■月星暦五四二年七月②〈ただいま〉
港街ファタル。領主ファルタン一族が代々治めるこの街は、竜護星と呼ばれるこの国の玄関に当たる。
漁業と貿易が盛んなこの街は、様々なものを選り分け、ファタルを通らずには人も物品も竜護星に流れることはまず無い。
ファタルの選定を掻い潜って国に入ることを通常は『密入国』と言うのだが、それに当てはまらない例外が存在する。
ファタルを統治下に置く存在、つまり国主の許可を得た者ということになる。
今、まさにその例外がファタルの街の上を通り抜けようとしていた。
その人物は、飛翔する生物の背からファタルの街を見下ろしていた。
一見、伝承にある竜に似ており、体格は長細くしなやかに動く。だが牙もなければ体表面は鱗ですら無い。他に呼びようが無い為、便宜上竜と呼ばれている。
この国が『竜護星』というのも、『竜の護りがある国』という意味だ。
一定の高さを保ちながら、竜は斜面をなぞる様に進む。高さも例えるなら鳥の視線だろうか。
それでも、人の目線を遥かに凌ぐこの高度と速さを進む生き物の背にあって、馬で駆ける程度の風と圧しか感じないのも竜が神聖視されるような謎の生き物である所以である。
青々と被い茂る緑と、勢い良く流れる渓流の上流にある湖のほとりに、首都アセラの街は存在した。
初めてこの風景を見た時と同じく、近付く秋の気配に、刈入れの準備が進められている。
一年前の竜護星では、この、のどかな風景とは裏腹に何かがおかしいという不穏な空気が立ち込めていたものだ。
漠然と、だが確かな異質感。
それは決して気持ちのいいものではなく、触れたくはない禍々しいもののように感じられ、実際その通りだった。
しかし、今は同じ風景が、温かく出迎えている様に見える。
実際に居た期間は半年余りでしか無いのに、帰ってきたという気にさせられる。
「莫迦だよな……」
否定するように、無理に口に出してみる。
あのまま、姿をくらましていても、大して差し障りはなかったはずだ。
本来なら、自分がこんな所にいてはいけないのだだから。
居心地の良さに甘えてしまって良いような立場ではないのだ。
いていい、資格などありはしない。
『なぜ、自ら与えられたものを放棄したがるんだ?』
不意によみがえった言葉に彼は無意識に答えていた。
「自分は、罪を背負いし者だから」
『それを罪と呼ぶのは、お前自身の思いこみではないのか?』
むしろ、肯定し、正当化して褒め称える者の方が多くはないか? と再び『男』の声。
同じ様な問いかけを『彼』とは全く逆の立場の『モノ』からもされたことがあった。
だが、彼としては割り切れない。
やはり、彼にとっては罪であり、人生最大の汚点と言っても良い。
『この先、お前には都合の悪いことが待ち受けていようが、逃げることは許されない』
これは、別れぎわに『男』が言った言葉。
その際の、『彼』の紫の瞳がいやに気の毒そうな色を見せたのが印象に残っている。
だが、これ以上何があるというのか?たかだか二十数年の人生だが、最悪の時はもう過ぎたと思いたい。
「悪いけど、俺は信じない」
目的地に近づき、竜は大きく旋回を始めた。
あまり感傷に浸っている場合ではなかったと我に返る。
彼にしては珍しい位取り乱していた。
そうでなければ、人様の屋敷に入るのに、門を抜けないという事があるだろうか。
この日の見張り役は、突然急降下してきた竜にも、その背から人が飛び降りた事にも充分驚いていた。
どう見ても侵入行為なのだが、そんな風に竜を扱える人物は数える程しかおらず、『アシェレスタ』でなければ、唯一人と言ってよい。
その唯一の例外が、降り立った人物その人だったから、咎める道理がなかった。
「騒がせて、済まない」
その人物は、呆然と立ちすくむ見張りに、律儀に声をかける。
「王は執務室かい?」
「ここよ」
振り向いた先に、ほとんど仁王立ちで、女王は居た。
まだ少女と呼んでも差支えない歳頃の若い女王は、執務室から駆け降りてきたはずだが、息一つ乱していない。
代わって衣服の裾と女性にしては随分短い頭髪が風に吹き乱れ、それが彼女の心情を表しているかのようで傍から見ればちょっとした気迫である。
おろおろする見張りに対し、侵入者は動じない。間髪入れずに用件に入る。
「レイナ、ファタルに入港している船に月星の旗印がついていた。誰が来た?」
「王の妹ですって」
「よりによって、アリアンナか。それで、今は何処に?」
「突然の来訪でこちらの準備が整わないから、今はファタルで足止めよ」
「そうか……」
ここにはまだいないと分かって、安堵の息をつく男。
「いつ頃来る予定だ? 要求は?」
「アトラス、その前に何か言うことは無いの?」
レイナとは苛立ちを隠そうともせずにアトラスを睨め付ける。
「ああ、ただいま」
「それだけ、なの?」
「他にも何かあるのか?」
本気で首を傾げているアトラスに、レイナは深々と溜息をついた。
「突然、調べ物ができたと言って飛び出して約半年。行き先も告げなければ、その間連絡一つ寄越さない。これでも案じていたのよ。腹を立てる位の権利はあると思うのだけど?」
「それはすまない。心配をかけました」
放っておけば、その場で口喧嘩でも始めかねない二人の背後から、くすくすと忍び笑いが漏れた。
地毛なのか白髪なのか、もはや判断のつかない銀髪を一つにまとめた小柄な男性にアトラスが先に気づいた。
「モース」
「お二人とも。お茶の準備を致しますので、中で話されたらいかがでしょうか」
小さな目をさらに細めた穏やかな顔のまま、モース・コル・ブライトがやんわりと促す。
「アトラスさま、お待ちしておりましたよ」
「面倒をかけたみたいだね」
「それは、これからでございますよ」
竜護星一の忠臣は微笑で応じた。
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