□月星暦一五九九年十月③〈黄昏と夕方〉
□クルム
「お祖父様ぁ! もう戻られるの?」
本宮から出ようとしている、年配の男性を見つけて、セーラはクルムの手を引いたまま駆け寄った。
「セーラか。宴に飽きたのなら、お前も宮に戻って良いのだよ?」
そこまで言って、祖父と呼ばれた男性は、セーラの後ろにいたクルムに気づいた。
セーラと同じ碧い瞳が見開かれる。
「セーラ、その子は?」
「お城を案内してるの。初めて月星に来たのですって。お父さんが、月星の方なのだそうなの」
セーラの祖父は屈んで、目線をクルムに合わせた。
じっと見つめられてクルムは落ち着かない。
「な、なんでしょう?」
「君の名前は?」
「クルムです。クレプスクルム」
「クレプスクルム……。そうか!」
セーラの祖父は、少年の名を反芻し、皺の刻まれた顔を綻ばせた。
躊躇いがちに抱擁をされてクルムは驚きに固まった。年齢の割にがっちりした身体は誰かを彷彿させた。衣服からは上品な薔薇の香りがする。
「クルム。『黄昏』の名を持つ少年よ。月星にようこそ。セーラと是非、仲良くしてやって欲しい」
優しげに微笑まれて、クルムはぎこちなく頷き返す。
立ち去る祖父の背を眺めながら、セーラはクルムに声をかけてきた。
「あなたの名前、『黄昏』という意味なの?」
「そう、聞いてます。父がつけてくれたそうです」
「お揃いね。わたしの名前は、『夕方』という意味なのよ」
夕刻は女神の時間が始まる刻で、月星ではとても縁起の良い時間なのだとセーラは言うが、クルムにはよく解らない。
続けてクルムはセーラに連れられて、沢山の絵が飾られている部屋を訪れた。
来賓が来るような場所ではない為、城の中とは言え、灯りが灯っていない。
「通称、肖像画の間と言うの」
セーラが持つ角灯の明かりだけでは、自分達の周りしか絵が見られないのが残念だった。
昼間、クルムが連れて行ってもらった美術館のように、素晴らしい絵が沢山飾られているのだろう。
お城にある絵だから、きっともっと凄いのだろう、などとクルムが考えていると、セーラは一枚の絵の前で足を止めた。
「これ、私が一番大好きな絵なのよ」
示された絵には、三人の人物が描かれていた。
真ん中には豪奢な衣装の蜂蜜色の髪の少年。その左側には髪の色は違うが、良く似た顔立ちの少年が黒い衣装を着て立ち、反対側には、華やかな雰囲気の少女が微笑んでいる。
「真ん中が、さっき会ったお祖父様ーーアウルム様。左右はそのご弟妹なの」
クルムの目は、左側の黒衣の少年に吸い寄せられた。
「セーラ、この人……」
「この方はお祖父様の弟君で、お名前はアトラス様」
「アトラス、さま……!?」
その名前が出てきたことに、クルムはごくんとつばを飲み込んだ。
「そうよ。そして、タビスだった方なの」
「タビスだった?」
聞き慣れない単語の微妙な言い回しに、クルムは首を傾げる。
「さっき、神殿での神事は見たかしら?」
「見ました」
「女神に祝詞を奏上するのが『タビス役』で、今回は久しぶりに元タビスのアトラス様ご本人が出てくださっていた、貴重な回だったのよ。運が良かったわね!」
他の人の舞とは一味違うのだと、セーラは何故か、嬉しそうに語る。
「タビスって、特別な神官だって聞いたよ? タビスの役って? 元タビスって?」
「そっか。他の国の人には分からないよね」
セーラはあっと言う顔で頷き、教えてくれた。
月星では月の女神が信じられていること。
女神は月に一度、新月時に隠れてしまうから、補う者がいること。
その者がタビスと呼ばれ、アトラスがそうだったということ。
大祭の神事では『タビス役』が選ばれ、舞を奉納するが、今年は元タビスのアトラスが、タビス『役』として壇上に上がっていたこと。
『タビス』を返還したアトラスが舞を奉納するのは、近年は四年に一度なのだということ……。
セーラは丁寧に説明してくれているのだろうが、そもそも神の概念が解らないクルムには、理解するのが難しかった。
そこでクルムは、ひとつひとつ、自分で解る言葉でセーラに確認することにした。
「女神様に仕える方の総称が、神官であってる?」
「あってるわ」
「タビスって、神官の役職という理解で良い?」
「位は大神官の上をいく、最高位の神官だけど、役職ではないの」
「……?」
いきなりつまづいたが、セーラは教えることが楽しいらしく、付き合ってくれる。
「大神官は、人に選ばれて神官の統率者になる方。タビスは女神様に選ばれて、お生まれになる方なの」
「女神に選ばれるって、タビスは人ではいの?」
「人よ。かつて女神様は、人の中からご自身の代弁者を選ばれたの。タビスに選ばれた方は、生まれながらに『女神の刻印』を宿していらっしゃったの」
アトラスは右腕に持っていたとセーラは語るが、クルムはアトラスの腕にそんなものを見たことはない。
名前が同じだけの、人違いも疑った。
「アトラス様はね、女神の奇跡を体現された特別なタビスで、四十年も歳を取らなかったの。でも、人として生きる為に、自らタビスであることを、その証である刻印を女神に返還されたのですって」
セーラは身内を自慢するような口調でアトラスのことを語る。
「歳を取らないって、そんな莫迦な……」
「クルム。この絵が描かれたのは、六十年以上も前なのよ」
セーラの口調は、至極真面目だった。
キャプションには、描かれた年と三人の名前、歳が刻まれている。
アトラスは先程の高齢の男性とは、四歳しか違わない弟となっている。
逆算して、アトラスの歳が今年七十九歳であることをクルムは知った。
「本当に……?」
四十歳にも満たないような外見で、四十年も前に亡くなった女性を妻と呼び、親子と言っても通りそうな程、外見の離れた女王を娘と言った。
頭は追いつかない。
だが、繋がった。
「この人は今、何をしているの?」
「今回みたいに、大祭の時には、お役目があってもなくても戻ってくるけど、普段は顧問と言うのかしら? 相談を受けたり調停をしたりして、王さまの補佐として、彼方此方飛び回っていると聞くわ」
セーラは顎に手を当てて答える。
「あと、ご息女のいる国にも、よく顔を出されているみたい」
「……竜護星のマイヤ陛下のこと?」
「よく知っているのね!」
セーラは嬉しそうに微笑んだ。
「従祖叔母のマイヤ陛下、あこがれの方なの」
「あっ……」
その言葉に、マイヤの異母弟である自分も、この少女の従祖叔父《親戚》であることをクルムは悟った。
「そういえばあなた、少しお二人に似てるわね」
肖像画とクルムを見比べて、セーラは面白そうな顔をした。指先がクルムの髪に触れる。
「お祖父様は太陽の様な髪色だったそうだけど、あなたの髪は月の色ね」
青味がかった、金髪と呼ぶにはあまりにも色素の薄い髪色を、そんな風に表現する人は今までいなかった。
「綺麗だわ」
そう言って、瞳をキラキラさせるセーラに、目が釘付けになった。
「君の方が綺麗だ」と、口に出せる程の甲斐性は、クルムにはない。
ただうつむいて、礼を述べるのが精一杯だった。
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