□月星暦一五八六年二月⑦〈温泉 前〉
□サクヤ
「サクヤさん、温泉は初めてすか?」
「わたしは初めてです」
半年前までフェルンを出たことの無かったサクヤには、たいていの経験は初めてである。
城趾に作られたという温泉保養施設はとにかく広かった。
湯殿は、湯衣着用で、男女問わず寛げる共有区画と、無着用で入る男女別々の内湯とに別れていた。内湯も大浴場と家族等で入ることが出来る個室風呂とに分かれている。
入る時に内湯だけと、どちらでも入れる入場券等を選べた。
因みに住人には格安の補助があり、回数券も販売されている。
追加料金で推拿やオイルマッサージも受けられるとのこと。
二人は時間の許す限り全部体験しようということになった。
先ずは内湯に向かった。
「あら、匂いがない?」
脱衣所から浴場に移動して、サクヤがまず驚いたのはそこだった。
レイナが入ったことのある温泉は、乳白色で卵のような独特な匂いがあった。暫く服にまで匂いが付いて辟易したことを覚えている。
給湯口には石灰華が滝の様に固まり、それが独特の雰囲気を醸し出している。
湯は一見無色に見えるが、深い場所は薄っすらと緑褐色をしていた。
「温泉って、場所によって色も匂いも由来も成分も効能もさまざまなのですって」
モネが施設の使い方ついでに豆知識も教えてくれる。
「ここは、『美人の湯』って呼ばれてるんですよ。血行が良くなり、毛穴の汚れや角質が取れてお肌がすべすべになるんです!」
衣を纏わないモネの肌はキメ細かく美しく、サクヤは思わず目が追ってしまった。
この温泉の効果なのだろうか。
「よく来るの?」
「テメルは割と近いので、何度か連れてきて貰ってます」
しょっちゅうでは無いのなら、素が良いのだろう。
なにしろ、美姫と謳われたアリアンナの孫なのだしと、サクヤは納得した。
身体を洗い、温まってから、湯衣を着用して二人は共有区画に移動した。
共有区画は家族連れや恋人同士と判る二人連れ、友達同士などが多く見られ、湯治というよりは憩いの場という意味合いが強い。
お湯の温度は内湯よりも温めに設定されてるいるようだが、芯が温まるので気にならなかった。
広い建物内には、湯衣のまま飲食が出来る場所が設えてあり、失った水分補給もできるので長く入っていられる。
塩味のあるヨーグルト飲料を口にしつつ、足湯につかりながら、サクヤはモネに問いかけてみた。
「モネさんは私の事情、どこまで知ってるんでしたっけ?」
王女様の孫のだが、モネは割と気安く話す。
以前、「サクヤさんの方が歳上なのですから、もっと気軽に話してください」と言われ、言葉遣いはあまり改めていない。
「お祖父ちゃんの態度を見ていれば、何となく判りました」
「あぁ、まぁ、そうですよねぇ……」
以前アンバルに訪れた時、アトラスの調べ物が終わるまでの数日間、ブライトの家にお世話になっていた。
その間、ハイネは名前だけはサクヤと呼んでいたが、態度はまるっきりレイナに対するものだった。
「それでサクヤさん、大伯父さまと、その後進展はありました?」
邪気のない顔でいきなりド直球が来た。
モネには、しっかりハイネの資質が受け継がれているらしい。
「一緒に暮らしてるって聞いてますよ?」
「同じ屋根の下、というだけです」
今回の様に、一緒に旅に同行させてくれる。
周りはアトラスの『連れ』と認識し、相応の待遇で扱ってくれるようになった。
だが、それだけだ。
泊まる部屋は一緒でも、寝室は別々。
きっと今夜もそうだろう。
あてがわれた貴賓室の隣の部屋は、寝台が二つある寝室が三部屋もあった。
露台や窓の有無以外に部屋に設いの差は見られなかったが、窓が、天窓しか無い部屋は使用人用なのかも知れない。
「紳士過ぎて、正直難攻不落……」
「あら残念。素敵な恋愛話が聞けるかと期待したのですけど」
「その辺りは、レイナの体験が素敵すぎて叶いませんって」
「あれは憧れますよねぇ」
モネの然も知っているかの話しぶりに、サクヤは驚いた。
「まさかハイネが話して……」
「歌劇になってますよ?今度観に行きましょうか」
キラキラした瞳でモネに言われて、サクヤはむせた。
「ちょ、サクヤさん、大丈夫ですか?」
「うっわぁ、恥ずかしい……」
サクヤは顔を覆った。
顔が熱い。
「……案外、レイナさまなのですね」
モネが面白そうな顔で呟いた。
「どういうこと?」
「会ったことは無いですけど、って、知ってますよね。……いえ、お祖父ちゃんやお祖母ちゃんが語る『レイナさまってこんな人』像に、符号したので」
「どんなレイナなんだか……」
アリアンナはともかく、ハイネが何を孫に語ってるかは、ある意味恐ろしくもある。
温泉 後 に続く
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