■月星暦一六〇四年八月⑪〈紡がれた想い〉
クルムと一緒に、紫紺宮に戻ると、サクヤに出迎えられた。
「お帰りなさい」
「……ただいま」
返すクルムの声は固い。
「お風呂の準備、してあるよ?」
「はい。今日はもう、部屋に行きます」
実際、クタクタなのだろう。歩き方に疲労感が滲み出ている。
バンリが、あとを追いかけていった。
「お帰りなさい、アトラス」
改めて見上げてくるサクヤの顔を見て、アトラスは息を吐いた。
「ただいま……」
覆い被さるように、アトラスはサクヤに抱きついた。
「アトラスも、お疲れ様だね」
「実際、疲れたわ。お前の顔を見るとホッとする」
フェルンの領主邸で別れて、三日ぶりである。
クルムを連れていた為、急いでいたとはいえ、それ程無理な旅程は組んでいない。
途中で一泊、アンバルに入る前に一泊し、朝、直接大神殿入りとした。
そこからが、長かった。長い一日だった。
脱衣場に向かうと、当たり前のようにサクヤが付いてきた。
明日も着ることになる葬送用の神官服を、脱いだ横からサクヤが、丁寧に畳んでくれる。
盆の上に並べて運んで行く間に、肌着も脱いでアトラスは風呂場に向かった。
紫紺宮の湯船は、一般的なものよりも大きい。アトラスが四肢を充分伸ばせる大きさがある。
客間の湯船は通常の大きさであるから、特注品なのであろう。
同じような体型をしていたアウルムが、アトラスの為に作らせた拘りが、こういう所にも表れている。
「アトラス、大丈夫?」
脱衣場からサクヤの声がした。
「『大丈夫?』って聞いたら、アトラスは『大丈夫』って答えるよね」と、昔レイナが言っていた。
その上での問いかけ。
サクヤには、見透かされているということだ。
「あんまり、大丈夫じゃないかな」
アトラスは素直に答えた。
気を張っていないと流されてしまう。
まだ、アウルムが亡くなって一年経っていない。
どうしたって、ふとした瞬間に思い出さずにはいられない。
甥のレクスの死は、痛ましく、逝くには早すぎて残念だと思う。
一年以上、顔も合わせられず、扉越しに、張りの無くなっていく声を聞いてきた。
どこかで覚悟もしていたのだろう。
報せを受けた時もとうとうか、と冷静に受け止められた。
薄情なようだが、甥のことは仕事思考《お仕事モード》で、対応出来る。
だが、ふとした瞬間に、前年のアウルムの時のことが重なり、引っ張られてしまう。
老衰だった。
ほんの数日前まで、普通に話していたのだ。
アトラスが『タビス役』として出た、四度目の月の大祭を、見られたことを喜んでいた。
大きな存在だった。
誰よりも恩人だった。
アトラスは、今も、見られているわけでは無いのに、濡れた手で顔を覆っていた。
「昼間のこと、クルムに聞いたよ」
再び、サクヤが声をかけてくる。
「クルムが決めたことなら、わたしは応援する。でも、意外だったわ」
意外というのは、アトラスに向けての言葉。そこには、気遣う色がある。
「アトラスは、それだけはさせたくはないのだと思っていたのに」
「そうだな」
アトラスは湯船の中で伸びをした。
「出来れば、関わらせたくなかったよ」
「まあ、露見したのは、感づいていたわ。わたしのことを、妃殿下と呼ぶ人が出てきたしね」
隠すのも限界だったのでしょうと、サクヤは苦笑を漏らす。
サクヤが『王子妃殿下』でなければ、クルムは『王子殿下』たり得ないからだ。
「出どころは、何処だったのかしら?」
「多分、アウルムだ」
「アウルム様が?」
驚いたサクヤが、風呂場に顔を出した。
「どういうこと?」
「ユリウスの事を報告をした日付けから、お前は俺の妃だった。アウルムの筆跡で、そうしてあった」
「そんな前から?」
『妃殿下』呼びが、されるようになったのは、この一年だとサクヤは首を傾げる。
だから、アトラスも自分の戸籍を確認しようと思ったわけだ。
「恐らくアウルムは、意図的に表沙汰にしなかったのだろうな」
自分の死後、漏れる様にオネスト辺りに手を回していたのだろう。
「どうやって、マイヤに気づかかれずに?」
「方法はある。マイヤが視る前に、さっさと過去にしてしまえばいい」
マイヤが出来るのは『未来視』である。そして、よほどのことでなければ視ようと彼女が思う必要がある。
「待って! あの時、クルムは、生まれてないわ。逆算すればお腹には居たけど、わたしもまだ気付いてさえいなかった」
用意周到が過ぎると、サクヤは指摘する。
アトラスは頷いた。
サクヤを伴侶にすると決めたことは、古文書を調べていた頃にアウルムに話した。その頃から、先手を打っていたのだろう。
「マイヤが言うには、恐らくアウルムにはクルムが視えていた。だから、クルムに至る道を整えていたのだろう、とさ」
「視えてって、未来視ってこと……? アウルム様にも巫覡の素質があったということ?」
首を傾げたサクヤの目に、光が灯る。
「そっか。魔物! お母様のアリア様は巫覡体質だったから、憑かれたんだっけ」
古い話を思い出したらしい。
話が早くて助かる。
「昔、ユリウスがアウルムを治療した時、何かを視せられたんだろう。マイヤのように、常日頃、視えて……視せられていたわけでは無いはずだ」
海風星由来の巫覡の資質は、アシェレスタ《竜護星王家》程強くはなかった。
アウルムとユリウスが目を合わせて悪戯を思い付いたような顔をしていたのを、アトラスは思い出していた。
「でも、なんで?」
自分の孫と、下手をしたら争う構図なるのを、アウルムが読めない筈はない。セーラがなりたがらないのを、踏まえてのクルムなのか。
そうぶつぶつと呟くサクヤに、アトラスが口を挟んだ。
「……ウィリデ、と言ったんだ」
「アンバルの昔の呼び名ね」
「知って? ……マイヤに聞いたのか?」
「いいえ。ライネス様の手記に書いてあったわ」
美術館館長の言葉に、アトラスは一瞬反応が出来なかった。
「書いて、あった……?」
「ライネス様、ひどい悪筆でね」
あれは、読むのに苦労したと、サクヤは肩を竦めた。
「くくっ……。そりゃ、そうか。ははは……」
笑いがこみ上げてきた。
アンバルと言う都市名は、アンブルに因んで改名された呼び名である。
ジェイドの者が、好んで呼ぶ筈が無かった。
「こちらの資料は、アセルスが全部塗りつぶしてくれたものだから、判明しなかったんだよ。ふふ……。そうか。アウルムは手記を読んでいたから、知っていたんだな」
イディールにでも聞けば、簡単に手に入る答えだったかも知れない。
アトラスが、初代とユリウス関連で古文書を調べていたのを知っていながら、アセルスが何を気にして塗りつぶしていたのかを気付いていながら、黙っていたアウルムの周到さには、恐れ入る。
アトラスは、笑いをおさめてサクヤを見つめた。
「サクヤ、ウィリデとは『緑』と言う意味なんだ」
サクヤの目が見開かれた。
「緑……。そういうこと?」
美術館の展示の為に、サクヤはボレアデスの家系図を精査している。
当然、内戦の発端についても、調べ上げている。
「アウルムは気づいていたんだ。バシリッサが遺言をねじ曲げたのが、真実だったのだと。だから、還そうとしたのだろう」
『ジェイドの血筋に、王冠を』
そして、アウルムはクルムに逢った。
さぞ、喜んだのだろうなと思う。こんなことになるなら、ちゃんと会わせてやればよかった。
サクヤが湯船に近づいてきた。
濡れるのも構わず、背中側から湯船越しにアトラスに抱きついてきた。
「あのお兄さんの願いじゃ、アトラスは無碍に出来ないよねぇ」
納得と、苦笑するサクヤの腕に、アトラスは手を乗せた。
「選んだのは、クルムだけどな」
アトラスの、口にしない想いを汲みとってか、サクヤは頬に唇を寄せてきた。
少し、塩の味がしたはずだ。
「じゃあ、わたし達も、精一杯応えないとね」
「もちろんだ! アウルムの紡いだ想いは、俺が必ず支えるさ」
アトラスは力強く、頷いた。




