□月星暦一五四三年四月⑤〈裏書き〉
街に着くと、イディールはセルを街区神殿に連れて行った。
「何故、神殿……?」
「お金を借りるなら神殿になさい。一番良心的な金利で貸してくれるわ」
一般に知られていないことがイディールには不思議だった。高利貸しが情報を掻き消しているのかも知れない。
まだ不思議そうな顔のセルに、辛抱強くイディールは説明した。
「私、親が死んで暫く神殿で生活していたから知ってるの」
神殿の教育にあったのだ。
社会に出てお金に困っても、高利貸しにだけは手を出すなと。
窮地の時は神殿を頼りなさいと口を酸っぱくして神官長は言っていた。
「全うな理由と、身許がしっかりしていて、保証人がいれば神殿出身者で無くても貸してくれるのよ!」
つまりはイディールが保証人になることを意味する。
そこまでしてやる義理は無い。だがもうイディールはセルのことを放っておけなかった。
いい加減認めよう。
もう、とっくにイディールはこの青年に絆されている。
対応に出てきた神官に事情を話すと、神官は当然身分証明書の提示を求めてきた。
二人分の身分証明のうち、イディールのものの、更に裏書きを見た神官の顔が青褪めた。
神官長を呼び、小声で何やら話し込んでいる。
「何かまずかったかな?」
不安気なセルに絶対に大丈夫だからとイディールは目配せをした。
イディールの身分証明書の裏書きーーそこには二人の人物の署名と印、そして一筆が記入されている。
一人目の記載者は竜護星国主レイナ・ヴォレ・アシェレスタ。
『サラ・ファイファーの身許を保証する。この者が問題に見舞われた時は竜護星に問い合わせをされたし』と書かれていた。
もう一人の記載者は月星の王子、アトラス・ウル・ボレアデス・アンブル。
『タビスの名に於いて、この者には便宜を図れ』という内容が記されている。
後者の記述は、神殿の者にとっては女神の言葉に等しいだろう。
結果、充分な額の借り入れとほぼ無利子に近い金利と通常の倍近い返済期日をもぎ取ることが出来た。
三万セレナは現金で、他は五枚に分けた小切手で受け取った。
「良かったわね」
結果に満足するイディールとは裏腹に、セルの顔は怯んでいた。
「サラ、君は何者なの?」
「私はサラ・ファイファーよ」
今のイディールにそれ以上に話せることはない。
「その裏書きには何が書かれているの?」
イディールは言い淀んだ。
この裏書きは、特に月星では便利すぎる。
欲深い人間に露見すれば、命に関わりかねない。
「言えないわ……」
「……ごめんね。君が見せたくないなら詮索しない」
すんなり引くセルにイディールの方が戸惑いを覚えた。
「どうして……?」
お金や欲が絡めば人は容易く態度を変えることを、イディールはさすがに学んでいる。
「前にも言ったけど、君が好きだからだよ」
不器用に微笑みながら、セルは告げた。
「恩人でもある君に無理強いをして、嫌われたくないんだ」
あまりに直截に、不意打ちの告白をされてイディールは顔を赤らめた。
(どうしてこの青年は、状況も考えずに、会話の中にそう言うことを突っ込んでくるのかしら?)
「……ありがとう」
それでもイディールは答えなかった。
「理由は聞かないでくれると嬉しいわ。そして、二度目はないことも肝に銘じてね」
特例だとレイナが退職金代わりに書いてくれた裏書きと、御守りだとアトラスが加えてくれた裏書きだが、こういう事に使うつもりは無かった。
本当にこれっきりと釘を刺した。
店が持てる目処がつかなければ告白も応じる気は無いと、この時は聞かなかったことにした。
※※※
人にはどうしても向き不向きというものがある。
セルは人当たりがよく、時には厳しくと、現場を取りまとめるのは上手かった。
工場でも製品を良くするための調整などは感覚的に判るようだったが、事務所での金勘定や書類仕事はからきしと言って良い。
交渉ごとにも向いていない。
必然的にイディールが受け持つことになった。
ワーカーの従業員は予想通り大半が辞めて行ったが、優秀な人材を確保出来ていたため問題はなかった。
神殿は職業訓練所を兼ねている。事業に相応しい人材の斡旋も頼んでおいた為だ。
信用できる優秀な人ばかりが集まったことに、裏書き効果があったのかは『神のみぞ知る』である。
返済が出来なくなったらアトラスに請求がいくのだろうか。
その場合、神殿は果たしてタビスに請求する胆力はあるのだろうか。
そんなことを思ってしまう時期もあったが、セルは真摯に働いた。
期日の三分のニ程度で全て返済し、事業も軌道に乗った。
なんとか利益が出るようになった頃に、改めてセルはイディールに求婚をしてきた。
三十歳を間近の歳増で生娘でも無いが良いのかと、イディールはさすがに尋ねた。
言葉を紡ぎながら、過去の愚かな自分とゾーンを呪った。
「僕は君が良いんだ」と真摯に言われて、イディールは折れた。
セルと夫婦になることを承諾した。
※※※
【月星暦一五八六年二月】
名をセルの姓ハルスを名乗る様になってから四十年間。
あの裏書きを使う事は二度となかった。
今はただの文字通り御守りとして、持っているに過ぎない。身分証明は旅券で事足りる。
セルとの間には娘を一人授かった。イディールによく似た髪とセルの瞳を持つ子供だった。
今やハルス商会と言えば、そこそこ名の通る大店にまで成長した。
一昨年亡くなった夫、セルに代わって、娘夫婦が主体となって回している。
※※※
ジェダイトの街を荷馬車で逃げ出してから五十年。
イディールはジェダイト改めテルメの街に来ていた。
来週には五十周年の終戦記念式典が催される。
さすがに身の上は話していないが、この街で生まれ育ったことは家族も知っている。
ここが故郷と言っても、子供世代は「そうなんだ?」としか言わない。
そういう時代になった。
セルがイディールの生立ちを尋ねる言葉を口にしたことは一度もなかったが、もしかしたら気づいていたなかも知れない。今となっては知る術もないが。
家族を先に宿に行かせてイディールはテルメの中央広間に来ていた。
かつて城前広場と呼ばれたその場所には慰霊碑が作られ、戦没者の名前が分かる限り刻まれている。
イディールの名は刻まれ、サラの名は無い。
メランの名も無い。あの後うまく逃げ延びたのだろう。
慰霊碑を見守るような位置には、親子程の歳の差の二人の男性が握手をしている彫像があった。
二人の顔はよく似ている。
イディールは花を捧げてお祈りをすると、彫像と牌とは中央の噴水を挟んだ反対側のベンチに座った。
ぼんやりと参拝者を眺めていると、やけに美しい所作で、慰霊碑に追悼の祈りを捧げる背中を見つけた。
背の高い、その男性の背格好には見覚えがある。
連れの女性と別れた男性は、暫く慰霊碑を眺めていたが、イディールの座る隣のベンチに来ると腰を下ろした。
青みがかった砂色の髪には艶があり、青灰色の瞳で像を見上げる顔は、記憶にあるものと殆ど変わらないように見えた。
胸が早鐘をうつ。
まさか会えるとは思っていなかった。この場所で遭えたことがイディールは純粋に嬉しかった。
「左はジェイド最期の王、ライネス様。右はアンブルの王、いえ、もう退位されたから前王だね。その、アウルム様の像。街の有志がお金を出し合って作った彫像だそうよ」
イディールはなるべく彫像の方を見ながら、心の内が乗らないのように注意して男性に声をかけた。
「名無しの王女」完
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完とはしましたが関連する閑話三話と
サクヤの閑話を挟んで
次章「翡翠の残響」、終戦五十周年
元王様と元王女とタビスが揃います。
宜しくお願いします
引き続き宜しくお願いします。




