■月星暦一五八六年二月⑳〈主従〉
「もっと早くお会いしたかった。当時私は、本気で貴女を妻に迎えられないか考えていたのですよ」
「あら。なら、私は王妃になりそこねたのね」
アウルムの言葉にイディールはカラカラと笑う。
「だったら、俺はちゃんと姉上と貴女を呼べたのにな」
こんな冗談を交わせる時間が来るとは思わなかった。感慨深く、アトラスはアウルムとイディールを見つめていた。
「ところで、当初の目的を忘れていません?」
長くなりそうだからとサクヤが口を挟んだ。
「そういえば」
「忘れていたな」
アトラスは『会議室』から縛られた男を引き摺ってきた。
その姿は痩せこけ、真っ白な髪には艶がなく、顔には深い皺が刻まれている。
肉の無い頬に血走った双眸からは、狂気にも似た光があった。
「見覚えはある?」
「間違いないわ、アイン・マールよ。面影がある」
縛られた男の目ががフィリアを認めて、這い寄って行った。
「いでぃーるさま?イディール様!!」
「何?この人、怖い……」
フィリアはイディールの後ろに隠れる。
「フィリアさん、何か甘いものでも食べましょう」
サクヤが気を利かせてフィリアを別室に連れ出していった。
見届けて、イディールはアインに向き合った。
「アイン、あなたの眼はずいぶんと曇ってしまったようね。あれから五十年も経ったイディールが、あんな姿のまま生きてるわけないでしょ」
例外はいるみたいだけど、といい添えてイディールは冷ややかにアインを見下ろした。
「イディール、さま?」
「その名前の王女は五十年前のあの時に死んだわ」
「イディールさま、イディールさま!生きてらっしゃったのですか!?」
「……さっきまではイディールさまの敵!って繰り返していたよ」
げんなりした顔でアトラスはイディールに耳打ちする。
「従者なのに知らなかったのか?」
「アインはあの日は私用で出かけていなかったのよ。出先で報せを聞いて戻ってきたら街は瓦礫の山。きっと人伝に王女は死んだって聞いたのでしょう」
イディールは腰を下ろしてアインに視線を合わせた。
「しっかりなさい。アイン・マール!」
ぱしん!と乾いた音が響いた。イディールが容赦なくアインの頬を引っ叩いた。
「起きなさい、アイン!」
イディールの一喝に、うわ言のように呟いていた男の目に光が戻った。
「イディール様?」
「アイン・マール。自分が判る?」
「もちろんでございます。イディール様」
焦点が合った目は、まっすぐとイディールを見据えていた。
捕らえられてからの間見せていた錯乱が嘘の様に、会話が出来る人間の顔になった。
アインの視線が、イディールの後ろに居るアウルムを捉えた。部屋を見回して、再びイディールに視線を合わず。
「何故、イディールさまがアンブルの奴らと一緒にいるのです?アンブルのせいで、お辛い思いをして来たのでしょう?」
アインが前のめり気味に尋ねる。
「アイン。私は全てを失くして一から生き直した。辛くなかったとは言わないけど、胸を張って幸せになったって言える」
「なんで……。イディール様はアンブルを憎くはないのですか?」
アインは打ちひしがれた顔でイディールを見上げた。
「無いわよ」
迷いのない即答。
「アイン、あなたは今の世の中が本当に見えてないのね」
イディールは不憫そうな眼差しをアインに向けた。
「みんな目に力があって楽しそうじゃない。しようと思えば好きな職に就ける。美味しい料理が食べられる。なにより何処にでも行ける」
イディールはアウルムを示して微笑んだ。
「こちらの王様がこつこつと積み上げて下さった功績よ」
「ですが、ジェイドの直系であるあなたが、それを甘受してしまっては、ジェイド派の無念が……」
「無念?まだそんなことを言ってるの?」
呆れ果てた口調でイディールはため息を吐いた。
「アイン、この人が誰だか判る?」
イディールはアトラスを示した。
「父を討ったタビスよ」
「そんな筈は……」
イディールの視線を受けて、アトラスははいはいと、右袖を捲って刻印を露わにした。
「刻印……本当に……?」
「父はこの人に討たれることを選んだの。それが王の意志だったのだもの。臣下だったなら従いなさい」
「討たれるって、そんな、ライネス様が、なぜ?」
「そんなの、息子だったからよ」
決まってるじゃないとイディールは笑う。
「アトラスは私の弟ーーレオンディールですもの」
「暴露するんだ?」
アトラスが呆れた声を出した。
「だって、この人、長くないもの」
違う?とイディールはアインに問う。
「わたしの余命は、保ってあとひと月というところです」
「だから、こんな莫迦な真似をしたのね」
ふうっと、イディールが大きく息を吐く。
「ほんっと、莫迦。五十年もジェイドに囚われて人生無駄にして……」
イディールはアインを抱擁した。
「最後のジェイドの名を持つ者として、イディールが命じます。アイン・マール。もう解放されなさい」
「イディール様……」
アインの眼から涙が溢れた。
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