?」
「私が月星に帰って報告すれば、アウルム兄様の方から正式に竜護星へ通達があるでしょう。でも、もし、お兄様がこの国にとどまりたいというなら、私、頼むわ」
うって変わったアリアンナの申し出にアトラスは目を丸くする。
「アリアンナ?」
「解るわよ。ここを離れたくないのでしょ?いえ、正確には……」
最後まで言う必要はなかった。
空を仰いだアトラスは遠い目をした。
「初めは、レイナの為にここを離れてはいけないと思った。何も分からないまま、王という立場を強いられたその責任は少なからず俺にもあったから」
思い起こす一年前。
突きつけられた現実におびえた瞳の少女の背中を押したのは、アトラスだった。
自身は逃げ出したというのに、偉そうなことを言う資格はいったいどこにあったというのか。
「だけど本当は、俺の役目はレイナをこの国へ送り届けた時点で終わっている。分かっている。彼女には彼女の暮らしがあって、この国のことに俺が介入すべきではなかっただろうことも」
「どうして? お兄様の助けがなかったら、竜護星は国として復活できなかったって、ここの人達は感謝しているはず」
「どうかな。少なくともハイネあたりは俺を疎ましく思っていることだろうし、よそ者を受け入れられない連中はどこにでもいる」
アトラスはふいと溜息をついた。
「……しかし、何を言っても、全部言い訳だな」
自嘲気味な笑みを浮かべてアリアンナを見る。
「レイナを連れて旅をした五年間、俺はあいつの保護者だったから、きっと今でもその役目を他の誰かに渡したくないだけなのだろう。あの澄んだ青い瞳が他の者を頼るのを見たくないだけかもしれない」
「莫迦ね」
アリアンナは微笑む。
「他人には譲りたくないという独占欲。お兄様はそれを何と言うのかを知らないのだわ」
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