□月星暦一五八六年四月①〈気分転換〉
□ハール
真夜中に階段を駆け下りてくる足音にハールは目が覚めた。
アトラスはサンクを連れて月星に出張中である。来週迄戻って来ない。
今、館の二階で寝ているのはサクヤだけである。
洗面所に入ったまま、サクヤはなかなか出てこなかった。
気になったハールは様子を見に行った。
「サクヤさま、大丈夫ですか?入りますよ」
返事が無いのを訝しんだハールが入ると、サクヤは背を丸めて嘔吐していた。
「サクヤさま!?」
ハールが背中をさすると少し楽になったらしい。
胃液ばかりで内容物は殆ど無い。
ひとしきり吐き出したサクヤは、口を濯ぐとハールに顔を向けた。
「ごめんなさい。起こしちゃったのね」
顔が白かった。
「サクヤさま、もしかして?」
「ちがうの。そういうのじゃ、無いの……」
ぶんぶんとサクヤは腕を振って否定した。
「アトラスはわたしに触れてないもの……」
呟く声は凄く小さい。
ハールはランプの小さな灯りに照らされたサクヤの顔が、涙に濡れていることに気づいた。
俯く肩に触れて、サクヤを食堂に促した。
「何か温かいものでも飲みましょう」
ハールはサクヤの要望の温めた牛乳に、マシュマロを浮かべて出した。
「聞いても宜しいですか?」
「……夢に酔ったの」
甘いミルクを啜りながら、サクヤはぽつりと零した。
サクヤが『レイナ』を夢で追体験していることは聞いていた。
レイナの侍女をしていたハールは、竜護星に戻ってからの彼女と大半を一緒に過ごした。レイナの経緯は大方を把握している一人と言っていい。
「今、いつ頃ですか?」
「さっき、月の大祭からアトラスが戻ってきた……」
レイナが病に倒れてから、アトラスが完全に城を空けたのはその時だけだった。
「あの頃のレイナは、何も出来ない罪悪感にさいなまれていて、とにかく思考が負の方向に考えがちで。今辛いのは自分が幸せすぎたからだとか明後日の方向に飛んじゃっていて。溜め込んで、苦しくて、誰にも話せなくて。でも、アトラスやマイヤの前では平気な振りをして……」
サクヤの双眸から涙がボロボロと零れ落ちた。
「正直、気が狂いそう」
サクヤは顔を両手で覆った。
「なんで私は、先が短いのが判っていたのに、その時間をもっと大事にしなかったんだろう。堪えることを選んでしまったんだろう。……みんなが気づいてることだって知ってたよ。知られていることを、気づかない振りをして、とんだ道化よね。アトラスにもマイヤにも気を遣わせて、ハールもストラも困らせて。ほっんと、莫迦みたい」
「『レイナ』さま……」
ハールはサクヤのそばまで来ると、座るサクヤの身体に腕を回した。
サクヤもハールの腕を握りしめてくる。
「短いなりに楽しもうとすれば良かった。楽しい思い出で終えれば良かった。そうすればきっと、アトラスの苦しみも軽くしてあげられた。私もこんなに悔やむこともなかった」
サクヤのハールを握る手に、痛いほどの力が籠もった。
「私は莫迦だ……」
※※※
翌週、予定通りアトラスとサンクは離島の館に帰ってきた。
シロップ漬けのパイやナッツをデンプンで固めた菓子等の月星の伝統菓子が土産が配られ、留守中の様子をアトラスに報告すると日常が戻ってきた。
サクヤがサンクの稽古を受けている時間に、ハールは書斎のアトラスを訪ねた。
「留守中、何かあったか?」
「サクヤさまが相当参っています」
アトラスが手を休めて、顔を上げた。
「そう言えば、最近夢の話をしてこなくなったな」
「ご不在中、夢に酔ったと吐いていらして……。今、お亡くなりになる前年末辺りのようです」
アトラスが痛みを堪える顔をした。
「……そうか」
ハールは溜息を吐いた。
そんな顔をする位なら、さっさと受け入れてやれば良いのにと思う。
新しい記憶で辛い思い出を上書きしてやれば、サクヤも楽になるだろうに、何を躊躇っているのかとハールはアトラスがもどかしい。
「サクヤさまを気分転換に、連れ出してあげて下さいませ」
「そうだな」
窓からは、鍛錬に励むサクヤ達が見える。その姿はどこかがむしゃらで、気持ちを紛らわせているようにも見えた。
「ハール、どこが良いかな?」
最近の若い娘が喜びそうな場所が分からないと、アトラスが大真面目に言うものだから、ハールは頭が痛くなった。
離島の屋敷での生活も十年を超える。
ハールの他に住み込みで働いている女性は何度か入れ替えはあったものの、今いる三人はもう四十、五十歳代の熟練者ばかりである。
サクヤの歳は、彼女達にとっても子供の世代の方が近い。好みを聞かれて分からないのはハールも女性陣も同じである。
結局ハールはサクヤに直接聞いてみた。
「アトラス様が、頑張ってるサクヤ様をどこか連れて行ってくださるそうですよ。行きたいところはありますか?」
「テルメ」
殆ど即答だった。
「よっぽど温泉が気に入ったのですね」
「温泉は良かったわ。どっちかというと、あそこにはレイナの思い出が無いから……」
目を逸らして呟くサクヤの声に、いたたまれなくなったハールは、微細ながら協力することを思いついた。
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