□月星暦一六〇四年八月⑧〈クルム〉
□セーラ
最後に話をしたのは、いつだっただろう。
最後に姿を見たのは、いつだっただろう。
病に倒れたと聞いて、見舞いに行っても、セーラは父レクスに会わせて貰うことすら、できなかった。
物心がついた時には、父レクスと母フィーネの関係は険悪だった。
城という大きな同じ敷地内に住んではいたが、同じ屋根の下に住んでいた訳では無い。
フィーネとセーラが住んでいた離宮《白亜宮》に、レクスが足を踏み入れた姿を見たことすら、セーラには無かった。
十六歳の誕生日に、赤霄宮を自分の住処にすると良いと、鍵と使用人をくれた。
その位しか思い出らしいものは無い。
レクスは城下に忍んで行っては、花街などにも出入りしていたらしい。
死因はそういう所で伝染される病気だと、人伝に聞いた。
「父は、母にも私にも全く興味が無かったの。ひどい難産だったって言うし、私が生まれたのも奇跡に近いかもね」
思わず、吐き捨てるような口調になってしまった。
「それでも、君が次の王様だって聞いたよ?」
クルムは、いたわる口調で尋ねてきた。
憐れみの口調でないことが、セーラにはありがたかった。
「母は、そうしたがってるわね」
王妃である母フィーネは、セーラを次の王にと望む。
今までお飾りの王妃と言われ、日の目を見なかった意地なのか。
せめて娘はという親心なのか。
「前に話したわね? 月星にいらっしゃるのは、女神様なの」
セーラは昏い瞳で、ため息をついた。
「女神のご機嫌を損ねるから、月星では女王は望まれないのよ」
実の父親に王女として扱われなかったのに、今更だった。
セーラを気にかけてくれたのは、祖父とその弟である大叔父だけ。その祖父も昨年逝ってしまって、もういない。
王が外に作った男子に継がせればと言ったら、非嫡出子には継承権は認められず、その法律を変えるには王の承諾が必要だという。
「大伯父様がなれれば、丸く収まるのに」
一度放棄した権利を回復するにも、王の承諾が必要。
権利の放棄も王の承諾が必要。
法律の改定も王の承諾が必要。
だが、現在は王がいない。
誰かが王にならなければ、何も始まらない。
「何かあったら言われるのよ? だから、女王はって……」
五年前に一度だけ会っただけの相手に。だからこそか、セーラは溜まっていた鬱憤をクルム吐露した。
「何もない事なんて、ある訳ないじゃない! 分かりきっているのに、王様になんてっ!」
「僕が護る」
「なれるわけ無い!」と、続けようとした言葉を、静かな声が遮った。
「セーラ、君の事は僕が護るよ。辛い目になんて、遭わせるものか。何か遭っても、君の代わりに僕が矢面に立つから。僕が君を支えるから」
本人も無意識だろう。
クルムはセーラの両手を握りしめた。
「結婚しよう」
クルムの真摯な青灰色の瞳に、セーラは思わず息を呑んだ。
束ねられて背に落ちた月の色の髪が、風に吹かれてなびいた。柔らかな曲線を描く柳眉に、すっと通った鼻梁。美しい顔に見つめられて、頭が真っ白になる。
眦に熱いものを感じ、セーラは隠すように俯いた。
「……嬉しいわ。クルム」
再び顔を上げたセーラにあるのは、王女としての、痛々しい程に小さな意地。
「でも、私は王女セーラ。セーラ・ウェヌス・ボレアデス。安易な返答は許されないの」
自分の事は周りの大人達が決めるのだと、唇を噛みしめるセーラに、クルムは優しく微笑んだ。
「大丈夫だよ」
クルムは、テラスの方を右手で示した。
丁度、大叔父のアトラスがセーラの母フィーネを伴って、出てきたところだった。
「僕はあの人の息子だから。きっと、父がなんとかしてくれる」
セーラは、クルムとアトラスを何度も見比べた。
その意味を、頭が理解した時には、一度は堪えた涙が、堰を切って溢れた。
「大丈夫だから、セーラ。君はどうしたい? 君の望みを言って」
「クルム……」
セーラはクルムの胸に顔を押しあてた。憚らずに号泣する。
面食らうクルム。
宙を泳いだ腕は、不器用にセーラの背中に回された。
※
「こちらは、うまくまとまったようだ」
二つあるから争う。
ならば、一つにしてしまえば良い。
アトラスは、満足そうに頷いた。




