■月星暦一五八六年六月一日②〈内なる声〉
サクヤの視線を振り切って、アトラスは扉を閉めた。
どうしよもなく、胸の奥に苦いものが広がる。
「また、逃げるの?」
サクヤの言葉は心の脆いところを的確に抉った。
その通りだ。
アトラスは逃げている。
正直混乱していた。
サクヤはサクヤで良いのだと、レイナの記憶があろうがなかろうが、それで良い気がしてきていた。
サクヤという存在に惹かれている自分を自覚し始めていた矢先に、やっぱりレイナだったのだと言われて、この気持ちは何なのだろう。
安堵より戸惑いの方が大きい。
良かったと単純に喜ぶのも違う気がする。
扉の外、暗がりの中にサンクは待っていた。
居ることをアトラスは咎めない。サンクが戻らず居るのは知っていた。サンクならそうする。
「どう思う?」
「僕に振らないで下さいよ」
困り顔でサンクはアトラスを見上げた。
「でも、最近の貴方は楽しそうですよ」
「楽しそう?」
「はい。アトラス様。僕はずっと貴方を見てきました。気づいていますか?貴方はまた、あの頃のように笑えているんですよ」
サンクが眩しいものを見るような顔をする。いつかのテネルの様な表情。
「どうすればいいではなくて、貴方はどうしたいですか?それが答えです。貴方は、そういう方でしょう」
「そうか。それでいいのか」
アトラスは微笑った。
元神官のサンクは己が内の女神の声を聞け、そういう意味で使ったのだろう。
そんなものは聞こえないが、心の声にに従えというのなら、答えは既に出ている。
いつも回り道をして単純なことに気づくのが遅れる。
無駄が嫌いなくせに自分のことには余計なことを考えすぎて無駄な時間ばかり費やしている気がする。
「そうか。俺は笑えているのか……」
何かが晴れた気がした。
「感謝する、サンク」
「いいえ、アトラス様。おやすみなさい」
今度こそ、サンクは自室の階下へ降りていった。
見届けて、アトラスはサクヤの部屋の扉を再び開いた。
※※※
扉を開けると、サクヤは先程と同じ体勢で空になったカップを睨みつけていた。
再び部屋に踏み入ったアトラスを、サクヤは驚いた顔で見上げた。
「えっ……?」
「すまなかった」
アトラスはいきなりサクヤを抱きしめた。
「気持ちはとっくに認めていた」
「アトラス?」
「心はとっくに求めていた」
言葉にすると照れくさい。
それでもまっすぐにアトラスはサクヤに耳元で心の内を正直に囁いた。
「頭だけが色々と理由をつけていた」
アトラスはサクヤを真正面から見つめると、ふわりと笑ってキスをした。
「『こんな俺が望んでも良いのなら、お前との明日が欲しい』」
「その台詞……」
サクヤの頬を涙が伝った。
それは、月の大祭でアトラスがレイナにしたプロポーズの言葉。
もう一度唇が重なった。
今度は双方からの深いキス。
「はぁ……。もう! キスしてから言うのってずるくない?」
拗ねた口調のサクヤに、アトラスがにやりと笑った。
「だって、『お前』は断らないのだろう?」
「馬鹿っ!」
泣き笑いのサクヤ。
二人の視線が今度こそ交わった。
差し出したアトラスの手をサクヤは拒まない。
月の光が差し込む部屋で、二人の夜は更けていった。




