■月星暦一五八六年十一月④〈本物のタビス〉
空間に一筋、線が入った
隙間から白い指が現れ、カーテンを開くように空間が捲り上げられる。
次の瞬間、そこに佇む姿にアトラスは絶句した。
幼い頃から何度となく、その姿絵を目にしてきた。
聖堂に、暖炉の上に、メダルに、絵皿にと様々なものに刻まれ、月星人なら一つは何かしらの形で手にしている。
「セレス? 女神セレスティエルっ!?」
「こちらでは、そう呼ばれているらしいね」
人間離れしたという言葉以外、浮かばないほどに整った顔は美しい。
長く、くせの無い暗色の髪は、動くたびに鳥の羽のような違う光沢を放ち、紫紺の双眸はどこまでも深い。
圧倒的な存在感に、大昔の人間が神と信じた理由を見た気がした。
見た目は妙齢の女性といったところか。
女性だと思ったのは、どこか中性的だったユリウスよりも更にその度合いが強かったからである。
どこか古風なゆったりとした衣を身に纏っているため、体格から性別は判断できない。その真偽の程は判らない。
落ち着いた声は女性としては低く、男性としては高く、声からも性別の判断はつかなかった。
さすがに尋ねるのは気が引けた。だか、顔に出ていたのだろう。
「君がそうと思う方だよ」
意味深な言葉を発して、セレスは艶やかに微笑した。
「あの子の身体が消失したのを感じたのでね、来てみた」
「……ユリウスの魂を迎えに来たのですか?」
尋ねる声は、緊張で掠れた。
「そういうことが出来る者がいるならば、それは神と呼ばれる存在だけだろう」
やけに人間くさい表情で、申し訳無そうにセレスは言う。
「女神だっけ?君たちには、そう扱われているそうだが、残念ながら私は神ではない」
『神ではない』。
ユリウスから聞いていた為、アトラスは今更驚かなかった。
セレスはアトラスを見つめると、くくっと笑った。
「これはこれは珍しい。ユリウスもさぞかし苦労したことだろうよ」
セレスは座り込んでいたアトラスの前まで来ると、自身も腰を降ろして目線を合わせた。
「夢も送れない。記憶も保持しない。いかなる間接的な干渉を受け付けない」
「何の話ですか?」
「君の体質の話だよ」
『霊的不干渉』という単語をセレスは口にした。
「だから、身体を壊すだけのことに千年以上もかかったのか」
一人で納得し、セレスはアトラスに微笑みかけた。
「それでも君はあの子を理解し、手を貸してくれた。ありがとう」
「礼を言われることなんて、何もしていない」
「だって、君はユリウスを終わらせてくれたじゃないか」
アトラスはぐっと歯を食いしばり、目を伏せた。
「君には、辛い役目だったようだね」
話が通じないかと思えば、気遣いを見せる。
尺度が分からない。
セレスがふと顔を上げた。
「おや、こんな所に隠れていたのか?」
セレスは地面に向かって手をかざした。
掌から漏れる光が宙に紋様を形作る。
アトラスか知っている形ではないが、同じ類のものだと判った。
「刻印……」
「ん?ああ。これは私がユリウスに刻んだ、私の刻印だ」
「女神の刻印?」
白い砂の中から、銀色の光を放つ粒子が分離し、宙に集まって卵の形をとった。
セレスが両手でそれを掬い抱くと、卵の内側から叩くコツコツという音が響いた。
バスっとひびが入り、黄色い嘴が顔をのぞかせる。
「鳥?」
「ふふ……。あの子は身体を用意していたようだね」
鳥という単語と共に、脳裏に蘇る画があった。
「そうだ、思い出した。いつだったか、夢に割り込んで来たユリウスは、鳥の姿をしていた」
大きな翼を持つ、全身が純白の羽に覆われた、紫の瞳の、大きな猛禽類の姿で語りかけてきたことがあった。
「大きな鳥……タビス?」
ユリウスの言葉が蘇る。
初代のことは「人間で初めてタビスと呼ばれた男」という言い方をした。
「昔、あなたがこの地に来たとき、一人の少年を連れていたと聞きます。それがユリウスですか?」
「あの子はそんなことまで君に話したんだね。そうだよ。私はユリウスを連れて一度この地を訪れている」
アトラスは大きく息を吐いた。
ユリウスはアトラスの問いに、セレスが連れていた少年に痣は無かったと言ったが、刻印が無かったとは言わなかった。
「女神の刻印を持つ、本当のタビスはユリウスのことだったのか……」
そんな話をしている内に、小鳥は殻を全て脱ぎ捨て、大きく身体を震わせた。
一瞬にして乾いた羽は、頭から背にかけて青味がかった灰色っぽい色をしている。肚は白い。翼は先にいくほど青味が強くなり、風切羽は翠色をしていた。
猛禽類特有の鋭い瞳の色は、美しい紫水晶。
鳥は辺りを見回すと、ととっとセレスの腕を跳ね上り、肩の上に収まった。
見る間に一回り大きくなっており、もはや小鳥ではない。
「ふうん?あの子はよっぽど君のことか好きだったようだね」
鳥の顎を指で撫でながら、セレスは含む瞳をアトラスに向けた。
「……」
アトラスは意味には気づかなかったことにした。
「その鳥は、ユリウスなのですか?」
「ユリウスだったものだ。ユリウスの名前で生きていた身体は喪われ、『贖罪の刻』は終わった」
「罪?」
「うん。あの子は君達の住むこの世界を滅ぼそうとした、大罪人だったからね」
淡々と、セレスはとんでもない単語を口にした。




