■月星暦一五八六年六月一日①〈◯月星暦一五六〇年六月一日〉
〇レイナ
月星暦一五六〇年六月一日深夜。
城の者が皆、寝静まったこの時間が怖かった。
目を閉じたら、もう朝日を見られないのではないか。
あのひとの顔が見られないのではないか。
恐ろしくて目を閉じるのが怖かった。
身体は動かせない。皮膚に触れる布が擦れるだけで、痛みとなって神経に障る。
寝ようと思っても寝られる訳でも無いのだ。
気がつけばうつらうつらと浅い眠りを繰り返しているだけの日々。
出来ることはない。
窓の外に広がる闇を、首だけ向けてレイナはただ睨み続けた。
不意に、闇が人の姿を形を作った様に見えた。
音もなく窓を開いて、露台から部屋に入って来たのは男性だった。
初めて会うが知っている。
青銀の髪に紫水晶の瞳。整いすぎた顔立ち。
御伽噺に謳われるままの、見間違う筈の無い姿。
「ユリウス……。今頃、何しに来たの?」
枕元まで来たユリウスを、レイナは臆さず睨みつけて問いかけた。
「別に、助けてくれるわけじゃ、ないんでしょう?」
ユリウスは頷いた。
「そうだ。私はおまえを救わない」
初めて聴く声は、蒼い樹々の杜のように奥深く静かだった。
「知ってる。あなたは、自分の為にしか、動かない。あなたの目的には、アトラスしか、必要ないものね」
途切れ途切れにしか紡げない言葉。
声に湿り気が帯びない様にするには、渾身の努力が必要だった。
この身体はそれほど迄に衰えている。
「おまえの心臓は、明日鼓動を止める」
不意に紡がれた残酷な言葉に、一瞬息が止まった気がした。
「……それを、伝える為に、わざわざ来たの?」
ユリウスは答えず続けた。
「だが、おまえはまたあの男に逢える」
「え……?」
「私が必ず会わせる」
紫水晶の瞳が柔らかな色を帯びた。
「次はもっと、身軽な身体で生まれなおして来い。そして、何処へでも行けばいい」
ユリウスは腕を伸ばし、レイナに掌をかざした。
身体がふと軽くなるのを実感したレイナは目を見開いた。
「何をしたの?」
「痛みは感じないはずだ」
言われて、常にぴりぴりとささくれだっていた痛みが消えていることに気づく。
レイナはユリウスに向かって手を伸ばした
「起こして」
「……!?」
戸惑いながらも、ユリウスは壊れ物を扱うような不器用さで、レイナを寝台に座らせてくれた。
「ありがとう」
「別にお前のためじゃない」
照れ隠しに、目を背けるユリウスの仕草は、どこかアトラスを彷彿させた。
□□□
□サクヤ
月星暦一五八六年六月一日深夜。
夢。
はっと起き上がったサクヤは、寝台から起き上がろうとして、絡まった寝具に脚がもつれて床に倒れこんだ。
強かに鼻を打つ。
ーー痛い。
痛む身体が悲鳴を上げる。
ーー違う。あれは夢。
今の自分の身体痛みはない。ちゃんと動く。
ーーでも鼻はじんじんする。
心臓が痛いほどドキドキしていた。
ぐちゃぐちゃに乱れる感情。
痛みと混乱する脳と感情で、サクヤは訳が分からなくなる。
「うわーーーあぁぁぁ」
結局こらえきれずにサクヤは泣いた。
場所も時間も気にする余裕も無く、感情の赴くままに泣き叫んだ。
扉を叩く音がした。
「サクヤ、どうした? 開けるぞ」
床にうずくまって泣くサクヤに、アトラスは駆け寄ってくる。
「サクヤ!」
「わぁーーーぁぁん」
サクヤは子どもの様に泣きじゃくり、アトラスにすがった。
部屋には入らず、扉口で伺っていたサンクとハールをアトラスが振り返る。
「ハール、すまんが何か温かいものを」
「はい!」
サンクが黙って部屋の明かりを灯す。
ひとしきり泣くと、サクヤは椅子に座らさた。
ハールが落ち着くハーブティーをポットに入れて持ってきてくれた。
サクヤは渡されたカップを両手で包み込み、冷えた指先を温めた。
サンクとハールを労って部屋に戻るように言うと、アトラスはサクヤを伺い見た。
「落ち着いた?」
「……うん」
頷き、サクヤはお茶を口に含んだ。
ふわりとカミツレの香りが鼻に抜ける。
「聞いても?」
サクヤはこくんと頷くと、アトラスを見つめる。
「夢……見たの」
まだ、ばくばくと鼓動がうるさい。
「あれは、一五六〇年六月一日の深夜の夢……」
アトラスが息を飲んだ。
「ユリウスが枕元に来たの。おまえは明日死ぬが救わないってことを言われた……」
「あン……の野郎……」
アトラスの顔が怒りに染まる。
勢い、立ち上がりかけたアトラスの袖を、サクヤは引いた。
「待って」
アトラスは我に返った顔で座り直し、サクヤに再び向き直る。
「ユリウスは言ったの。でも逢えるからって。必ずあなたに会わせるって言ってくれたの」
「なに……?」
「だからあの日、ユリウスはわざわざ来てくれたんだ」
サクヤは、フェルンの領主邸に現れたユリウスの姿を思い浮かべた。
「約束を、ちゃんと果たしに来てくれたんだ」
自分が判るかと尋ね、夢が思いのほか進んでいなかったことにユリウスはがっかりした顔をしていた。
その理由が今なら解る。
「ねぇ、アトラス。あなたが認めたくないのは知ってる」
サクヤはぐいと、アトラスを見つめた。
「でもわたしは、あなたがこんなに懐かしい。あなたに逢えた奇跡を信じたい」
サクヤは意を決して、フェルンを出てからなんとなく有耶無耶にして触れてこなかったことを口にした。
「自分の気持ちに嘘はつけないよ。代わりじゃなくて、わたしをみて欲しい。わたしは、『私』だよ」
サクヤに向けられるアトラスの瞳が揺れる。
「『また、私を、見つけて』、か……」
ぽつりとアトラスは呟いた。
「だから、最期にその台詞が出てきたのかな……」
アトラスは立ち上がる。
「サクヤ、もう休みなさい」
「アトラス!」
戸口に向かう背中に、サクヤは手を伸ばすが届かない。
「また、逃げるの?」
アトラスの歩みが刹那停まった。
言ってはいけなかった一言。
消せない声は重い空気となって宙を漂う。
「かもな……」
ぱたんと音を立てて、扉は閉じられた。




