□月星暦一五四三年四月①〈アンナ〉
リメールの食堂『羽魚亭』には大きなお腹を抱え、背中に幼子を背負って、食堂を回しているアンナの姿があった。
記憶より肉付きが良くなり、弾けるような笑顔を振りまいていた。
店に入って行ったイディールを目にして一瞬呆けると、アンナはガバっと抱きついてきた。
「サラ!無事でよかったよ。連絡途絶えちゃうしさ」
宛先不明で手紙が戻ってきてびっくりしたんだからと、アンナは頬を膨らませる。
「前の職場はクビになっちゃった」
「はあっ!?」
呆れた声がアンナから漏れる。
「ちょっと、詳しく話しなさい!」
残念ながら詳しいことは話せない。だが嘘ではない理由をイディールは口にする。
「お屋敷からの推薦って形で、王宮の女官になったんだけど、花瓶割っちゃってサヨナラ」
「……あんた、何やってんの?」
唖然とするアンナに、イディールは笑顔を向けた。
「それより、なにか食べさせてよ。お腹ペコペコなのよね」
「あ、うん」
手近な席にイディールを案内すると、アンナは奥のテーブルを拭いていた恰幅の良い女性に声をかけた。
「おかあさ〜ん、休憩入って良いかな?友達来てくれたんだ!」
「良いよ、もう履けてきたし」
彼女がこの店の女将なのだろう。
昼食時のピークは過ぎて、空席が目立ち始めていた。
アンナは二人分以上に見える量の料理を運んで来ると、自分も席に着いた。
「これは絶対食べてね。うちの看板料理」
見た目はオムレットだが、下に何かある。捲ってみるとピラウのような米料理が出てきた。
「オムレットがけピラウ?」
「なんか併せたら受けが良いんだって。米は炒めて水分飛ばしてんだ。炒飯っていうらしいよ。『タビスの台所』にあった料理をうちの旦那がアレンジして……」
そこでアンナは言葉を切った。イディールが昔タビスの話で大泣きしたのを思い出したのだろう。
「大丈夫。タビスには実際に会って心の整理はついたから」
「会った?タビスに!?」
「ええ。勤めてたお城の王様が婚約者だったから、機会があったの」
「はぁ……、凄い偶然……」
アンナの眼差しに憧憬が混ざった。
「ご結婚された時、リメールの港からの出立だったから、一目見ようと港は大騒ぎだったんだよ」
根本的にタビスは月星人にはそういう存在なのだ。
「で、どんな人だった?」
「昔アンナの言った通りだったわ。タビスも色々あったみたいで、泣いて苦しんで笑ってちゃんと人を気遣える、等身大の人間だったわ」
言ってしまってから、タビスは神秘的な印象の方が良かったかとも思ったが、アンナは「人間臭い方が親しみがある」とむしろ歓迎の雰囲気だった。
「それより『タビスの台所』って何?」
アンナは一度奥に入り、紙の束を持ってきた。
巷で大人気なんだよ、と見せてくれたものには一枚一品目ずつ料理のレシピが印刷されている。
図付きで作り方から、味や由来の説明、使われる食材や香辛料の効能紹介、月星でも食べられる食材での代用がアレンジが記載してあった。
「タビスが旅の間に見つけた料理らしいよ。一枚一ディアナで、食材屋や薬屋、惣菜屋やうちみたいな食堂とか、各所で売られている。集めると紐で束ねて冊子にできるんだ」
これも、アトラスが言っていた『食卓を豊かに』という、アウルムが考えている目標の第一歩なのだろう。
月星が活気づいて来ているのを実感するとやっぱり嬉しい。
アンナが運んできた食事はどれも美味しかった。
港の労働者向けの店ということもあって、どれもしっかり目な味付けになっている。量もあったが、話しながら気付くと二人でペロリと平らげてしまった。
ぐずってきた子供を膝の上で抱き直してあやすアンナを見て、イディールは顔を綻ばせた。
「アンナは、もうすっかりお母さんね」
「そうそ。アレが旦那ね。カジキっていうの。イイ男でしょ」
アンナが示す先には、背の高い料理人がいた。
イディールの視線に気付くとペコリと会釈が返ってきた。
先程の女将の息子だろう。目元と鼻のあたりが良く似ている。
「で、サラは今はどうしてるの?」
「自分探しの旅の途中、かな?」
「なにそれ?」
ふと外を見ると、『閉店』が掲げられている扉の向こうでうろうろしている、見知った人影が見えた。
「アンナ、あの人どう思う?」
「あの不審者?」
行動だけ見れば確かに不審者に見える。
「私を探して来たのよ。ここに行くって言っといたから。あの人、塩の行商人でね。縁あって、リメールまで一緒に来たんだけど……」
「ふぅん?」
アンナがにんまりと笑った。
「どれどれ、アンナさんが見定めてあげよう」
アンナは子供をイディールに押し付けると、張り切った足取りで扉に向かって行った。




