■月星暦一五八六年十一月⑦〈最後のタビス〉
随分と話し込んでいたらしい。東の空が白み始めていた。
セレスの出した光球はいつの間にか消えている。
「セレス。セレスティエル」
「セリエルアス、それが私の名だ」
「では、セリエルアス。俺の時間はユリウスによって止めれられていたのだが、それはどうなったのだろう?」
「ユリウスの残滓が完全に君の中から消えれば、直ぐに流れは戻るだろう」
人ならざる者の『直ぐ』は当てにならない。
「具体的には?」
「うーん、三年から五年?」
「結構残るんだな」
「だって、君。少し、ユリウス混じってるもの」
ニヤリと言われ、思わずアトラスは口に手をやった。
「少なくとも、君の伴侶が歳上になることはないさ」
「そうか……」
アトラスは一つ安堵する。
「因みに、急に実年齢に老いるということには?」
「ならないよ。今の君の形から、通常の流れで時を刻み始めるだけだ」
そこは気になるよねと、セレスは大口を開けて笑った。
セレスが立ち上がる。
そろそろ別れの時間らしい。
「セリエルアス。あなたと逢った証が欲しい」
「なぜ?」
「我々は永劫刻印を持つ者を喪った。混乱することは避けられない。説得する手立てにする」
女神の仰せとあれば、月星の民は納得するだろう。
「なるほど。人間の柵は大変だね」
セレスは流れる髪を一房掴むと、いきなり手刀で断ち切って寄越した。
「これでいいかな?」
「あ、ありがとう」
結構大胆な性格なのかもしれない。
アトラスは丁寧に懐紙に包んで懐に入れた。
「では人の子よ」
「アトラスだ」
「そうか、君はアトラスというのか。……ユリウスを《《支えて》》くれてありがとう」
まるで子を慈しむ親の顔で、セレスは微笑する。
「ではアトラス、さらばだ。君の生に幸あらんことを」
「最後に一つだけ」
立ち去ろうとするセレスをアトラスは呼び止めた。
「ユリウスをあの子呼ばわりするあなたは、もしかして……」
「さあ、どっちだと思う?」
その存在感には似合わない、茶目っ気のある笑みを残して、女神と呼ばれる存在は、来た時のように唐突に消え去った。
※※※
白い砂漠の中心部への侵入を拒んでいた気配が突然霧散したのは夜半頃だった。
それから随分と経つが、サクヤは砂漠の入口で待っていた。
アトラスがサクヤの前に姿を現した頃には、殆ど夜が明けていた
アトラスを見とめてサクヤが立ち上がるよりも早く、アトラスの方がは彼女の元へ駆けだしていた。
「アストレア!」
サクヤが何かを言う前に、アトラスは彼女を抱きしめた。
サクヤの身体はすっかり冷えきっていたが、伝わってくる鼓動が確かな温もりだった。
現実に戻ってきた実感が、そこにはあった。
「待たせた……」
「アトラス?」
「こんなにも、待たせて済まない……」
さらに強く回した腕に戸惑う気配を見せたが、サクヤは黙って抱き返してきた。
やがて離した腕を見て、サクヤは驚きの声を上げた。
「刻印が……」
「ああ。もう、タビスは生まれない……」
ずっと、ユリウスの影と共にあり続けた日々。
その縁を自ら断ち切ったアトラスは、どこか淋しくも清々しい想いを胸に感じていた。
「ユリウスは?」
「ユリウスは形を喪ったが、ユリウスと呼ばれたものは、迎えと共に自分の世界に還っていった」
そんな説明では何も伝わらないだろうが、サクヤは頷き「お疲れ様」と呟いた。
「もう、人は魔物という形で煩わされることもなくなった。負の感情も自身の裁量で折り合いをつけて行くことになるだろう。本来あるべき姿に戻っただけだそうだがな」
振り返り、アトラスはサクヤの手をしっかりと握る。
「行こう。皆に説明せねば」
※※※
「おや、アトラスさま、いつお帰りを?驚きました。鐘が鳴らなかったようですが」
王立セレス神殿を訪れたアトラスに、大神官プロトは怪訝な顔をした。
「今日は鳴らさないように頼んだ。タビスとして来た訳では無いから」
「?」
「皆に話がある。大神官にも同席して欲しい」
アトラスにはその立場に準じて、正装が三種類ある。
王族としての装い、戦士としての黒衣、そして神官としての白い衣装。
タビスとして来たわけではないと言ったにも関わらず、アトラスは神官としての正装で王城の謁見の間に現れた。
だが、タビスだけが身につけることが許されている紫色の帯をしていない。
集められた面々は訝しんだ。
「今日、私はタビスであることを返還に来た」
そう言ってアトラスが懐から取り出したのは、丁寧に畳まれた紫色の帯とタビスの印章。
「叔父上、何を言っておられる?」
タビスとは《《なる》》者では無い。
生まれながらにタビスであり、それは称号でも肩書きでも無い。
「勿論、それは私が一番解っている。だが、刻印を吟味し、タビスであると認めてこの帯と印を与えるのは、その時の王の役目だからな。ならば、返す相手も王が相応しかろう」
アトラスは集まった面々の顔を見回し、言葉が浸透するのを待って口を開いた。
「私はタビスたる証を喪った」
捲り上げた袖の下、その右腕には『女神の刻印』と謂われる痣が無い。
大神官が悲鳴のような声を上げた。
「そんな、存命中にタビス様のお刻印が消えた事例などございません。な、何かの凶兆でございましょうか」
「落ち着きなさい、大神官」
王が呆れた口調で諌めた。
話が進まないと、露骨に顔をしかめている。
「しかし、女神の加護は喪われてしまわれました。我々は、女神に見放されたのでしょうか」
「大神官プロト、取り乱しているところ悪いが、もうタビスは生まれない」
アトラスは追い討ちをかけるように補足した。
「タビスは私で最後だ」
「なんですって!」
青褪める大神官を、青い帯の神官が支える。
「つまりは、人はもう、女神を必要とせずとも生きていける程自立したということだろう」
口を挟んだのは現王レクス。
統治者たる王としては、神殿の箴言は煩わしいこともある。
まして、王の言葉よりも優先されることもあるタビスは、時として脅威であるのだから、歓迎だろう。
戦時下でのタビスの役割を知る前王アウルムは、微妙な顔をしていた。
「大神官、安心しなさい。女神はいらっしゃる」
アトラスはプロトに声をかけた。
「我々が思っている形ではなかったが、この世界をご覧になっていた。それは事実だ」
アトラスは懐から懐紙に包まれたものを取り出し、広げてみせる。
「これは髪の毛か?」
王は一本手にとった。
形容しがたい光沢を持ち、細く滑らかな手触りをしている。引っ張っても伸びない。短剣を取り出して当ててみるが、切れる様子は無い。
「それにしては硬いな」
「おそらく、この世界のどんな刃物をもってしても切れまい」
持ち主本人は手刀で切り落としたのだが、黙っておく。
「女神セレスティエル。いや、セリエルアスと訂正されたがな。逢った証が欲しいと頼んだら、くれたよ。タビスの居ない混乱も、これを女神の証と据えれば暫くは凌げるだろう」
大神官プロトは、顔面蒼白にしてへたり込んだ。
「女神に、お会いになった……」
もはや話を聞ける精神状態では無いプロトは、セレスの髪を大事そうに抱え込んだまま、付き添われて退出していった。
大神官が立ち去るのを見届けて、今まで黙っていたアウルムが口を開いた。
「ユリウスか?」
「はい」
「成し遂げたんだな?」
「はい」
それだけで、アウルムは理解し、満足そうに頷くと退出していった。
だが、他の者は訳が分からない。
アトラスは語る。
タビスとは。
セレスとは。
ユリウスとは。
魔物とは。
世界とは。
※※※
後にアトラスは、自ら女神に面会してタビスの証を返還した最後のタビスと、云われることになった。
もう、この世界にタビスは生まれない。
十五章「女神降臨」完




