□月星歴一五八六年四月⑥〈吉報〉
朝、目覚めたサクヤは混乱した。
(どういう状況!?)
目の前にはアトラスの胸があった。がっしりと抱きしめられている。
見上げると、首筋と顎の先が見える。規則正しい寝息が聞こえた。
(アトラスの匂いだ。……なんだか懐かしい)
サクヤはアトラスの腕の下でもそもそと体を動かして、自身の手のひらを引き出した。
目の前の厚い胸板にそっと触れてみる。
温泉保養施設で確認したがやっぱり傷痕は無かった。脚のものもだ。
気にはなったが今はどうでも良かった。
夜衣越しに伝わる筋肉の硬さと鼓動になんだかほっとした。
今朝は良く眠れた気がする。
途中から夢の記憶は無い。
何か温かなものに覆い尽くされたように落ち着いた。
サクヤは大きく鼻から息を吸い込んで、もう一度目を閉じた。
大好きな人の匂いに包まれて、もう少し、この温もりにまどろんでいたかった。
※※※
もう一度サクヤが目を覚ました時には、アトラスは既に隣の居間にいた。
珈琲を飲んでいたが、食事に手は付けられていない。
「おはよう。よく寝られたようだな」
満足そうに微笑まれて、サクヤはちょっと悔しかった。
おそらくアトラスは、サクヤが一度起きたことに気づいていない。
「風呂、入って来るか?待ってるぞ」
言われて、アトラスが既にひとっ風呂浴びたことを悟る。
既に着替え終えている彼の顔がなんだか艶々して見えた。
「ゆーっくり入ってくるから、待っててね」
憎まれ口を叩きながらサクヤは風呂場に向かった。
この宿はモネに紹介して貰ったと言うが、彼女が評価するだけはある。
設備が充実しており、置いてある洗髪剤や化粧品も数種類選べた。
昨日は蜂蜜の洗髪剤を使ったが、今日は薔薇の香油入りにしてみた。
『昔』、月星の人は薔薇の香りが好きだと聞いた。ヴァルムの言葉だ。
レイナはテルメには来たことが無いからと来てみたところで、彼女の記憶はサクヤから切り離せるものではない。
ふとした瞬間、レイナの記憶でものを考え、思い出に浸ってしまうことは避けられない。
風呂に入っている間に朝食は温め直してもらったらしい。
アトラスのこういうところは、相変わらずまめである。
※
宿を出て日の下で、貰ったブレスレットを見てサクヤは驚いた。
「あれぇ、色が違う?」
蝋燭の灯りの下ではたしかに赤味がかった色をしていたのに、今は緑味がかった色をしていた。
「面白いだろう」
サクヤの反応が予想通りらしく、アトラスはなんだか楽しそうである。
アトラスが自分を思ってわざわざ選んでくれた石だとサクヤは感じた。
この色はレイナには似合わない。
受ける光によって色を変える性質も、まるで自分を象徴しているようにサクヤには思えた。
サクヤの方は悩んだ末、アトラスに外套留めを贈った。
シンプルな実用的な意匠のものである。
ただ、あしらわれた不透明な空色の石に『アトラス』を見た気がした。
店の主人に、世界中で天の神が宿る石と言われ、旅の安全を祈る石として人気なのだと聞いて、これ以上ぴったりなものはないと思った。
今日、早速アトラスが使ってくれているのを見て気に入ってくれたのだとサクヤは嬉しくなる。
※
白乳亭の焼チーズケーキを確保したサクヤは、一人竜護星に帰ることになった。
アトラスは難色を示したが、竜の上程安全な場所もない。しぶしぶながら許可してくれた。
アトラスはアンバルに向った。
サクヤも付いてくると思っていたらしいが、いつまでいることになるか判らないというので、先に離島の館に戻ることにした次第だ。
「テルメは既に良い街だが、まだまだ発展の余地があると、今回モネの助言で歩いてみて実感したんだ」と、アトラスはサクヤに話した。
ついては検討してみたい案があるらしい。
アトラスは昔から、思いついた案は試してみたがる性質だった。
アウルムが後宮跡地に作った四つの離宮の一つ、紫紺宮が月星滞在中のアトラスの拠点となっている。
初めて月星に滞在した時に、サクヤが大神殿の宿坊に泊まることに難色を示したことがきっかけで、アウルムが配慮してくれた形だ。
月の大祭中にサクヤも初めて利用したが、離宮の内装など、各所に施された配慮をみる限り、最初からアウルムはアトラスを想定して造ったことが伺えた。
大きな露台は竜の発着を考慮しているとしか思えない。
アウルムも造ったものの、アトラスに譲り時を逃していたのだろう。
紫紺宮はアウルムの住む鬱金宮の隣にあり、残り二つは白亜宮と赤霄宮という。
白亜宮は現王レクスの妊娠中のフィーネ王妃が使っている。
レクスの初めての御子の誕生を間近に控えて、アンバルの城の雰囲気がピリピリしているのは想像に難くない。
フィーネ王妃には大祭の時にサクヤも挨拶をした。
栗色の髪の目の大きな綺麗な女性だが、神経質そうな印象を受けた。
王妃ならもっと堂々としていれば良いのにと思うほど、線の細い女性だった。
王妃はアトラスの『連れ』であるサクヤを警戒しているようだった。
アトラスの立場を考えれば無理もないが、妙な勘ぐりをされても困る。
サクヤがアンバルに行かなかったのは、今は王妃と距離をとっておきたかったというのもあった。
※
結局アトラスが離島の館に戻って来たのは、五月も終わろうとしていた頃だった。
王女誕生の吉報を伴っての帰還だった。
セーラ・ウェヌス・ボレアデス・アンブルと名付けられた王女の誕生をもって、アトラスの王位継承権は消失した。
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アウルムはアトラスの継承権破棄を一応認めましたが、レクスに後継者がいなければその限りではないという一文がついていました。
レクスに後継者が出来たことは、《《アトラスにとって》》は吉報です。
【小噺】
カライス:ターコイズの古い呼び名
フィーネ:細い