■月星暦一五八七年一月〈籍〉
ユリウスとの約束を果たし、刻印とも別れを告げた翌年。
タビスとして、新年を祝う必要が無くなった、初めての年だった。
アトラスは、サクヤの誕生日祝いも兼ねて、彼女の実家である、フェルンの領主邸を訪れていた。
ライ・ド・ネルト・ファルタンの指導のもと、コルボーに貧窮していたフェルター家の生計は立て直され、使用人も雇入れられるようになっていた。
負担が減ったせいか、フェルター夫人アミタの肌艶も良くなっている。
テーブルには、以前に比べると格段に『豪華』と呼べる食事が並び、舌鼓を打って団欒の一時を楽しんだ。
食後にはサクヤの好物の、アミタお手製のチーズケーキをデザートに、珈琲と共に頂いた。
その日は午後から天気が崩れ、夕方には激しい雷雨となった。
悪天候に呼応するかのように、団欒を覆したアトラスの一言。
激しく打ち付ける雨音で、外に漏れていただろうシモンの怒鳴り声が、掻き消されたのが救いだったかも知れない。
サクヤが、自身の妊娠を告げると、シモンとアミタはひどく喜んだ。
だが、まだ二人が籍をいれてないこと。この先も入れるつもりがないことをに話が及ぶと、シモンの顔色はみるみるうちに、変わっていった。
「生まれた子が男児だった場合、フェルター家で預かってもらえないだろうか」
その一言がトドメだった。
シモンは敬語もかなぐり捨て、立ち上がってアトラスを殴りつけていた。
「はい、そうですかと、受け取れるわけがないだろう!!」
シモンが怒るのも無理は無かった。
アトラスの言い分の方が、圧倒的に礼を欠いていた。
「サクヤのことは妻だと思っている。俺の連れ合いだと、周りも認識している。だが籍は入れない。入れられない」
「サクヤに、未婚の母になれと?」
「竜護星のサクヤの戸籍には、夫が俺だと既に記載されているが、月星の、俺の戸籍には入れられないと言っている」
月星でサクヤは正式に『妻』とは名乗れず、立場は便宜上『愛妾』となることを示していた。
王でさえ、一夫一妻の月星で『妾』と言う《《位》》は当然無い。
すでに妻と死別しているアトラスは、戸籍上は『独身』となる。そのアトラスが、サクヤを『連れ』すなわち『伴侶』として示しているのに、籍を入れていない為、他に言いようがないのだ。
「シモン。俺はアトラス・ウル・ボレアデス。どんなに時間が経とうが、前王の弟だということは消せないんだ」
もう、タビスでは無い。
自身には王位継承権も無い。
それでもしがらみは消えない。
王籍から抜くことだけは、アウルムが許さなかった。
それは、厳命をもって、レクスにも受け継がれている。
アトラスの身分は、未だに『王子』なのである。
「兄さん。ボレアデスの名前は、多分、兄さんが思っている以上に、重いわ」
サクヤが仲裁に入った。
かつて程の威光は無いが、それでも大国月星王家の姓。
その名を名乗る意味、その重さは、当事者以外は解りにくいだろう。
「月星の現王の御子は、まだ幼児の王女が一人。ひどく難産だった上、王妃のお歳を考えると次はもう臨めないだろう」
床に座り込んだまま、アトラスはつと語る。
「この国なら、王女が次期王で決まりだ。だが、月星はそう簡単にいかない」
女王が立ったことが無い訳ではないが、月星ならではの事情がある。
女性の王は忌避される風潮が根強く残っており、直系の後継者が女性だった場合は、一代前に遡って吟味されることになる。
くだらない因習はことごとく排除してきたアウルムが、なぜかそこには、手をつけようとはしなかった。
「籍を入れ、サクヤを妃にすると、子どもには王位継承権が発生してしまうんだ。生まれた子が男子ならば、その子の方が相応しいと言い出す者は必ずいる」
それはさせたくないと、言葉尻に滲むアトラスの思い。
「わかって、いるなら、何故……」
シモンの声が、拳が震えていた。
「無責任だろう」と、飲み込んだ声が聞こえた気がした。
「兄さん、私が、私達が悩まなかったとでも思うの?」
サクヤがシモンの真正面に立った。
「アトラスだって悔しいの。彼は最初、ちゃんと籍を入れてくれようとしたのよ。でも、私が止めたの。いつか子を授かる時があれば、彼が思い悩むのは解っていたから」
レイナの記憶を持つサクヤには解る。
「本当は、普通の家庭のように自分の手で育てて、男の子だったら一緒に釣りに行ったり、剣を教えたり。アトラスだってしたいのよ」
シモンの妻、アミタが濡らした布を持ってきてアトラスに差し出した。
唇が切れて、血が滲んでいる。
「シモンさま、私はサクヤさんと共に参りますので、その間、実家に帰っているということにして下さいませ」
アミタはサクヤを座らせ、兄妹の間に立った。
「今、大事なのは、まだ産まれてもいない御子より、サクヤさんです。女人にとって出産とは、命がけの大仕事なんですよ!」
現在のフェルター邸には使用人がいる。自分が居なくても、充分領主邸は回せる。不自然では無い状況を整えましょう、とアミタは提案してきた。
「アミタ、おまえ……」
「後継がいない家で、兄弟姉妹から養子を貰うことは、よくある話です」
言い切るアミタ。
よっぽど女性陣の方が、肝が座っている。
シモンが深々と、ほんとに深々と溜め息をついた。
「アトラスさま、その場合は、養育費はいただきますよ」
「無論だ。コルボーの時に貸した分も帳消しでいい」
「分かりました。その代わり、これからはもっと頻繁に来てくださいね。私では、剣も魚釣りも教えてやれません」
疲れたように、シモンは項垂れた。
「養育はしますが、養子縁組は、大きくなって本人が望むまではしません。それまではサクヤの子どもです」
「兄さん……」
まだ、妊娠三ヶ月の時点で、アトラスがほぼ男子と断定で話していたことに、シモンは気付いたのだろう。
マイヤがサクヤに視た。
そして言ったのだ。
「わたくしに、また弟が出来ますわね」
心底、嬉しかった。それも束の間、アトラスは気付いてしまった。
穏やかに、家族三人で暮らすことの難しさを。
何度もサクヤと話し合って、マイヤも交えて、導き出した答えがこれだった。
「宜しく頼む」
アトラスが、まだ生まれてもいない息子から父と呼ばれる幸せを、シモンに託した苦い夜となった。
アトラスサイテーとか思わないで頂けるとありがたいです。積極的だったのはサクヤさんの方だった『あの夜』ですので(^_^;)
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