□月星暦一五八六年十月②〈大神殿〉
□ハイネ
ルネに連れられて、ハイネとイディールは王立セレス神殿前で馬車から降りた。
モネとフィリアは街に繰り出し、アリアンナは留守番をしている。
ルネの妻フェルサは、白亜宮から帰れない日々が続いていた。
今回の月の大祭は、五月に生まれた王女のお披露目も兼ねている。準備に忙しいのだろう。
イディールは王城をちらりと見たが、さして興味は無さそうにすぐに大神殿に目を向けた。
大神殿の前庭には何台も馬車が並んでいる。
見学者が他にもいる様だ。
大神殿は玄関からして大きい。ちょっとした大劇場並みの広さがあり、手荷物預かり所まである。
「二階は貴賓席用の入口、宿坊、神官の住居等があります」
ルネが玄関の左右に伸びる階段を示しながらイディールに説明する。
「一階左手は大神官室や食堂。右手はタビスの居室になっています」
「タビスの居室?」
「はい。伯父様は少年期まで、こちらで過ごされていたそうです。今でも今回のような大祭の時の待機室として使われていますね」
「そうですか……」
ルネは説明を省いたが、右手の扉の横に、壁に紛れて存在するもう一つの扉にハイネは目が行ってしまった。
戦場から戻ったアトラスがまず放り込まれたという風呂に直結している。
風呂で傷を清められ、隣の診察室で治療を受け、続き部屋の寝室で傷を癒やしていたと聞いたのは、ハイネがレイナに付いて出席した初めての月の大祭の時だった。
それが四十四年も前の話だと思うと、時の流れを嫌でも感じてしまう。
正面の重厚な扉から、三人は大聖堂に入った。
古代の劇場跡を改装して作られた大聖堂は、球状をしていると言い変えても良い。
下部はすり鉢状をした観覧席があり、上部は半円状《ドーム状》の壁で覆われ、頭頂部に円状の窓がある。
昔は素通しだったが今は硝子がはめられているその窓からは、大祭時の南中した満月の光が下に座す女神像に落ちるように計算されていた。
「大きい……」
イディールが、感嘆のため息を漏らした。
すり鉢の底の壇上の女神の彫像は、台座だけで人の身長程もある。
どうやってこの聖堂に入れたのかすら、想像がつかない大きさである。入ってきた扉から入れられる大きさでは無い。
聖堂の建設時に一緒に作られたか、いくつもの部位に分けられて接合したのかも知れない。
一番前の、女神像をほぼ正面から見上げられる位置の席にアトラスが座っていた。
神官の日常着である神官服に、既に着替えている。
じっと女神を見上げる青灰色の瞳に、ハイネはただならぬものを見た気がした。
「ルネ、後は僕が案内する」
ハイネの言葉に、一瞬躊躇いの色を見せたルネだったが、素直に引いた。
ルネは察しが良い。
アリアンナ譲りなのか、彼女がよく仕込んだのか、踏み込まない選択が出来る。
「ではお父様、後はお願いします。サラさんも、ごゆっくり」
イディールに一礼して去っていく背中を見送って、ハイネはアトラスに近づいた。
「アトラス……」
「ハイネ? ああ、サラ。もう来ていたのか。ようこそ、大神殿へ」
振り向いたアトラスは、女神を見つめていた時の硬い表情を、きれいに消していた。
「アトラス、君は……」
「あなた、居なくならないわよね?」
ハイネの言葉を遮って、イディールがアトラスの腕を掴んでいた。
「えっ?」
「あ……」
慌てて腕を離すイディールは、しまったという顔をする。
「触っちゃ、いけなかったかしら?」
「まだ潔斎前だから大丈夫だ」
苦笑しながら立ち上がったアトラスは、他の見学者達の視線を集めてしまった。
着用している神官服自体には差はないが、併せの内側に覗く衣と帯は、鮮やかな紫色に染め上げられている。
一目で誰だか判ってしまう。
「場所を変えようか」
ハイネとイディールは、アトラスに連れられて、大神殿内の彼の自室に移動した。
ハイネが大神殿のアトラスの部屋に足を踏み入れたのは、いつ以来だろうか。
緻密に織られた絨毯。高価な青で染められたカーテン。五十年以上前の技術では難しかった、大きな板硝子の窓に重厚な家具。
使われている素材こそ高価なものであるのは判るが、王子の部屋としてはあまりにも簡素であることが、目の肥えた今ならハイネにも判る。
イディールも同じことを思ったのだろう。顔に出ていた。
珍しく神官服のサンクが、お茶を淹れてくると入れ替わりに出ていく。
窓辺の長椅子に二人を促したアトラスが、自身も座ると口を開いた。
「イディール、さっきのはどういう意味だい?」
「思い出してしまったの。最後に見たお父様の横顔と先程のあなたの顔が重なって見えて……」
「俺は消えないよ」
アトラスが浮かべた笑みに、湿り気は無かった。
「サクヤと共に生きると決めたんだ」
アトラスが肚を決めた時の顔は、ハイネも知っている。
それがサクヤとの道を選んだことを示すなら、ハイネが言うべきことは無かった。
「……俺が、初めてあの舞台に立ったのは三歳か四歳。舞とも呼べない御遊戯程度のものなのに、えらく喜ばれたのを覚えている」
窓の外、アトラスが視線を向ける先には大聖堂があった。
「あれから……出ていなかった期間もあったから、それでも四十回以上。俺はタビスとしてあの舞台に立ってきた。そう思ったら、ちょっと感傷的になってしまっただけだ」
向きなおったアトラスの顔は、清々しくもどこか真摯な色を帯びていた。
「よく見ておいてくれ、イディール。ハイネも。特別な年に相応しい大祭を見せることを約束しよう。きっと、今年の大祭は語り継がれることになる」
意味深に笑うアトラスの、言葉の意味にハイネが気付くのは一ヶ月後になる。
※
戻って来たサンクが、三人の前に茶を並べた。
茶請けに出されたサンク作の白餡のチーズケーキは絶品で、最近はまっているというテルメ産の蒸し茶とよく合っていた。




