■□月星暦一五八六年二月⑬〈風呂〉
■アトラス→□サクヤ
景雲閣の客室の風呂をアトラスは使っていた。
石造りの床に直接埋め込まれ湯船は広く二人くらいなら余裕で入れるだろう。
長身のアトラスが足を曲げずに入れる湯船は少ない。
肩までつかり、四肢を伸ばすと、思わず「ふうっ」と息が漏れた。
管の原理で源泉から引き上げた湯を床下に這わせた水路で各客室の風呂場に送り込んでいる。
風呂を利用する時だけ、取水口の蓋を開けば、湯船に温泉が溜まる仕組みである。
水稲栽培をする田んぼに水を取り入れる仕組みに似ている。
排水口は別にあり、二つの水路が混ざることはない。
排水は流水便所などに応用されて流されていく。
五十年前、温泉施設や街作りは物資調達に伝手のあるオストが病弱だった妻の保養所を兼ねられると力を入れ、建築に明るいノルテ家が全面協力したらしいが、こういう機構に関しては、細かいことを考えるのが得意だったスールが頭を捻ったのが伺える。
全室源泉かけ流し、贅沢な作りである。
温泉の泉質上、石灰華が付きやすく、維持に手間がかける筈だが、そこはさすが最上級の高級宿。しっかり管理がなされている。
浴室の窓には硝子は無い。
代わりに窓枠より幅の狭い格子窓の引き戸が二枚入っている。
格子の為外から見えにくく、風が入ってくる。湿気やのぼせ対策を兼ねているのだろう。
閉めたければ戸の一枚をずらせば良い。格子が互い違いに合わさり隙間が埋まる。よく考えられている。
沸かした湯よりもとろみのある温泉水は肌にまとわりつくようである。
モネがここの湯は美人の湯だとはしゃいでいた。たしかに皮膚には良さそうである。
半身浴に切り替えて、格子窓の隙間から外に目をやった。
傾きかけた陽を受けて、茜色に染まりかけ街並みが見える。
なるほど、温泉に浸かってぼんやりしていると、日常の雑多なことは暫し忘れられそうだ。
アトラスがそんなことを考えていた時だった。
「背中、流してあげよっか」
突然背後からかけられたサクヤの声。
彼女がいつ入って来たのか、アトラスは気づかなかった。
振り返りかけて、かろうじて思い留まった。
鼓動が早くなる。
「サクヤ!少しは恥じらいというものをだな……」
ペタペタと近づいてくる足音が、アトラスの横で止まった。
白い裾が視界の端に入って来た。
「湯衣……」
「なあに?裸だと思った?」
榛色の瞳が悪戯っぽく笑う。
「!?」
アトラスは慌てて湯船に首まで浸かった。
こちらは全裸である。
「俺の分の湯衣を持ってこい」
「今更でしょう。アトラスの身体の黒子や傷痕の位置まで、私は知ってるのよ?」
「やかましい!」
ぱしゃん!
アトラスが掬い飛ばしたお湯は見事にサクヤの顔に命中した。
「ちょっと、ひどい!」
サクヤが顔を拭いているうちに湯船を出て脱衣室に向った。
浴室からサクヤの文句を言う声が聞こえたが、気にせずさっさと身体を拭いて、アトラスは衣を身に着けた。
なんだかどっと疲れた。
脱衣棚の上に置かれた水差しの檸檬水を口に含みながら、夜に備えてさっさと寝ようとアトラスは頭を切り替えた。
□□□
まさかお湯を掛けられるとは思わなかった。
湯船の縁に腰を下ろし、足を突っ込んでサクヤは溜息をつく。
「そんなに拒否しなくたっていいじゃない……」
サクヤは脱衣室の方を見た。
ちらりと見えたアトラスの背中に、『記憶』にある矢傷が見えなかった気がする。
体温が上がると白く浮き上がって見えた胸の傷痕も無かったように見えた。
気のせいだろうか。
「子供の頃からの傷痕って、大人になってから消えるものかしら?」
腑に落ちない思いを一つ抱えながら、サクヤは排水口の蓋を開いて湯を抜いた。
お読み頂きありがとうございます
温泉『お約束』を差し込んでみましたが、このヘタレ主人公、見事に逃げ出しました 笑
サクヤを拒んだというよりは、傷を消したあの方が過ぎったのかと




