■月星暦一六〇四年八月⑩〈激励〉
孫達《双子》と別れたその後も、アトラスは弔問に来ている各国の要人との挨拶に廻った。
アトラスがしなければならないことでなくとも、彼がした方が丸く収まることは多々ある。その程度には影響力を持ち、伊達に長生きはしていない。
そんなことをしているうちに、午後はあっという間に終わり、大神殿内の自室に戻ってきた時には、既に日が落ちていた。
上着を脱ぎ、長革靴を神官達が履いているような布製の浅靴に履き替えた。
帯も柔らかい簡易な物に変えて、だいぶ寛いだ装いになると、長椅子に身体を預けて伸びをした。
「さすがに、疲れた……」
思わず、声が漏れた。
紫紺宮には戻らず、今日はもう、酒でも仰いでここで寝てしまうかと考えていると、控え目に扉を叩く音がした。
部屋の外には、帰室を聞いて来たのだろう、クルムがいた。
「どうした?」
「あ、あの……」
クルムは言い淀んだ。
「今頃、自分の言い出したことが、怖くなったか?」
「いえ……」
クルムは妙な顔をしていた。
「中に入って、少し待っていろ」
アトラスは食堂へ行き、二人分の夕食と酒を頼んだ。
持ちますと言う神官を黙らせて、自ら自室に運ぶ。
王の喪に伏す意味合いで、食事内容は全体的に白っぽい。
肉類は入っておらず、だが、魚の練り物は使われている。
アトラスが子供の時分は、魚も禁止食材だった筈だが、いつしか脚が無いからとこじつけて、白身の魚は良いとされるようになっていた。
月星では喪中以外にも、大祭前に潔斎に入る時はこんな食事になり、酒も白葡萄酒になる。
食べ盛りな年頃には、物足りないだろう食事だが、クルムはもそもそと黙って咀嚼した。
話したいことをうまく言い出せないような顔。
クルムの前にも酒を注いで、彼の方から口を開くのを、アトラスは辛抱強く待った。
「……亡くなった王様は、なぜ彼女のことを放っておけたのだろう?」
窓の外に目をやり、クルムはぽつりと言葉にした。
視線の先にあるのは大聖堂。そこには王の棺がある。
「セーラも王妃様も省みずに、女遊びが過ぎた方だったと聞きました」
その口調には、一抹の嫌悪感があった。
健全な少年ならではの潔癖さが、微笑ましかった。
サクヤと籍を入れてないと言った時も、クルムは同じような顔をしていた。
「許されることではないが、レクスの女癖の悪さは、一種の転嫁行動だった。病気と言い換えても良い」
アトラスは、気の毒な甥の名誉回復を、少しばかり手伝ってやることにした。
「晩年は浮名ばかりが先行しているが、実際それで命を落としちゃ世話ないが、別に愚王だったわけじゃない。父王が偉大すぎたんだな」
「セーラのお祖父さん……アウルム、様?」
「そうだ。知っているのか?」
「会いました。五年前。セーラと」
「そうか。会っていたのか……」
アウルムはクルムが何者か、気づいたのだろう。腑に落ちた。
「父さまのお兄さんだと、聞きました」
伺うように、見上げてくる青灰色の瞳と目が合った。
「……アウルムは、兄は、本当に多くに尽力した王だったんだ」
少し、鼻の奥がすんとした。
「レクスには、そんなアウルムが重荷だったのだろう。何をしても比べられる。何をしても越えられない。満たされない自尊心の行き場が、ああなった」
可能性を夢見て、目を煌めかせていた少年時代を、希望を胸に宿して決意を固めた青年時代を、アトラスは知っている。
「それでも! あんなに孤独な娘を、放っておいちゃ、駄目でしょう!!」
「孤独、か。確かにな」
セーラに近づこうとしてきた人間の目には、アトラスも覚えがある。
目の前にいながら、自分を見ていない目。
肩書きにしか興味の無い目。
加えて、手を差し伸べない父親に、自分のことで精一杯の母親とくれば、人間不信になるには充分だろう。
いくらアトラスやアウルムが気にかけようが、心を開ける人間が居たとは言えない。
「セーラは嫌がるだろうが、レクスとセーラはよく似ている。どちらも、自分から抱え込み、助けを求めるのが、下手なんだ」
最初から女神の下で、女王はうまく行かないと、自分で呪いのように思い込んでいる。
それでいて、どうしたいか自分で言えない。「出来ない」以外の言葉が出てこない。
「クルム。俺は王候補としてお前を連れてきたのでは無い。言わずとも、お前は自分で成してしまったが、セーラの婚約者候補として連れてきた」
「え?」
クルムの目が丸くなる。想像していなかったという顔。
「お前なら、その『孤独な魂』に寄り添えると思ったんだよ」
セーラには、一晩王妃とじっくり話し合って決めるように言った。
だが、セーラは断らないだろう。
そういう風に育てられた。
その自由は自分には無いと、してはいけないと信じ込んでいる。
王族に生まれた子供は、確かに過去には外交の道具として使われてきた。有効であったからだ。
だが、人間である以上、感情が伴う。
たった一度の人生、王族だって自由恋愛をしたっていい。
実際、アトラスはそうした。
アウルムに自由に生きよと言われ、レイナを伴侶にと求めた時だけは、公私混同で女神の代弁者たる『タビスの言葉』を行使したと、今なら断言できる。
「実際、お前の言葉はセーラに響いた」
打算の無い、幼い宣言。
偽りの無い想いに触れて、セーラは決して外では見せない筈の涙で応えた。
「自信を持て。お前は誰にも出来なかったことを、既に一つ成したんだから」
にやりと笑って、アトラスは息子を励ました。
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※この世界ではクルムは飲酒可能年齢です




