■閑話▶月星暦一五九九年九月〈アトラス独白② 美術館〉
●アトラス独白
起きた時には昼を回っていた。
サクヤはとっくに出勤している。
ピタサンドにスープとヨーグルトという軽い食事で済ませて、俺は王立美術館に向かった。
護衛はつけない。
場所を選べば、アンバルは女性が一人でも歩ける街になっている。
「こんにちは、アトラス様」
美術館の入口で女性に声をかけられた。
俺だと判っていながら、物怖じせずに声をかけてくる人間は限られる。
「フィリアか。仕事か?」
「はい。次の企画展の情報を、受け取ってきたところなんですよ」
検問官の彼とはめでたく結婚。居を移し、共に暮らすようになった。
一子をもうけても、出版社勤めを続けている。
情報誌出版社は女性の多い職場である。
出版社の隣には託児所が設けられた。フィリアの案だと聞いている。
「アトラス様は、サクヤさんのお迎えですか?」
「ついでだけどな」
「お時間があるようでしたら、喫茶室の新作ケーキがオススメですよ。濃厚なチョコレートにアプリコットジャムが効いていて、珈琲によく合うんです」
新しい情報はもれなく押さえているのだろう。相変わらず仕事熱心なことである。
「おう。食べてみるよ」
「是非是非ぃ! 絶対気に入りますよ。私は社に戻るので、失礼しますね」
フィリアと別れると、サクヤが苦心して作った、ボレアデスの系譜の展示室にまっすぐ向かった。
ネートルから始まった、木の根の様な家系図。
主根の末端に、セーラの肖像画はまだない。もう少し成長した姿を加えるのだそうだ。
現在、十三歳。栗色の髪に碧い大きな瞳の美しい少女に育った。
内に向きがちな性分は、両親の悪影響としか言えない。
折を見て、俺やアウルムが気にかけていても限度がある。
もう少し親が歩み寄った方が良い。
とはいえ……と、ひとつ上に並ぶ二人の、肖像画に目をやると、ため息が出た。
家系図には、歴代の伴侶の絵も、全てではないが付随している。
並ぶのはレクスとフィーネ。
レクスはもう少し自信を持っていい。
アウルムで霞んでいるだけで、一般的に見れば充分優秀の部類だろう。時代が悪かったとしか言えない。
捌け口に女性を求める悪癖。その方向を、少し娘に向けられないものだろうか。
新婚数ヶ月でレクスと別居した王妃フィーネ。
最初から神経の細そうな女性だとは思っていたが、レクスと結婚して悪化した。
レクスの悪癖だけが理由なのか、夫婦間のことは、外からは分からん。
王妃ならば、もう少し社交的に、王の目が届きにくい貴婦人達の調停役であるべきだが、自分のことで精一杯の彼女では、明らかに手が回っていない。
その上で娘までは、明らかに容量を超えている。
アウルムの時代は、不在の王妃に代わってアリアンナが目を光らせていた。
セーラが担うにも、まだ重いだろう。
現在はモネ、ダフネ、そしてサクヤが協力しあってそれとなく調整し、均衡が保たれている。
その上の代にはアウルム。
若い頃の兄の横にはスールの娘ネブラの絵。
出奔前の俺は、言い寄ってくる女性達の、肩書きばかり見る目に辟易していたが、ネブラの視線は違った。
彼女をアウルムが妃に選んだ時は、素直に祝福できたものだが、結婚生活も僅か六年。亡くすには惜しい女性だった。
ネブラが生きていたら、レクスの在り方もまた違ったかも知れない。
アウルムの次は当然俺だ。
自分の肖像画があるのは仕方がない。長々と書かれた経歴が小っ恥ずかしいだけだ。
隣にレイナの肖像画はあるが、サクヤはない。彼女はどんな気持ちでマイヤが寄贈したレイナの絵を、飾ったのだろうな。
続いてアリアンナとハイネが並び、その上の世代にはアセルスと母アリア。そして叔父のノルテが含まれる。
別軸ではライネスの名前が同じ高さにあった。
アセルス——クソ親父。
当事は本気で『父上の為に』とか思ってたもんな。忌々しい。
アウルムと戦うことにならなかったことだけは、感謝してるけどな。
とはいえ、アセルスが俺にしたことと、俺がクルムにしていることは、何が違う?
親側の合意があるというだけで、クルム側から見れば同じだ。
親の都合に振り回される気持ちを、俺は知っていたのにと、苦いものがこみ上げてくる。
母アリアもまた、アセルスの被害者だとアウルムは言ったが、俺もそう思う。
海風星に戻った後は、穏やかに過ごされて、生涯を閉じたという。
ライネス——実の父上。
今更過去を否定しようとは思わない。もう、事実として受け止めた。
この人とユリウス、そしてアウルムのお陰で現在の俺はあると言っていい。
ちゃんと話してみたかったとは思う。
あとから知り得た情報から察するに、思慮深く目端が利く人物だったようだ。
アウルムと共存共栄出来ていたら面白い相乗効果が得られたような気がする。
ライネスの機転で隠され、名を変えて生き延びた姉のイディールは、自分の人生を幸せだったと断言して、一昨年逝った。
その孫、さっき会ったフィリアも、王家のしがらみも無く、自分の人生を謳歌している。
※※※
家系図を見たところで何が変わるわけではない。
この壁にクルムを加えたくない気持ちは変わらない。
何をどこまでどう伝えるのか。
考えると頭が痛い。
受付でサクヤへの伝言を頼んで、喫茶室に向かった。
フィリアにオススメされたケーキを、珈琲と共に頼んでみる。
アプリコットジャムが挟まれたチョコレートスポンジケーキが、更に濃厚なチョコレートでコーティングされていた。
なるほど、これは美味い。
濃厚かつ豊潤な甘さが、ほんのりとした苦味と酸味と共に、疲れた脳へと行き渡る。
美術館の展示は情報量が多い。理に適ったスイーツである。
ケーキはあっという間に、腹の中に消えた。
珈琲を口に含んで、人心地つく。
「眉間に皺が寄ってるよ」
声に顔を上げると、向かいにサクヤが座っていた。
「仕事は?」
「終わり」
いつのまにか、十六時を回っていた。
窓から差し込む光が朱味を帯びている。
美術館は九時から十六時。
外からも入れる喫茶室は十一時から十八時と、営業時間がずれていた。
「お帰りなさい。で、兄さん、なんだって?」
「アイツ、感づいたらしいってさ」
「兄さんからの呼び出しなら、やっぱりそのことよねぇ」
誰が聞いているか判らない公共の場だ。お互い、固有名詞は出さずに話を続ける。
「決めたの?」
「どうしたものかな。考えがまとまらん」
サクヤが立ち上がった。
「わかった。ダフネさんに来週のお休み、代わって貰えるか、聞いてみるね」
「策があるのか?」
「困った時は、異母姉様の意見を聞きましょう」
思わず笑ってしまった。
母国とは言え、国主の巫覡を当り前のように使う遠慮のなさ。
さすが、俺のサクヤは一味違う。




